第5話 襲撃(1/2)
翌朝、いつも通りの時間に出勤した僕は雑務や授業の準備をしていた。
昨日が昨日だけに、当面降りかかるであろう仕事の総量を減らしておきたかったのもあるが、名誉挽回の意味もある。
一段落ついたところでパソコンから目を離していると、教頭がじっとこちらを見ているので、挨拶のために急いで椅子から立ちあがりかけると、僕と目があった教頭は苦虫でも噛み潰したような表情をして、自分の席に行ってしまった。
(当てにしていた人間が、その日に限っていないんじゃ、そりゃあ無理もないか…。)
仕方なく椅子に座り直そうとしたところ、
「彼はああいう人だから、気にしないほうが身のためよぉん。」
「おわっっっ。」
背後から
今日はソウルトレインを彷彿とさせる服を着て、相変わらずの存在感を放っている。
それにしても、気配が全く感じられなかった。
彼女は僕の様子にご満悦のようで、からからと笑う。
「おほほほほ、甘いわね。仕事場にいるなら常に緊張しておかないと。」
一笑いした彼女はそれだけ言うと、コーヒーマグを片手に自分の席に行ってしまった。
残されたのは、ハワイのフレーバーコーヒーの香り。
この独特な香りが登場の予兆であることを肝に銘じ、僕は目の前の仕事を済ませた。
朝の打ち合わせの内容は昨日の三つの事項の徹底に加え、数日中に業者が校内整備に入るというものだった。
さらに顧問の監督を条件に、昼休みの部活動を行うことが可能となった。
どうやら大事な試合を控えたバスケ部の顧問から、昨日のうちに嘆願があったらしい。
「柔道部はどうしますか?」
職員室前の部活動掲示板の前、僕は武道場の一階と二階をそれぞれ使っている大隈先生に確認する。
「当面の方針について部員から意見を聞きたいので、今日は集まります。剣道部は?」
「同じくです。昨日があれですから、個々の部員の様子も確認したいですし。」
「そうですな。メンタルケアが必要かもしれません。良い機会ですから、僕も部員とゆっくりと世間話でもしてみましょう。」
直後、彼は何か思案するように頭を捻る。
「こういう難しい事態が起きたからこそ、心と体を見つめ直す良い機会にしましょう。」
温かな笑顔を作ると、彼は一階の一年生の教室へ授業に行ってしまった。
「お昼休みに武道場集合ですね。部員に連絡しておきます。」
一時限目終了後、僕は三年一組にいる小日向に今朝あったことを伝える。
どうやらクラスでの彼女は、きちんと校則通りの余所行き姿が出来ているようだ。
「急な話だけど、よろしく頼む。ところで小日向、昨日はちゃんと体育館に行ったか?」
「はい。大変不服でしたが、純子ちゃんに言われて泣く泣く。
せっかく作った真面目な顔が一気に崩れ、子どもらしい不満げな表情が顔を出す。
「純子ちゃんのお手伝いも、もう少ししていたかったのに。」
「それでも昨日は急場に手があって、榎田先生も助かったんじゃないか?ひとまず頼んだぞ。」
「はーい、任せてください。」
榎田先生の助けになったかも、という部分で、急に彼女の表情が誇らしげなものに変わった。
相変わらず表情の変化が早い。
百面相とはこのことを言うのだろうか。
僕は次の授業の準備のために職員室へ戻る。
次の授業の算段を付けながら、ぶらりぶらりと三階の中央階段に足をかけようとした、その時である。
「きゃーっ。」「わぁーっ。」
階下から悲鳴が上がった。
僕が駆け足で二階に降り立つと、南側階段の方から逃げてくる生徒に何度もぶつかった。
顔面蒼白のまま、少しでも遠くへと夢中になって走り去る子、悲鳴を上げて別の階へ逃げる子、躓き転んで泣き叫んでいるところを助けられている子と、まるでパニック映画さながらの混乱だ。
僕は目の前で座り込む生徒を介抱して、近くの教室に駆け込むように誘導する。
「邪魔だぁ!関係ない奴ぁどいとけぇ!」
咆哮と硬質な物同士がぶつかる音。
目を向けると、白地に金のラインが入ったジャージを纏い、木製バットを担いだ金髪の男が廊下のど真ん中を堂々と闊歩していた。
白ジャージの男は教室の壁を木製バットで殴り付け、周囲を威嚇する。
ドォンと太鼓を打ち鳴らすような音に、フロア全体から悲鳴が上がる。
(一体なんだってんだ!)
姿勢を低くしたままフロアの前後を見渡すと、背後の教室に逃げ込めた生徒が様子を確認するために首を出していた。
その教室の目の前には、その場でうずくまっている生徒が多数いた。
「この子たちを早く教室に!急げ、何でもいいから引っ張れ!」
僕が様子を覗いている生徒に怒鳴ると、表情を強張らせた生徒が教室から数人飛び出し、動けない生徒を教室に引きずり込んだ。
直後、びたんっと教室のドアが鳴る。
「何だぁ!てめえは!」
横に薙いだ木製バットが空き教室のドアのガラスを破った。
(相手はもうすぐここまで来る!目的はなんだ?)
「こっちが聞きたいね。おたくさんこそ誰だよ。」
「あぁ、うるせえよ!水内の野郎はどこだぁ!」
(水内先生?てことは、職員室が目的か。)
中央階段から職員室まで残りざっと教室三つ分の距離、廊下に生徒はいない。
こっちに武器は…ない。
「邪魔だってんだろ、うおらぁ!」
白ジャージの男は木製バットを右肩に担いで僕に近づくと、勢いそのままに振り下ろした。
僕は右斜め後ろに大きく一歩半下がる。
目標物に命中せず、獲物が空を切る。
鈍い音が床面から響いた。
「躱してんじゃねえよ、おらぁ!」
続けて、男は下から強引に斜め上へと振り上げた。
僕はまたしても大きく一歩半後ろに下がる。
木製バットは昨日ガムテープで補強された窓ガラスに当たり、派手にガラスを飛び散らせた。
(これは当たり所が悪いと…。)
したくもない想像が頭によぎる。
大雑把に振り回されるバットを距離だけで抜いていくと、どうしても相手が職員室に近づいてしまう。
しかし、こちらにこの男を止める術はない。
出来ることは何とか躱し続けて、武器を持った応援、もしくは警察が駆けつけてくれることを祈るしかない。
壁を叩く鈍い衝撃音と派手に割れるガラスの音が何度も繰り返されると、白ジャージの男は次第に足取りが重くなり、肩で大きく息をするようになった。
既に中央階段から教室二つ分の距離を暴れていているのだ。
疲れないほうがおかしい。
「こんなことするのはやめよう。今ならまだ間に合うから。」
回避に神経をすり減らしている僕にとっても、時間を稼ぐなら今しかなかった。
「あぁ、邪魔なんだよ…てめぇ、水内は…どこだってんだろ!」
「水内先生が何をやったんだ!少しでもいいから話してくれよ!」
白ジャージの男がこちらを睨みつけながら黙る。
彼の口が僅かに動くかと思われた次の瞬間、
「そんなやつ早くやっちまえ!」「何やってるのよ!早くしなさいよ!」
背後の職員室から響く汚いヤジ。
後ろを振り向くと、安全な職員室から半身だけ出した他学年の先生だった。
(なんて身勝手な…。)
「てめえらの顔も忘れてねぇぞ!」
白ジャージの男は、渾身の力を込めて吠える。
どうやら僕がカチンときた以上に激高したらしい。
当の野次馬たちはこれに委縮し、即座に職員室に引っ込んだ。
男は徐々に呼吸を整えると、木製バットをゆっくりと右肩に担ぎ、狙いすますように僕を睨みつけた。
ぞくりとした感覚と共に、背中に嫌な汗がじわりと広がる。
(今度は二歩、いや三歩分は下がらないと。いや、別の手段…。)
左の拳を握りかけたところで、僕の思考は強制的に中断された。
「何をやっとるかぁ!!!!!」
突如、雷が落ちたような爆音がフロア全体に響く。
(衝撃の先は…、目の前⁉)
僕は心臓の鼓動を耳に感じながら、即座に声の発生源を探る。
すると、犯人の後方から閻魔大王のような形相をした大隈先生が、ゆっくりと近づいていた。
比喩などではない、眼前にあるは緑色の障壁。
分厚い城壁、何人たりとも逃がさんとする力場そのもの。
そこから放たれる威圧感たるや、圧倒的な力に押しつぶされる、まさに言葉通りの感覚だ。
本能的に死を覚悟させる威圧感に、気づけば僕の脚は竦んでいた。
偶然進路上にいただけの僕がこうなのだから、攻撃対象となっている男の感じている恐怖は計り知れない。
その証拠に白ジャージの男は、どすりどすりと近づいてくる緑色の巨人に威圧されたようで、ピクリとも動いていないようだ。
だが、教室一つ分の距離まで近づかれると意を決したのか、力強くバットを握り直した。
男は、震える体に喝を入れるように叫ぶ。
その咆哮は手負いの獣を思わせた。
(まずいっ…!!!)
僕は咄嗟に室内履きを脱ぎ、男に投げつける。
この威圧感の主にそんなものは必要ないと頭では分かっていたが、それでも相手は武器持ちだ。
もしものことがある以上、一瞬でも気を逸らせれば、という思いだった。
投げつけた室内履きは力なく宙を舞い、男の背中に当たると音も無く床に落ちた。
きっとダメージカウンターがあるならば、表示はゼロに違いない。
白ジャージの男は、般若のような形相でこちらを振り向く。
だが、それから先は文字通り一瞬だった。
丸太のような左腕が男の右腕を掴んだと思うと、白ジャージの男は前方に文字通り吸い込まれた。
風に巻かれる枯れ葉のように、前方の虚空へ男の体が巻き込まれる。
次の瞬間、子どもに扱われる人形のように、男の両足が力なく宙を舞った。
びたんっ
激しい音が鳴ったかと思うと、白ジャージの男は痛みに声も出せないまま、けさ固めを食らっていた。
「お前…タケシか!ミナミザワタケシか…!」
僕が衝撃的な光景に面を食らっていると、狼狽する大隈先生の声。
だが、その声とは裏腹に彼は相手をがっちりと固めているため、男は声が出せないようだ。
それに気づいた先生の全身からこわばりが緩んだと見えた時、
「警察が来ます!そのまま抑えて!」
職員室から絶叫にも似た警告が廊下中に響き渡った。
その声に気を持ち直したのか、ミナミザワタケシを取り押さえる先生の体に改めて力が入れ直される。
しかし先程と異なり、その体からは寂しさや虚しさとも取れる感情が発されていたと同時に、これ以上体を痛めない加減が加えられているようにも見えた。
程なくして校舎の外が騒がしくなり、投げられた痛みで全身の力が抜けているミナミザワタケシが警察に引き渡される。
犯人を取り囲む一団が職員室の前を通ろうとするとき、ちょうど水内先生が顔を出した。
何やら見世物を見ておこうとでもいった、軽率な雰囲気を纏っているように見える。
その目つきは普段と変わりがないが、見下すような何かを含んでおり、口元はあざ笑うかのように歪んでいた。
そんな様子を、警察官に取り囲まれ下を向くミナミザワタケシは感じ取ったらしい。
「水内!てめえ許さねえ!サヤカに何しやがった!コダマさんの事も絶対に、絶対に許さねぇぞ!」
先ほどまでの大人しさから打って変わって暴れ出す。
それを見た水内先生は興が削がれたと言わんばかりに、静かに職員室の奥へと消えていった。
「危ないところをありがとうございました。先生は命の恩人です。」
「そんなことないです。大したことじゃありません。」
大隈先生は照れ臭そうに頭をぽりぽりと掻く。
「それよりも鷹村先生が時間を稼いでくれたから、生徒に危険が及ばなかったんです。お手柄なのは鷹村先生ですよ。」
ただ躱すことしか出来なかった僕を先生は褒めちぎる。
そう、あれしか出来ないこの僕を。
避け続けるしか能のない情けない僕を。
「失礼します。署で事情聴取をお願いしたいのですが、先生方はお時間よろしいですか?」
すっかり気が抜けて廊下に胡坐をかいて話している僕らに、若い警察官が話しかけてきた。
僕らは即答していいか判断しかねるので、互いの顔を見合わせる。
「君たち、今日はもういいから警察の方に協力しなさい。事後の処理はこちらで行うから。」
職員室から
ずんぐりむっくりとした中肉中背に、薄いグレーのスーツを着ているので、一瞬岩が動いているように見えたのは内緒だ。
彼は警察官に折り目正しく、一部の隙も無い一礼をすると、
「本校の校長の芦名です。昨日からご迷惑をおかけして大変申し訳ありません。どうぞ彼らを。」
異議を挟む余裕すらなく、僕らは警察に引き渡された。
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