彼は、今いる角を古本屋があった方と逆に曲がってすぐのところに良い喫茶店があるのだと言い、わたしは黙ってついていった。彼の古着らしいTシャツの背に印刷されたジミ・ヘンドリックスがわたしを睨む。

 本当に角を曲がれば十メートルほど先に喫茶店の庇が見えた。古そうな建築で、昭和の人情の温かい喫茶店という感じだった。

 入ると縦に伸びたカウンターから、七十代の肩ほどのソバージュの女性がわたし達をカウンターの向かいの窓際に縦並びで五つ並んだソファテーブルのうちの一つに通す。

 わたしたちは向かい合って座る。彼が口を開ける。

 彼はいま芸術家を目指しているのだと言う。

 ソバージュの女性が注文をとりに来る。わたし達は互いにアイスコーヒーを頼んだ。

 わたしも自分のことを話す。最近、人と話していなかったので滑舌が甘い。

 わたしが話を終えると、彼はまた話し始める。

「この間、蜘蛛が書斎机と壁に巣をかけていたんです。なんだかずっと眺めちゃうんですよ。どうして僕の部屋で、どうして書斎机なのかな、なんて考えている間に巣が出来上がって、外を見たらもう真っ暗だったんです」

 面白くもないのに、わたしは笑っていた。

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