なくした、忘れた
わたしはいつの間にか、自分の感情がわからなくなっていた。よくテストに「この人物の心情を書きなさい」というのがあるけれど、わたしは、いつも上手く答えられないのだった。
今朝、わたしは寝起きの汗でベタついた足でフローリングに転がった向田邦子のエッセイ集を踏んでしまった。表紙が足の裏に張り付いた。堪らない罪悪感が喉に刺さった小骨のように溜まる。
リモコンをちゃぶ台から取り上げ、テレビをつけると、一国の大統領がライフルで暗殺され、政情不安定になっているとの報道があった。この国の誰が、そんなこと気にするのだろう。
その時、ドアベルが鳴った。
金属の少し重いドアを開けると、郵便配達員がいた。
「あ、郵便受けが開かなくって」
そう言って彼は手紙を差し出す。
「そうでしたか。ありがとうございます」
そう言って手紙を受け取り、わたしはドアを閉め、手紙の差出人を見た。知らない男の名前だった。その上、住所は合っていたが、受取人の名前は私ではなかった。今更、あの配達員を呼ぶのも億劫なので、機会に返そうと思い、玄関の靴棚の上においた。
すると、コンロの上のケトルが甲高く鳴いた。蟻地獄のようなフィルターに収まったコーヒーの粉に「の」の字を描くようにお湯を注ぐ。どこかの雑誌で読んだ淹れ方だが、記憶が曖昧なの自己流だと言って差し支えない。
コーヒーを淹れ終え、マグカップの取っ手に指を入れて持って、テレビの前のちゃぶ台に座る。
次は何のニュースだろう。そう考えて少し経ち、わたしはドアベルが鳴って消してから、テレビの電源をつけていないことを思い出す。つまり、わたしは暗闇のテレビ画面を眺め、ニュースを待っていたわけだ。
コーヒーを一口すすり、テレビのリモコンを探す。が、見つからない。どこへ行ったのだろう。プラスチックの安っぽいちゃぶ台の机上にも、いつも座っているところの合皮の下地が露出してしまったソファの上にもない。
玄関へ行ってみると、腰ほどの高さの靴棚の一番上の段のスニーカーの中に、滑り込むようにテレビリモコンが入っているのを見つけた。わたしが彼と話している間にリモコンをここに入れたのだろうか。どんな体勢であればここに入るのだろう。
今日も朝からパン屋のバイトがある。
シフトは十一時から。いまは十時過ぎだ。
時間が余っているので、録り溜めたお笑い番組を観ることにした。
関西出身のお笑い芸人がやかましく関西弁でまくり立てるのを見て、わたしは笑ったが、自らに「それは本心からのものか」と問われると、わたしはたじろいで笑うのをやめる。この街に来てから、この感覚は続いている。それと同時期から、「恋」という言葉が、まるで雲のもっと向こうの知らない星の名前みたいで、どんな風か思い出そうとしても、空を切るみたいに思い出せなくなった。他人の心が、酷く醜く見えるようになった。
お腹が空いた。今朝はコーヒー以外なにも口にしていない。
食パンを一枚、食パン二枚だけ収まるトースターにつっこんだ。
以前は最低でもバターを塗るとか、お湯を沸かしてインスタントのコーンポタージュを作るくらいはしていた。
あれ。以前はわたし、笑っていただろうか。「恋」がどういう風か、狼が藁の家を吹き飛ばすくらい簡単に想像出来たろうか。
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