名前のない家

鈴木一矢

プロローグ

 真面目に生きてきました。

親にも友人たちにも、迷惑をかけたことはなかったと思います。

 小学生の頃は、テストは基本九十点以上、体力テストは中の下、放課後は友達と遊ぶけれど門限を破ることはない。そんな子供でした。

 中学生の頃は、塾と部活をほどほどに頑張りました。反抗期は高校を決めるときに少しだけ、自分の意見をぶつけたくらいでした。

 高校に入って、少しだけ背伸びをしてみようとバイトを始めました。同級生の中には、パパ活で考えられないような金額を稼いでいる子たちもいました。一度金銭感覚が壊れたら絶対もとには戻らないと、ごく一般的な考えと自制心を持っていたので、ファミレスで一日に何度も税込三百円のドリアを運びました。

 真面目に生きてきました。誰にも迷惑はかけていません。それなのに

 

 どうしてこんな目に遭わなければならないのでしょう?


 瓦礫と暗闇の中から、苦しそうな声が聞こえる。その闇の深さに比べれば、夏の夜の空は明るすぎるほどだ。雲の流れを目で追えるほどに。

 声の主は白いブラウスが肌にピタッと付き、酷く汗をかいているようだった。声は呼吸に変わり、浅く、浅く、深く、一定のリズムを鳴らしている。本人の意思とは関係なく、潜在意識と一般常識に刷り込まれたそのリズムは不規則に続き、再び呼吸が声に変わったかと思うと、大きく短い叫び声が響き、瓦礫と暗闇に飲み込まれた。


「ぎぃっ、ああーっ! ああーっ!」


 小さな命の誕生を知らせる声がする。


「ひぐぅっ」


産声を上げた刹那、その声は力づくでねじ切られたように消え失せた。

 小さな命はこの世に生を受けわずか数秒で、自らを産み落とした存在によってその命を絶たれたのだ。

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