最終話 朱子について

 店から駅まで車で1時間、新幹線で2時間、都内の家に帰るまでに店での話を思い返す時間はたっぷりありました。

 『死ね』という言葉を見たときには過呼吸気味になった私も、村から離れれば離れるだけ、落ち着いたわけではありませんが、思考力を取り戻していきました。

 やっぱり、どう考えても、女将さんは余所者よそものではありません。それは、誰なのかが私の中では明確だから言い切れるのです。

 女将さんは、朱子あやこさんです。間違いありません。

 女将さんのしわがれた声は泣き叫んで潰れた喉ですし、隠された腕と顔にあったのは体中を搔きむしった傷跡でしょう。

 私のことをずっと恨んでいたのです。愛していた弟を殺し、娘を壊した、私を。

 ずっと待っていたのです、私に恨みを晴らす機会を。 父から送られた手紙の封筒に書かれた住所を控えておいた朱子さんは、茜ちゃんを装い私宛に手紙を送って、店におびき寄せたのです。私がまだ何も情報を伝えていない車で来たばかりの時に「都心から来た」と言っていましたから、初めから私がツグミだということはわかっていたのでしょう。車のナンバーは、周辺に何もないレンタカー屋さんのものなのに。

 では村を出てから10年間、なぜもっと早く手紙を送らなかったのか。

 それは、私が母から離れる機会を見計らっていたからです。

 朱子さんは私がカクヨムで書いていた、介護日誌を読んでいたはずです。カクヨムでのペンネーム『杜崎まさかず』から取った、『杜崎もりさきまさ子』を名乗られた時点で気付くべきだったのです。だから、介護施設に入所を決めた記事を読んで、私に手紙を送ったんです。全てを知っている両親が近くにいては、私ひとりをおびき寄せることができないから。

 ご主人に何と名乗っていたのかは知りません。ただ朱子さんではない名前を名乗り、顔を隠し、おうち家を極端に嫌っていた上に神社の裏に住んでいた村の猟師、つまりご主人の元に潜伏して、私に復讐をする機会を待っていたのです。

 しかし、潜伏するのは簡単なことではありません。朱子さんだとわからないようにマスクをしたら、それはそれで不審がられてしまいますから。ですから、ターゲットであるご主人の目を、事故に見せかけて潰したのです。姿が見られないようにするのは勿論、それ以上の目的があります。失明した夫を、献身的に看病する妻という印象を他の村人に与えるためです。私が女ひとりで母の介護をしていたことに同情し可哀想だと憐れむ人たちと同じように、村人たちは朱子さん扮する女将さんに同情したことでしょう。

 こうして、朱子さんは、朱子さんではない形で何不自由のない城を見付けました。ご主人の目が見えなければ、裏手の神社にあかねちゃんの介護に帰っても気付かれませんから。

 その間に、村人はご主人と朱子さんだけに。他の村人はーー楝家を村八分にしていた他の村人たちは、本当に老衰や持病で亡くなっていったのでしょうか。

 私は、朱子さんが恨んでいたのは、私だけじゃなく村全体なんじゃないかと思っています。ですから、ご主人の目を潰した時と同じように、ひとりずつ復讐を敢行したのです。

 復讐はかなり簡単にできたと思います。だって、祟りなんて存在しないんですから。存在しないのに祟りを恐れて、祟りは存在しないと村人たちは自分自身に言い聞かせてるんですよ。ご主人がそうであったように。事故に遭っても、それが多少人為的なものであろうとも、村人たちは祟りとかけ離れた自分が一番安心できる原因を信じたんです。

 10年経って、残る村人はご主人だけ。その復讐は、私の目の前で行われました。雨が降っていない中、窓を閉め、換気扇を止め、入り口の鍵を締めた朱子さん。密室の店内には泥酔してぐっすりと眠るご主人と、火が止められた様子のない焼き場の炭。もしかしたら、もう、ご主人は一酸化炭素中毒でこの世にいないかもしれません。

 ここまで読んでいただいた方にはわかると思いますが、朱子さんは私に自分が朱子さんであることを隠そうとはしていませんでした。隠すのなら、あんなに昔話を話したり、杜崎まさ子なんて名乗りません。そして、何より『死ね』という私への想いを渡した時点で、朱子さんであることは確定してしまうわけですから。

 朱子さんは、自分を私に自分が朱子だと認めたくなかったんです。なぜなら、自分を朱子だと認めてしまったら、止めどない殺意が湧き上がってしまい、その場で私を殺してしまうから。私と同類になってしまうから。

 私に栴檀せんだんの毒薬を飲ませずに渡した、その行動に全てが表れています。あくまで、自分が殺人を犯したくはないのです。私に自分から死を選んでほしいのです。 簡単に言えば、私と一緒です。責任を負いたくないんです。

 だから、この記事を朱子さんが読んでいるのなら、最後に責任逃れの言い訳をさせてください。

 私、思い出したことがあるんです。

 やっぱり紅一こういちにレイプをされていました。私がそれを拒否できなかったのは、病院への栴檀の供給を止めると脅されたから。父と母に迷惑をかけたくなかったんです。

 そして、恐らく母は私が紅一から辱められていることを知っていました。だから、栴檀の毒入りのあめを渡したのです。「これは紅一さんの分」だと。つまり、治験薬を飴に混入させたのではなくて、端から毒とわかっているものを飴に混入させたのです。母が私を凌辱する紅一を殺すために。

 しかし、私が茜ちゃんに「こっちは紅一さんに渡して」と飴を渡すと、すぐに口に放りこんでしまったのです。自分の分と紅一の分、2つも飴玉を口で転がしながら茜ちゃんは言いました。「いっぱい、あまい」と。

 これが、私の言い訳です。


 これら全て、私の中だけで考えた妄想かもしれません。それを勝手に結論付けて、こうして記事するのは良くないとわかっています。朱子さんが言うところの専断せんだんです。

 でも、確かなことが一つだけ、目の前にあります。

 朱子さんが私に渡した、栴檀の薬と、『死ね』というメッセージ。

 朱子さんは勘違いしています。私が過去の犯した罪の罪悪感に耐えられなくなり、自分で判断して死ねば、責任を逃れられると思っていませんか。違いますよ、私は朱子さんに『死ね』と言われたから死ぬんですよ。


 私が死んだ責任は、朱子さん、あなたにあります。

 似たもの同士ですね。責任の押し付け合いなんて。


 


 皆様へ


 私の記事をいつも読んでくださって、

 今日も長々とした私の記事を読んでくださり、ありがとうございます。

 そして、今までありがとうございました。

 死んだら、何もかも思い出せなくなります。

 私のことも、母のことも。

 父が栴檀を研究してまで開発してくれた、洗脳薬のことも。

 私の記憶がなくなった原因は、本当に事故だったのでしょうか。

 父が栴檀から作った洗脳薬を使って、皮頭村での忌まわしき過去を幸せな思い出にすり替えてくれたのではないでしょうか。

 母は本当に、認知症の影響で私の名前を思い出せなくなったのでしょうか。

 父が栴檀から作った洗脳薬を使って、鬱病の原因となった私の殺人と逮捕を忘れさせようと母の頭の中から娘の存在を消したのではないでしょうか。

 行方不明の父に真相を聞くことはできません。

 ただ、私の片脚と、母の片腕が、動かないことは確かです。

 皆さんは、ぜひ父・日吉ひよしチョウジロウは家族を助けた偉大な人と覚えておいてください。そして、何かのご縁で父と会うことがあったら、このカクヨムの記事を紹介してあげてください。

 私が死んでも、記事は消えませんから。


 本当に今までありがとうございました。

 さようなら。



 杜崎まさかず、こと、日吉ツグミ


 







 ツグミがカクヨムの記事を書き終えた頃には、壁越しにまで聞こえていた隣室のTVアニメの音声は止んでいた。

 お守りの中の栴檀の毒薬と朱子の文字を目にした当初は、帰宅してすぐに自殺する予定であった。しかし、心ではそう決めていても、体が動かなかった。毒の粉薬が載った包み紙を持つと手が震え、昨日別れた母の顔が浮かんで離れない。記事には朱子に対して強気で死ぬと宣言をしてはいたが、実際、怖かった。

 記事を書けば、死ぬ理由が頭で整理されて、服毒できるかもしれない。そう思い立って書いてはみたものの、逆効果だった。父、母、茜との別れが益々惜しくなってしまった。

 朝方帰宅し、昼前から記事を書き始め、気が付けば夕方。何時間も薬の包み紙が開かれたままであった為、部屋には栴檀の香りが充満していた。

 最後に母の顔を見て別れを言えば、死ぬ決心が付くだろうか。そんなことをして、母が更に自分を思い出してしまったら、いよいよ死ねなくなるかもしれない。いや、母が忘れている記憶を蘇らせることができるのなら、話しに行った方がいいのでは。

 考えれば考えるほど、迷いに迷いが重なり、死ぬ理由を見失いそうになる。

 ツグミの思い出せるものの中で、最も記憶が少ないのは母が母であった頃の記憶だ。介護をしている頃以外の記憶で、かろうじて思い出せたのは、母がツグミに飴を渡した記憶だけ。朱子の話も、ほとんどが父とツグミのことだった。10年前の母の情報で得られたのは、父と同じ漢方医だったということだけだ。 もう少しだけ、母が皮頭村でどんな人間だったかを聞いても、バチは当たらないだろう。

 ツグミは自分にそう言い聞かせ、母のいる介護施設に向かうべく、荷物を持たずに玄関の扉を開けた。死にたいよりも、母の記憶をより鮮明にしたい気持ちの方が勝った、というわけではない。死なずに済む為の、言い訳だ。 

 アパートの二階、扉を開けた途端に、かび臭いような安物件独特の匂いが、熱気を孕んだ湿った空気がツグミにのしかかる。まだ5月も中旬だというのに、体感温度は真夏とそう変わらないように思えた。

 廊下の壁を濁った夕日が焼いている。夕焼けだけは、皮頭村に向かう途中に見たものの方がずっと美しかった。思いを馳せ、ツグミが呆然と日を眺めていると、横から扉の開く音がした。

 祖父の家から出てきた、少女だった。

「うん、またね」

 玄関の向こうで何かを言う老人に、少女は鬱々と呟くように答えて、扉を閉めた。

 相も変わらず、腕や脚、顔にまであざをこさえている。少女は振り返り、先のツグミと同様、夕日を眺め呆然としている。帰る気配はない。やっぱり帰りたくないんだ、とツグミは親の暴力を少女が受けている想像に尚納得した。

 ツグミは少女のことを考えていた。明るいところで見て、少女には実年齢よりも大人びた魅力を持っている雰囲気があることに気が付いた。素直に綺麗だと思った。痣や傷が、彼女の魅力を劣らせるものに決してならない程に。

 ツグミはいつの間にか、少女の立ち尽くす様を、かつての自分に照らし合わせていた。そして、少女の姿は、農機具倉庫での記憶の取っ手を掴んだ。

 ああ、そうか、そういうことだったのか。

 ツグミは腑に落ちた。紅一に犯されたあの光景の中、フルボリュームで携帯ラジオが流れていたのは、倉庫の中の声を外に漏らさないようにする為、だと。少女が祖父の元を訪ねた際に、決まって聞こえる大音量のアニメの音声と同じ、だと。そして、声の小さい少女と会話をした祖父の耳が遠いわけはなかった。 

 ツグミは少女を憐れむことが出来なかった。責任を負いたくないからと、見なかった振りをすることはもう、ツグミには不可能だった。それは、少女がまるで、かつての自分のようだったから。

 少女が自分だったら、母は何て声をかけるだろう。

 介護施設に向かう前の、母の言葉を思い出した。

「誰の子でもないと思って」。

 本当に茜ちゃんを指したものだったのかな。私に向けたものではなかったのかな。

 ツグミは、もう一つ、記憶の取っ手を掴んだ。

 それは、初めて、本心から思い出せて良かったと感じられる記憶。

 ツグミが自分に正直に、紅一を殺す決心をつけられた記憶だ。

 母はツグミが紅一にされていることを知っていた。そして、栴檀の供給を止めると脅され断ることができなかったことも。

 あの日、母は毒入りの飴を渡した後に、背の低かったツグミに視線を合わせて、悔し涙を堪えながら言ったのだった。


「15歳で親に気を遣えるなんて、本当に大人だよ、ツグミは。本当に優しい子だよ。でも、親の都合で自分の気持ちに蓋なんてしちゃダメ。

 ツグミは、誰の子でもないと思って。あなたは親の都合で生きている子供じゃない、一人の、ツグミって名前の立派な女性。

 あなたの親が言うんだから、間違いないよ」


 最後に母は涙を隠しながら、ツグミに笑った。

 なんで笑うのよ、そんなこと言いながら子供に悔しさを悟られないために、気を遣わせない為に笑ったんでしょ、お母さんだって親として強く見せようとしてるじゃない。

 ツグミは、心の中で、そう母に言いながら胸を熱くさせた。

 そして、心の中ですらも「ありがとう」とは母には恥ずかしくて言えなかった。ツグミは、イヨの、娘だから。


「ねえーー」


 ツグミは少女に、かつての自分に声をかける。

 母の言った言葉の記憶を、この先、絶対に忘れない為に。




 ーー2か月後、少女は10歳という若さでありながら、自ら裁判所の証言台に立ち、祖父に性的暴行を、父親に日常的な暴力を受けていたことを言葉にした。

 ツグミは、まだ生きている。少女の行く末を見届けるまでは死なない、と決めたからだ。生きる理由まで、人の責任にするツグミ。だが、死のうという気持ちは消え失せていた。

 7月半ば、栴檀の花がすっかり落ち青葉を茂らせ皮頭村を緑に染め上げた頃の、つい先日の談である。









〈余談〉


「ごめんね、散らかっちゃってて。テーブルの上だけすぐ綺麗にするから」

 日吉漢方医院の調合室に訪ねてきた朱子に、イヨはせかせかとテーブルの上の書類やら調合道具を片付けながら言った。

「そんな、ええんよ。忙しかったらまた今度でもいいけん」

 朱子は笑顔ながらも申し訳なさそうに返す。日差しとは無縁と言わんばかりの肌の白を、抱えた黒い魔法瓶が際立たせている。

「やだ、今日にする! 私、朱子ちゃんの栴檀茶飲むんが昼間から楽しみだったんだから」

 書類を適当に重ねてまとめながら言ったイヨの言葉を聞いて、朱子はプッと吹き出した。

「なによ」。イヨが睨む。

「『飲むんが』、やて。イヨちゃんもう、すっかり皮頭の人やんね」

「え、出てた!? 全然気付かなかった」

「ショック? 田舎もんみたいで」

「嬉しいよ、馴染んできたみたいで」

 イヨには15歳の、朱子には10歳の娘がいる。そんな母親二人が子供のように笑い合えるのは、日吉漢方医院の調合室だけだ。

 日吉家が皮頭村に越して来て、2か月が経とうとしていた。

 チョウジロウもイヨも村の皆から歓迎され、日々何かしらの畑の野菜が届くほど、村人との親睦は早くも深まっていた。娘のツグミも、朱子の娘である茜と姉妹のように戯れ合い、楽しそうに過ごしていた。

 しかし、日吉家は一つだけ村に疑問を抱いていた。楝家の扱いについてだ。チョウジロウもイヨも、祟りの存在なんて信じていない。しかし、信じた振りをしないと、村人たちから怪訝な顔を向けられる。

 楝家を嫌う村人のせいで、漢方で扱っている栴檀が、楝家産の栴檀だと言うことは口外できなかった。村人は、楝家の祟りを恐れる一方で、楝家産の栴檀で作った漢方薬を万能だとありがたがっている。日吉夫婦、特に朱子と仲の良いイヨは、いつか漢方を通して楝家が丁寧に育てた栴檀は良い薬の素だと知らしめたい、ひいては楝家の人権を取り戻したいとまで願っていた。

 朱子の弟である紅一は個人医院を営んでいる都合上、栴檀の納品はほとんど朱子が行っている。その際に、挨拶代わりに朱子が自分の作った栴檀茶を飲ませたことをきっかけに、二人は友達同士となり、今では週2、3度は調合室でお茶会をする程の仲になった。

 イヨはテーブルの上を片付ける、というよりは、端に物を寄せてスペースを作ると、朱子の抱えた魔法瓶を受け取って置いた。

 イヨ専用の桜色の湯呑と朱子専用の藤色の湯呑を並べて、早速魔法瓶から栴檀茶を淹れる。向かい合って座った二人の間に湯気と、ほんのり甘い栴檀の香りが立つ。

「やっぱり朱子ちゃんのお肌が白いのは栴檀茶のお陰なのかなあ」

「違うんよ、神社ん中からあんまり出ないけん。楝だなんだって後ろ指差されるの嫌やし」

「ほらあ、またそういうこと言うんだから」 

 困り顔で唇を尖らせて、イヨが朱子の前に茶の入った藤色の湯呑を置く。

「村の人たちに胸張って言ってやりゃあいいのよ。あの日吉漢方医院に栴檀卸してるのはうちだぞ! 何なら私だぞ! って」

 イヨはそう指を立てて熱弁をふるうと、言葉に続けて自分の湯呑をぐいっと口に傾けた。

「あっつい!!!!!!!!」

 絶叫した。湯呑を叩くように置き、顔全体を左右に高速で振る。

「何よ、その冷まし方」と、朱子が目を丸くして笑った。

「普通、こう、手で扇ぐんやないの」

 朱子はパタパタと口元を手を団扇うちわにして見せた。

「それで風来た試しないもん。飲んだ?」

「まだよ」

「私が作った栴檀茶の100倍美味しいよ! 薬効も100倍あるだろうね、漢方のプロが言うんだから間違いないよ」

「薬効は変わらんよ」

 朱子が言いながらまた笑った。顔をしわくちゃにして、時に手を叩いて。イヨの前でだと、心を自由に気兼ねなく笑えた。楝家以外で素直な顔を誰かに向けられたのは、何十年も前だ。

「ああ面白い、嫌なこと皆忘れちゃう」

 朱子は笑い涙を指で拭って、藤色の湯呑に両手を添えた。しかし、すぐに出した片手を隠すように引っ込めて、もう一方の手だけで湯呑を持った。それを、イヨの声が止めた。

「手、どうしたの?」

 先の快活さとは一変して、心配そうな目でイヨの隠した方の手を指差す。

「ああ、これ」とこぼすと、朱子は飲まずに湯呑を置いて、手を出した。手の甲にテニスボール大の青痣があった。

「掃除してた時にぶつけたんよ」

「どこに?」

「どこって、わからん、どっかその辺」

「そんな大きい痣なのに覚えてないの?」

 イヨの語調は問い詰めるに連れて、怒気と悲しみが籠っていった。

「私には言ってよ。本当はどうしたの?」

 朱子は目を伏せて答えた。

「石、投げられたんよ」

 イヨは絶句した。そして、2か月近くも朱子と一緒にいるのに、暴言は吐かれても、直接暴行を加えられているなんて考えもしなかった自分を責めた。固まったまま唇を震わせるイヨを見て、「心配せんでええよ」と朱子は笑顔を無理矢理作った。

「こんくらい慣れっこやけん。楝家やもん、仕方ないけんね」

「仕方なくないよ」

 イヨは朱子の手の甲を自分の両のてのひらで包んで、声を震わしながら続けた。不思議と青痣が痛くなかった。

「ごめんね」

 朱子の瞳の中にイヨの目がはっきりと映っている。

「ちょっと、何で謝るんよ」

「何にもできなくて、ごめん」

 朱子は胸の内からこみ上げて来たものを隠そうと、目を逸らした。自分が楝家であるがばかりに、イヨに謝らせてしまったことが苦しくて堪らない。でも、これで私が涙を見せてしまったら、もっとイヨちゃんを申し訳なくさせてしまう。

 朱子は目を瞑ったまま、どうにか笑顔で言った。

「イヨちゃんは、来たばっかりやけん、知らんのよ。楝に関わるとろくな目に遭わんってのが村の常識やけん。だからイヨちゃんもあんまり私とーー」

「私ね」

 イヨが朱子の言葉を遮って、テーブルの下から小さな淡い紫色の和紙の包みを出した。長方形の上辺に三角の屋根が付いていて、タグのような形に折られている。長方形の中央に半紙が貼られており、筆文字で『御守』とある。

 栴檀の花の色に似たそれを、イヨは手渡した。

「朱子ちゃんに良いことが起こればいいなって思って、これ作ったの、お守り。私、不器用だから下手だけど」

 朱子の手の中で細やかな光を放つお守りを、イヨが作ってくれたお守りを、見て離さない。

 朱子は小さく返した。

「ううん、かわいい」

「こんなことしかできなくて、ごめんね」

 イヨは朱子の頭をそっと撫でる。最後に頭を撫でられたのなんて、いつだろう。撫でられたことなんてあっただろうか。朱子が撫でられたのは、心だった。

「朱子ちゃんは誰の子でもないんだよ。楝の子じゃなくて、朱子ちゃんって名前のひとりの女性。朱子ちゃんって名前の私の友達。だからね、楝だからって虐められるなんて、おかしいと思うんだよ。おかしいのは村の方。村の全員が石投げてきても、私は朱子ちゃんの味方だよ」

 朱子はもう我慢ができなかった。感情全てが涙となって流れて止まらなくなった。嗚咽がまざって、上手く喋ることができなくなった。

「泣きすぎだよ、朱子ちゃん。ほら、お茶飲んで」

 イヨの潤んだ眼に朱子は気が付くことはなく、差し出された湯呑を嗚咽でこぼしそうになりながら受け取って一口すする。

「美味しい?」

 イヨは自分が作ったわけでもないのに訊く。

「あっつい」

 朱子が鼻声で返した。

「もっとでっかい声で言うんだよ。あっつい!!!!!! 言ってごらん」

「あ、あっつい!」

「熱さが伝わらない。こう! あっっっつい!!!!!!!!」

「あっつい!!」

「足りない! あっっっっっつい!!!!!!!!!!」

 高温サウナと聞きまごうほどに、調合室にあっついあっついと声が響き渡る。 ふたりはいつの間にか馬鹿話で笑い合っていた。一時の怒りと悔しさを通り過ぎて、心のままに。

 「ね、ね」と、イヨがもうひとつ手製のお守りを自慢げに掲げる。桜色だ。

「お揃い」

 女子高校生のようなはしゃぎ様で、ふたりはお揃いという単語にキャッキャと色めきだった。

「そんでさ、これね」。イヨが自分のお守りを開くと、中には包みがあった。その下には『娘が変な男に狙われませんように』と書かれている。

「この包みが、魔除けのおまじない。栴檀で作った薬ね」

「漢方? 具合悪くなった時のお守りにもなるんね」

「ダメだよ飲んじゃ、猛毒だよ! 魔除けだからね、昔っから魔除けには毒草が効くの。作るとき口の中入んないか冷や冷やだったよ」

「これは?」と、朱子がお守りの内側に書かれた文字を指差した。

「これはね、願い事。お守りの中に願い事を書いて、なるべく肌身離さず持ち歩いていると叶うんだよ」

「イヨちゃん、ツグミちゃんが変な男に狙われんか心配なんやね」

 朱子が口を押えてくすくす笑った。

「うちの子初心うぶで、しかも美人でしょ。だから怖いのよ」

「親ばかやね」

 そう言われると気恥ずかしくなり、イヨは「そっちは何書くのよ」と焦りながら栴檀色のお守りを示した。

 朱子の書きたい願い事は沢山あった。今までの人生で、楝だからという理由で諦めざる得なかった願い事が。外を自由に歩きたい、色んな人と喋りたい、普通の家族になりたい。しかし、それを全てまとめて叶えられる願い事が思い付いた。さっき思い付いたのだ。

「イヨちゃんとずっと仲良くいられますように、って書こうかな」

 まるで告白のように照れ臭く言った朱子の言葉は尻すぼみになる。その様子にイヨは吹き出した。

「そんなの、書かなくても叶うよ」

 朱子は、イヨのその言葉を聞いて、お守りを後生大事にしようと、心に誓った。




終 


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