第1章

1話

 

 後ろの家に住んでいる【吉田さん】を、私は十年以上【西田さん】だと思っていた。小さい頃から私を知っているし、いまだにすれ違えば挨拶も心配もしてくれる。干渉し過ぎず、認知はしている。よくある単なるご近所さん。名前を間違えて覚えていたとしても、その関係性になにも問題はない。これが長年井戸端会議をしてきた私の母であれば話は別だろうが。【吉田さん】だろうが【西田さん】だろうが、どんな名前でも【私】には関係のないことなのだ。

 

 埼玉県K市。ここ数年でベッドタウンとして注目され、一時期は住みたい街ランキングにもランクインしていたが、昨年あたりから中東系の移民が増えると治安が悪化。最近では悪い意味で有名になってしまった。ニュース曰く、人気のベッドタウンからわずか一年で日本人百世帯が出て行ってしまった地域として取り上げられていた。そんな街に、私は住んでいる。

 どこにでもいる高校二年生。二〇二三年十二月、花の十七歳の冬休みを怠惰に過ごす普通の女の子だ。友達は多くも少なくもない。だから毎日のようにインスタを更新したりはしない。そんな普通だから、特にやることもなくサブスクでアニメを見ている。内容は正直入ってこないし、アニメに登場する【普通】を自称しているキャラクターは特殊能力を持っていた。そんな全国調査をしたら何人が同じ昼下がりを過ごしているかわからない、そんな日。だけどもそんな非生産的な時間はあと数時間で終わる。だって今夜は、約束があるから。

 

 日付が変わろうとする時刻に、こっそりと玄関の扉を開ける。冷たい空気が頬を刺し、一瞬外出のモチベーションを私から奪うが、目の前の人物に気がつくと私はすぐにコンクリートの地面へと足を踏み出した。


「わざわざうちまで来なくてもよかったのに」

「まぁ、一応」


 少し気まずそうに、敦史は答えた。

 沼川敦史ぬまかわあつし。小学校、中学校の同級生で、所謂「地元の友達」というやつだ。中学の頃はサッカー部だったが、高校に入ると部活が強制ではなくなり、帰宅部の魅力に惹かれた結果長期休暇を私同様怠惰に過ごすことになっている暇人だ。運動神経は私よりもいいが勉強はいまいちなので、高校は別々だった。当時短髪だったヘアスタイルは、女受けを意識したであろうマッシュヘアになっていた。面長で一重の敦史には正直似合ってないなと思ったが、口には出さなかった。

 

 玄関の扉をそっと閉め、鍵をかけずに敦史のもとへ行く。自宅で退屈に過ごす私を息抜きに連れて行ってくれるとのことだった。その息抜きとは、中学時代のリベンジを兼ねた肝試しだ。

 私の家から徒歩十分、敦史の家からは徒歩十五分ほどのところにある一戸建ての日本家屋。地元の子供達からは安っぽく幽霊屋敷と言われているその場所には、昔から噂が絶えない。

 過去に殺しがあった、子供の死体が見つかった、二階の窓から女が外を見ていた、取り壊そうとすると祟られる。どこまで尾鰭が付いているかはわからないが、そんな噂だ。それ故に、地元の子供達はここを度胸試しに使っているのだ。この家に忍び込み、自分の名前を落書きで残す。いつから続いているかはわからないが、そんなルールだった気がする。

 中学三年生の頃に一度、敦史も含めたクラスメイトの何人かで挑戦しようということになった。ちょうどその年は、K市で殺した男性を冷凍し、マグロの解体機で死体をバラバラにしたという犯人たちが捕まった年で、そのせいか地元警察もピリピリしており、夜に住宅街を歩く私たちはすぐに補導されてしまった。卒業間近だったこともあり、以降は大人しくしているという条件で厳重注意に留めてもらい、それぞれの進学先には連絡をしないでもらった。そんな状況だったのでもう一度挑戦とはいかず、そのまま別々の高校へと入学していったのだ。

 

 真冬の風が喉を乾燥させる。口呼吸が癖になってしまっている私には慣れたことだ。軽く咳き込んで喉をスッキリさせようとする私を、敦史は心配そうに一瞥し、すぐにまた前を向き歩き出す。

 メッセージでのやり取りはしょっちゅうしていたが、こうして二人きりで歩くなんていうのは、いま思い返してみると今日が初めてのことだった。中学生の頃なんていうのは男女が二人でいればすぐに噂を立てられる。だからこそ、無自覚で恋愛対象ではない異性とはなるべく二人きりの状況を作ることはなかった。

 なにを話すべきだろうか、きっと敦史も困ってる、そんなことを考えているうちに、幽霊屋敷に到着していた。幼少期から何度もこの家の前は通ってきた。友達の家に行く時、ピアノ教室に近道する時、少しだけ遠回りして帰りたかった時。見慣れているはずの幽霊屋敷は、深夜に【肝試し】というフィルターを通してみると、酷く不気味に見えた。色斑いろむらのある暗い木造の壁と、所々剥がれている瓦屋根。軒樋のきどいは途中で折れており、そこからはいつ降った時のものかはわからない雨水が凍って、小さな氷柱を作り出している。そんな幽霊屋敷を囲うブロック塀にはいくつかの落書きがあり、外壁にはめ込まれている表札には名前が書いてあるようだが、ドライバーかなにかで削られたような痕があり読むことはできない。


「ここに入る? 本当に?」


 素直にそう思った。心は置き所をなくしたようにざわついている。敦史を見ると同じことを考えていたようで、冬に似合わない脂汗を額に浮かべている。

 幽霊屋敷を見つめながらも、例の噂が頭をよぎったせいもあり、二人とも二階の窓を見ることはなかった。


二階の窓から女が外を見ていた


 根も葉もない噂だ。そうわかっていても、視界から少し外れたところにある幽霊屋敷の二階に女の姿を想像してしまう。よくある髪の長い、こういった外観の家に潜む幽霊ならきっと白装束。そんなお化け屋敷クオリティな女の想像。けれどいまの私にはその想像だけで十分すぎるほどだ。それくらいに、この幽霊屋敷の空気は重くまとわりつくようだった。その想像は這い寄るように、あるはずのない視線までも生み出す。見られている気がする、あの二階の窓から。

 

 自分の意思とは相反して、二階に目を向けようとしたその瞬間–––。

キキィーッ! 耳を擘くつんざ音が私たちのすぐ横から聞こえた。

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