第3話 騒動(1/2)
「次は
きゅっと強めのブレーキに体を揺さぶられ、僕は目を覚ます。
繰り返されるバスの車内アナウンスで、いつものバス停を寝過ごしてしまったことに気づいた。
(久しぶりにやってしまった…。)
元凶は、最低でも始業時間の一時間前に出勤しようと、初日に決めた僕にある。
全ては『勤勉に働けます』というアピールのためだ。
もちろん、やり過ぎの感は否めないと思っている。
だが、朝早く出勤して仕事しただけで印象が良くなるならば、儲けものではないか。せめて、せめて、この程度のことくらいだけでも、何かを積み上げておきたいのだ。
ただ、今日に限っては完全な失敗だった。
試験勉強も佳境に入り昨晩気合を入れたせいか、眠ったのは深夜一時を過ぎてからだったと思う。
それなのに、起床はいつも通りの五時過ぎ。
結果、普段空いていない席に座ったが最後、ご覧のありさまである。
下車を知らせるチャイムが鳴らないので、僕は寝ぼけ眼で下車ボタンを押下する。
直後、バスはぐっと背もたれに押し付けられるような急発進をして、坂をゆるゆると上っていった。
(この運転手、割と荒っぽい運転するんだな。いつもこの坂の前で降りているから分からなかった。)
いつものバス停から二つ後、
真新しい小さな屋根のついたバス停である。
バス停の真後ろに立った案内板によると、ここは一昔前に山を切り開いた住宅地の入り口らしい。
反対車線見えるバス停には、やたら立派な一本の樹が見えた。
どうやら地域のシンボルにもなった名のある桃の樹らしく、ご丁寧に立札まで立っているようだ。
(朝から上り調子といかず、下り坂なのがなんとも情けないね。)
そんなことを思って踏み出した一歩目は、砂粒に転がされ滑ってしまった。
(これぞまさしく滑り出し、ではないな。)
ため息を一つ。
…慎重に行こう。
坂を下る一本道は、今まさに繁栄せんとする青々とした若葉で一杯だった。
山を切り開いた道だけあって、随分と植生が豊かなようである。
桜の木が見えたと思えば、その奥には青竹が鬱蒼と茂っていた。
夏になれば昆虫が集まりそうな立派な木々も生えている。
歩道と車道を分ける形で植えられているサツキには、蔓草が景気良く絡まっていた。
空を見上げると、薄曇りから漏れる陽の光で透けた若葉が美しい。
背景の灰色に若葉色が映えている。
だが、僕は綺麗だと讃える気持ちとは別に、恨めしいという感情が湧いていることに気づいた。
(自然にまで嫉妬するようになっちゃ、お終いだね。)
周囲に歩行者がいないことを確認して、自嘲するように肩をすくめる。
わざと大きくため息つくと、僕は気を取り直して坂を下り始めた。
いつものバス停から一つ後、坂の下。
スマホに表示された時刻は、既に始業時刻一時間前を過ぎていた。
だがここから学校までは目と鼻の先で、その証拠に僕の右手には防球ネット越しに学校のグラウンドと体育館が見えている。
ぐんぐんとまっすぐ道を進んでいくと、目の前には人だかり。
その場所は、学校の正門辺りだろうか。
今いる位置から、右に曲がってすぐの所だ。
明らかに物々しい雰囲気が醸し出されている。
(近隣住民に…うちの生徒?なぜ学校に入らないんだ。野次馬根性か?)
前方から来たパトカーが左折して、正門前に停車する。
僕は自然と小走りになる。
野次馬をかき分け、正門に辿り着くとそこには―、
窓ガラスが割られ、一階の壁にスプレー缶で落書きされた
現実離れした光景に、僕は息を飲んだ。
昨日は確かに何の変哲もない校舎だった。
生徒が自由に開け閉めしていた、どこにでもある校舎の窓が昨日までそこにあったのだ。
だが、今は半分以上のガラスが無惨にも割られている。
漫画の吹きだしのような模様で割れた窓が大半だ。
なんとか昨日を保っている三階の窓ガラスとの対比がひたすら痛々しい。
校舎の壁には、スプレーによってでかでかと描かれていた時代錯誤な言葉の数々。
白塗りの
「鷹村君!ちょっと、鷹村君!」
僕が凄惨な光景に目を釘付けにされていると、パーマ頭に、シアン、マゼンタ、イエローのサイケデリック柄のボウリングシャツを着た細身の女性に声をかけられた。
「おはようございます。
「はい、おはようございます。そんなことよりあなたも早く動いて。悠長に構えてられる状況じゃないのは分かってるでしょ?夢見がちで惚けていられちゃ困るのよ。」
彼女は気の抜けた返事の僕を咎めた。
仕事に切り替えなければ、と思った僕はぴしゃりと両手で頬を叩く。
「すみません。ここ、手伝いますか?それとも職員室で指示を貰ったほうがいいですか?」
「職員室に教頭がいるからそこで指示をもらいなさい。ここは生徒の誘導だけだから、私だけで十分よ。」
僕に周囲の状況を確認させるように左右を順に指差してみせた。
「分かりました。他に何かあります?」
「校内に生徒が入り込んでいたら、体育館に連行しちゃって。ガラスで怪我するといけないからね。ユー、コピー?」
「ん?アイコピー。」
僕は意外な振りに驚いたものの、即座に返した。
返答に満足そうな先生は、僕の背中をポンと押す。
いってらっしゃい、と言わんばかりだ。
僕は押された勢いのまま、三年生と教員が利用する北側昇降口へ向かった。
細かいガラスの破片が散乱している昇降口で革靴を履き替え、一階の様子を見ると、鑑識と思われる人たちがテキパキと動き回っていた。
交通事故の現場検証に立ち会ったことがあるが、まさにそれと同じ光景が目の前に広がっている。
学校で起こる出来事とは思えない異常な光景に、僕は再び息を呑む。
だが、中道先生から押された辺りから『そんな暇はない!』と急かされた気がしたので、北側階段を駆け上がり二階の職員室へ向かった。
二階は北側階段から家庭科室、空き小教室、資料室、校長室、職員室の順となっている。
配置の都合上、中央階段から上がったほうが職員室の入り口は近いのだが、今の一階は警察が入っているので仕方があるまい。
職員室に入る前に二階の廊下を見通すと、警察官が引き上げの準備をしているように見えた。
どうやら急いだほうがいいらしい。
「遅い!!!」
僕がドアの引き手に指をひっかけ、勢いよく職員室に入った途端、こちらに気づいた教頭は職員室中に響かんばかりの甲高い声で僕を怒鳴りつけた。
「…おはようございます。
あまりの声量に圧倒された僕は、それしか答えられなかった。
「どうしてこういう時に遅刻をしてくるんだ!まったく使えない奴め!毎日早く出勤しているかと思えば、すぐこれだ!使えるやつかと思えば、肝心な時におらんではないか。まったくこれだから臨採は・・・!」
禿げた頭頂部をばりばりと掻きむしりながら、教頭はまくし立てる。
正直な話、途中から何を言っているのかはっきり聞こえなかった。
そもそも遅刻ではないのだが、この様子では弁解を挟む余地も無さそうだ。
「体育館に生徒を誘導しているようですが、僕もそちらでよろしいですか?」
返事をするように浮き出ていた青筋がピクリと動いた。
教頭は、なぜ知っていると言わんばかりに僕を睨みつける。
「君はまず保健室に寄って、中の様子を確認しろ。気分を悪くした生徒が多いそうだ。次に体育館に行ったら、責任者の
言葉には随分とドスが効いていた。
五十過ぎの痩せた小男がドスを効かせたところで滑稽なだけだと思うが、それを態度に出してはいけない。
「分かりました。すぐ向かいます。」
僕は即座に回れ右をして、教頭の前から立ち去った。
「仕事を増やしおってからに、あああああもう!!!!!」
背後から甲高い独り言と唸り声が響いた。
こういうものに反応してはいけない。
触らぬ神にというやつだ。
職員室から出ると、来た道を戻り北側階段から一階に降りる。
階段を降りてすぐ右手を見ると、北側昇降口の真ん前に保健室のネームプレートが見えた。
保健室のドアには、『なんでも相談。ドンと来い!』と張り紙が貼られている。
太い油性マジックだけで書かれたワイルドな仕上がりだが、相談自体は生徒からも評判が良いらしい。
「失礼します。榎田先生いますか。」
保健室には目測で十人ほど生徒がいた。
床に座って壁に体を預けている生徒、部屋の隅で仰向けになっている生徒を見るに、ベッドは既に一杯なんだろう。
まるで野戦病院だ。
その中を、銀縁の細いリムの眼鏡をかけ、長い髪を後ろでゆるくまとめた白衣の女性がキビキビと動き回っていた。
彼女は白衣をふわりと翻して、こちらに振り向く。
「鷹村君か、ちょうど良かった。甘いもの配り手伝って!さっきまでいた保健委員の子が出払っちゃっていてさ。」
彼女は素早く僕に近づくと、自分の持っていたお菓子の袋を僕に手渡した。
「そこの勝手口から出たところにも生徒がいるから、その子たちにもよろしく!」
顔の前で『ごめん』とジェスチャーを作ると、彼女は壁際でうずくまっている生徒に問診を始めてしまった。
流れるような手際に僕は断る隙を見つけられなかったが、こんな状況だ。
快く手伝うのが筋である。
教頭からのおつかいもある手前、僕は手際よくお菓子配りを終えた。
「いやー、助かった!ありがとう!朝から一息もつけなかったの。」
感謝の言葉と共に頭を軽く下げると、榎田先生は机に腰かけた。
「椅子は生徒に使っているから、お行儀悪いけれども許してね。」
彼女は悪戯が見つかった子どものような笑みを作る。
「緊急事態ですからね。机みたいな椅子が生まれることもあるでしょう。僕はそんなこと気にしませんよ。」
「その柔軟な姿勢、素晴らしいわね。せっかくだから、お茶一杯飲んで行ってよ。そろそろ保健委員の子も戻ってくると思うから。」
「ありがとうございます。では、一杯だけ。ところで、現状の保健室の状況を伺っていいですか。この後体育館に行って、報告しないといけないんですよ。」
僕は当初の目的を伝える。
「ちょっと待ってて。」
先生は机の上のメモ用紙を一枚引っ張り出し、ボールペンでさらさらと要点を書き始めた。
「はい、これでよろしく。」
読みやすく且つ簡潔なメモを渡されたと同時に、ドアが景気の良い音を立てて開いた。
「純子ちゃん、お湯二つ貰ってきたよ!」
僕が赴任して早々に顧問を任された剣道部のマネージャー、
「先生、おはよー。」
まさに明朗快活だが、言葉遣いに厳しい指導が入るこの学校では非常に危ういフランクな挨拶。
「おはよう。部活中ではないから、態度は崩さない方向で頼む。」
「あっ、そうか。すみませんでした。以後気をつけます。」
「校内だけは、な。以後気を付けてくれ。」
彼女は大袈裟に恭しく返事をした。
あまり生産的とは思えないこの学校の生徒指導に、この子が引っ掛からなければよいのだが。
「二人とも顔見知りだったのね。櫻子ちゃん、お湯こっちにもらえる?」
彼女からポットを二つ受け取った先生は、何やら手際よく器具を揃え始めた。
そして、茶葉や謎の粉末を机の引き出しから取り出し、目分量で豪快にポットの中にぶち込み始める。
「鷹村先生、今のうちに報告していいですか。」
榎田先生の作業が気になって仕方ない、と目が語っている小日向が僕の前に来た。
「今のところ剣道部は、男子も女子も体調を崩した子はいません。みんな体育館で待機してます。」
僕は気になっていたことが一つ解決し、胸を撫で下ろす。
「ありがとう。仕事が早くて助かるよ。小日向はあれを見て大丈夫だったか?」
「はい、大丈夫です。でも、クラスの子たちはショッキングな光景だったらしくて、結構ダメージ受けちゃったみたい。だから、私も朝から忙しくって。」
彼女の屈託のない笑顔を返ってくる。
だが感謝されて気が緩んだのか、口調がフランクに戻ってしまった。
時間がもったいないので、ここはスルーだ。
「体育館の様子はどうだった?」
「先生たちは怖い顔してピリピリしてました。でも、生徒が気分悪くなるといけないからっていう理由で、今はリラックスして待機ーみたいな感じかな。」
(あの軍隊みたいにきっちりと整列させる、いつもの状況ではないのか。こりゃ本当に緊急事態だな。)
僕が小日向に感謝すると、「イェイ」と彼女はピースサインを返す。
そんなやり取りをしていると、保健室に独特な香りが漂い始めた。
「チャイが出来たぞー。二人とも配給手伝ってー。」
紙コップに注がれたチャイを三人で配っていく。
温かいものを胃に入れると気が緩むのだろう、気分を悪くしていた生徒はほっとした様子で、小さく笑顔がこぼれていた。
「最後に、ハイこれ。お疲れ様でした。」
配り終えて一息ついていた僕に、榎田先生からチャイの入った紙コップが手渡される。
「ご馳走様です。」
僕はカップがちょうど良い熱さになっていたので、一息で飲み干した。
独特な香りと程よい温かさと甘さが体に沁み込んでいく。
思わず朝から溜まっていた何もかもが、息と一緒に外に漏れ出す。
「駆けつけ一杯って訳じゃないんだから、焦らなくていいのに。」
先生は腰に手を当て呆れている。
「温度がちょうど良かったので、つい。おかげで元気出ました。ご馳走様です。」
「それは良かった。あなたにはまだ仕事があるのに、お引止めしてごめんなさいね。」
彼女は右目でウインクしつつ、小さく右手で『ごめん』のジェスチャーをする。
「とんでもない。困ったときはお互い様ってやつです。」
「あら、嬉しいこと言うわね。じゃあ今日の夕方、一服がてら保健室にいらっしゃい。お茶、ご馳走するわ。」
僕は榎田先生に見送られ、保健室を後にする。
「先生、いってらっしゃーい。」
後ろから何とも能天気な声。
(小日向め…、体育館に戻らないつもりだな。けれども、あの子も窮屈な雰囲気が好きではないんだろう。)
体育館は校舎から渡り廊下を通ってすぐの所にある。
大した距離ではないが、体育館でも教頭のように文句を言われてはたまったものではないので、僕は素早く渡り廊下へ出た。
ばん、がらがらがらがら
背後の校内から、保健室のドアが荒っぽくレールの上を走る音がした。
やはりあれを見て、そのまま気分を悪くする生徒もいるのだろう。
あの目の回るような状況の保健室に後ろ髪を引かれる思いだが、まずは与えられた仕事をこなさねば。
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