第2話 序(2/2)

先生は頑張っている。

だから、私だけでも褒めてあげたいのだ。


先生は三階の進路指導室で打ち合わせ中らしい。

私は職員室を出て、そのまま中央階段へ向かう。

今のシチュエーションは、私にとってちょっぴり勇気がいる。

なにしろ二年生の教室の前を通らなければならない。

あと少しで自分が使う教室だけど、「下級生が何やってるんだ!」なんて突然声をかけられたら、心臓が飛び出てしまうかもしれない。



もちろん、学級日誌は職員室の先生の机に置いていっても良い。

寧ろクラスの皆は、タイミングを見計らってそうしている。


如何にも学校の備品といったラフな仕上げの紙製で、少しだけ丸みの帯びた字で『学級日誌』と書かれた黄緑色のファイル。

一年近く経とうとしているのに、真新しさを保っているファイル。

どこを読んでも素っ気ない内容が綴られている、面白みのないファイル。


クラスのみんなはこの学級日誌に何も思わないようだけど、私は直接手渡して、先生を元気づけたい。

今日の授業も分かりやすかったです、とだけでも伝えてあげたいのだ。

先生は、クラスがあんなことになっても頑張っているのだから。



確かにあの時は先生も良くなかった…と思う。

先生があんな大声を出すなんて、想像できなかった。

でも、元を正せばクラスの男子たちが悪い。

あんなことをしたのだから、先生が注意するのも当然だ。

口には出せないけれども、普段から迷惑していた子も多かったし、私も迷惑していたのだから。



そんなことを考えながら、私はおっかなびっくり廊下を進み、中央階段を上る。

踊り場を過ぎて、残りの階段を上っていくと、目の前に進路指導室のネームプレートが見えた。

こんな部屋があったのか。

全く意識したことがなかった部屋だ。


(この場所なら視聴覚室を使ったときに、ネームプレートくらい見ているはずなんだけど…。)


私は少し気になって左を向いてみる。

すると、予想通り一番奥に視聴覚室のネームプレートが見えた。

記憶は間違っていなかったようだ。


その手前には三年四組、三組と続き、妙な間隔が空いて、この進路指導室。

妙な間隔の正体は、ネームプレートがないから物置部屋なのだろう。

この学校は空き教室や物置部屋が多いのだ。

進路指導室の左隣も物置部屋なので間違いない。


(反対側の一番奥は音楽室だよね。一番遠くて時間がかかるうえに、行きと帰りで疲れるから。)


毎回大急ぎで移動することになる教室を、私は少し恨めしい気持ちで見る。

春になれば多少近くなるとは言え、毎回休み時間が削られる音楽室。

思わずため息をついてしまう。


ゆっくりと視線を戻していくと、妙な間隔が空いて、三年一組、三年二組。

そして、この場所だった。

どうやら私たちの階と教室の配置に変化はないようである。



とはいうものの、どうやら使っている生徒の雰囲気は、その階全体の雰囲気になるみたいだ。

今は受験シーズン真っただ中らしく、放課後になっても針で刺されるようなピリピリとした空気がフロア全体に満ちていた。


私はせっかくなので、この雰囲気の力を借りて気を引き締める。

先生に会う前なのだから、きちんとしなければ。

唾液で喉を湿らせ、はきはきとした声を出せるよう準備を整える。

ネクタイも締め直した。

シャツの襟もブレザーに閉まった。

準備完了だ。


どんっ


ドアノブに手をかけようとした瞬間、鈍く大きな音が部屋の中から聞こえてきた。

私は驚いて咄嗟にしゃがんでしまう。

手に持っていた学級日誌が、胸元でぺこりと小さく音を立てた。


突然の音に驚いた心臓がバクバクと音を立てている。

体が縮こまっているせいだろうか、声は出ない。


(なにか嫌なことが部屋で起きている?)


そう思わずにはいられなかった私は、足を擦るように少しずつ動かし、ドアに近づいた。

なんとかして中で起きていることを、聞き取りたかった。



「*******。」


(先生の声だ。だけど、相手は誰なの?)


「*******。」


(えっ・・・。)


「*******。」


(なんでそんなこと言うの!?言ってるのは、一体誰⁉)


「*******。」


続く言葉に、私の頭は真っ白になった。


「*******。」


中から聞こえる聞き覚えのない声と共に、大音量の拍動が耳に入ってくる。


「*******。*******、言うんじゃねえぞ。」



声の主がそう言い終えると、中から椅子が引かれた音がした。

はっとしたと同時に、今までの金縛りが解ける。

私は顔を上げて、右隣の教室に滑り込んだ。

偶然視界に入った三年二組のネームプレートが、私を引っ張ってくれた。



(奥へ!隠れなきゃ!)


私は無我夢中で窓際に移動した。

幸い一年生の教室と造りは同じで、カーテンをまとめるためのスペースが後ろの個人ロッカーと窓際の壁との間に設けられていた。

バケツ二つぶんあるかないかのスペース。

小さくなれ、小さくなれと念じながら、体を狭い空間に押し込み、身を丸くして、息を殺した。



がらがらがらがら


荒っぽくドアが開けられる。

私は体を目一杯壁に押し付け、目を瞑った。


ドアから出てきた誰かが一歩踏み出した。

もう一歩、更にもう一歩。


(見つかったらどうなる?そもそも誰?先生になぜあんなことを言ったの?そんなことより見つかったらどうする?どう逃げる?いや、逃げられるの?)


真っ暗な視界の中、そんな疑問が浮かんでは消えていった。

すると、


「こらーっ、下校時刻は過ぎてるぞ。親御さんが心配するから早く帰りなさい。」


私が知っている声だった。

私が半年前から相談に乗ってもらっている、あの先生の声だった。

私たちの学年でも特に慕われている、あの先生の声だった。



低く柔らかい、温かみに溢れた声が、フロア全体に響く。


「はーい、ごめんなさい。」「先生、また明日。」


三年生の声と思われる女生徒の弾んだ声が二つ返ってきた。

あの先生と会話したことを喜ぶ反応は、三年生でも変わりがないらしい。


次第に二人の話し声が遠ざかり、フロア全体に沈黙が訪れる。

程なくして、進路指導室のドアが荒っぽく閉められた。



瞬間、総身から力が抜け、私は全体重を壁に預けて座り込む。

体中から嫌な汗が一気に噴き出し、ぽろぽろと涙が止めどなく流れる。

声は相変わらず出なかった。

いや、出しちゃいけない。

まだ隣の部屋には、あの先生がいるのだから。



どれほど時間が経ったのだろう。

教室は既に真っ暗だ。


再び乱暴にドアが開け閉めされた音と、階段を下りる音を聞いて、私はふらふらと動き出す。

もし見つかったら?なんて考えは、もう頭になかった。


何かに引っ張られるように真っ暗な校内を移動する。


下る、下る、下る、下る。


目の前にあるのは私の教室、一年三組。

私は教卓に折れ曲がった学級日誌を置いて、その場を立ち去った。

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