嵐を呼ぶ。

天皇は俺

嵐を呼ぶ。

羨道めいたトンネルを一息に抜けると、真白と春うららの桜吹雪が車窓を撫でては消えていった。


青空には雲。

旅立ちには、うってつけの今日だ。


軽快な汽笛を鳴らしながら、翆黛を切り裂いて汽車はもうもう、と進んでいく。


少し、昔話をしようと思う。


懐古主義というわけじゃあないが、古田舎の景色が漫ろ思い起こされるように、小説のページを遡るように、自分を形作った確かな過去というのは、ふと確かめて感傷だかに浸りたいものなのだ。


私の心臓の中心に位置し、未だ脈動し続ける血肉のような私の経験を、ここに記していこうと思う。誰のためでなく、自分自身のために。


私は、少年だった。

若かったのだ。


私は、個人経営の英語塾に通っていた。

まぁ、英語の読み書きは人並みにはできたんじゃないかな。一番上のクラスだったわけだし。


まぁ、そこは置いといてだ。


ある日、授業の始まる前。

私は小便がしたくなって、便所に行った。


その便所というのが、個人経営の塾というだけあって、男女共有で個室の大便器が一つあるだけであった。


無論、混む。

実際、その時も先客がいた。


ロックが掛かっている標の、赤色となった錠を見ながら、私はひしひしと込み上げる尿意に身悶えしていた。


ガチャ、


はたと音がして、錠が青くなった。


ドアが開くと、私は便所に駆け込んだ。


鍵を閉め、便器に座り、チョロロロ、と小便を垂れ流し始めたとき、ふと違和感に気付いた。


いや、あの感情を「違和感」と断ずるのは些か癪に障る。何だか、横隔膜の芯から込み上げるようなパトスに似た感情、そんなものが込み上げてきた。


私にはまず、先客の姿が思い出された。


先客、私の前にこの便所を使っていた人物...

女子、だったのだ。


顔はそこそこ可愛いと思った。

実際、数回話したこともある。


快活で素直、気持ちのいい女の子だと思っていた。


まず、私のニューロンを掠めたのは、女の子でもおしっこするんだ、という原初的なディスカバリーであった。


いや、でも、その考えは当時の私にとって、思考の蚊帳の外にあったかのような、とにかく意識外の考えだったのだ。


今まで、女の子のカラダ一つも見たことない、生真面目な私にとって、それは未知の大陸を 捉えた航海士めいた偉大な発見であった。


いや、いい、それだけならいい、

その子は、さっき個室から出てきた。


つまり、この便所で先30秒程前まで、彼女の放尿が行われていた、ということだろうか。


いや、ややもすると、この、私が今腰掛けてる便器に、先程まで彼女の生尻が何の隔たりもなく置かれていた、ということだろうか。


これは、知見だ。

新たな知見だ。


私は、マゼラン星雲のように両の眼を光らせながら、滝のような激しい放尿をした。


それは、何か心を押さえつけていた堰が外れたような、そんな気持ちであった。


丸善の檸檬に似た黄色のしっこ、それは弧を描きながら下水管へ消えていった。


私は、何やら肩の荷が降りた。まるで大きな仕事を果たした後のように、爽やかな顔立ちで便所を後にした。


その後から、日常の僅かな気付きから、過ぎ去っていく日々が色鮮やかに感じられた。


人はそれを、アイデアと、夢と呼ぶのだろう。


汽車は相も変わらず、こうこうと進んでいく。

戦地の最前線へと、私を、確かな死へと一歩一歩進んでいく。


死ぬのは怖くなかった。

人は、常に過去と共にある。


経験と発見の連綿の上に僕らは立って、生き、呼吸する。それこそが、確かな営みだ。


汽車が幾千の風景を過ぎ去って、目的地へ辿り着くように。


私は車窓と過去の狭間に、はたと横たわって、静かにうたた寝した。


桜はもう止んで、窓の外には一面の夕焼け空。

枯れた地と崩れた建物の残骸。

目的地は、きっとすぐそこだ。


風蕭々として易水寒し。

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