臨採教師 鷹村三四朗 ―迷える羊―

飼田羊介

第1話 序(1/2)

山の端にかかり始めた夕陽から、日差しが部屋一杯に射しこんでいる。

埃っぽい小さな小部屋。

壁に備え付けられた本棚には、受験案内や問題集が各段一杯に並べられている。

中には背表紙に細かい皺が入ったものがあり、使用者たちの執念が伝わってくるようだ。


さて、部屋の中には男が二人、机を挟み話し合っている。

いや、話し合っているというよりも、一方が指導されているのだろうか。

どうやら片方の男は、もう片方の男より立場が上のようである。


太陽が半分程度山の端に隠れた辺りで、窓を背に座る男が大きく伸びをした。

気怠さを一切隠さずに。

一方、向かいの男は対照的にすっかり委縮していた。

今回も駄目だった、そんな悲壮感が全身から伝わってくる。

弱り果てた男が俯いていた頭を少し上げようとした、その時である。


どんっ


伸びをしていた男が、不意に両手を机に落とした。

天板を叩いた音が部屋中に鳴り響く。

向かいの男は肩をびくりと上下させ、おずおずとその口を開く。

だが、肺周りの筋肉が強張っていているのだろうか、言葉は途切れ途切れで弱々しい。


こつ、こつ、こつ、こつ

こつ、こつ、こつ、こつ


机に置かれた右手の人差し指が動き始めた。

向かいの席から発される硬質な音。

机を叩いた体勢のまま顔を伏せ、表情を隠した男から聞こえる音。



なんとか声を絞り出し、男は話を続ける。

何かを考えているとき、向かいの男はこの仕草をよくやっていた。

先程の彼が自分を驚かすようなことをした理由は分からない。

だが、きっと何か妙案を授けてくれるに違いない。


そんな期待を裏切って、音は次第に間を狭め、どこか苛立っているようにも聞こてきた。



鳴り続ける音に耐え切れなくなった男は、意を決して抗議する。


あぁ、声がまた裏返ってしまった。


矯正出来ない僕の癖、言葉の第一音目はじめが裏返る悪癖、春からずっと自分を苦しめてきた根源。

から半年以上、繰り返しこの場で指摘されてきたのに。

よりによって・・・。



男が声を詰まらせていると、ふと音は止んだ。

室内に静寂が訪れる。


窓の外から部活動をする生徒の声が響く。

如何にも快活で、伸びやかな声。


あぁ、羨ましい。

自分もあんな風に出来たら…。


室内の無音に耐え切れなくなった男が肺に息を入れようとした、その時である。


ぎろり


向かい側から射貫くような視線。

相手の眼から自分の眼へ、糸を引いたように一直線。

男はその場に縫い付けられた。



声が出ない。

いや、そもそも呼吸いきが出来ない。

肺から漏れた空気が喉の辺りで止まっている。


もがく自分の様子を見て、窓を背にした男がゆっくりと話し出す。

指導が始まって初めて聞いた、真っ黒い闇の底から鳴り響くチェロのような声色だった。


言葉の一つ一つがじりじりと追いつめてくる。

まるで足元から刃物で切り刻まれる刑罰のようだ。

耳からは自分の物とは思えない、心臓の鼓動が聞こえる。


このままでは破裂する。


そう思った時、目の前の男はにやにやと満足そうに笑っていた。

口の端を歪めながら、この男は人をいたぶることを楽しんでいた。


視界が徐々に狭くなり、端から白い靄がかかる。

辛うじて残る意識が後ろへ、後ろへ、引っ張られていく感覚。


目の前の男が話し終えると、赤々と焼けた色した太陽が山に隠れされ、部屋はすうっと影に飲み込まれた。


闇に浮かんだ二つの目玉、爛々と光る悪意の目玉、人を容易く射殺した二つの目玉は、ゆっくりと幕が下りるように闇に溶けていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る