第29話 次なる展開

  29


 その人は片頬を引き攣らせるような笑いを浮かべて言った。

「もし何か困ったことがあったら言ってくれ。なんせこの子達はきまぐれだからね。しばらくはちょっと大変かもしれない。毎週水曜の午後は、放課後にこの学校の便所を掃除に来ているから」


「トイレ、清掃ですか…」

「ふん、君もやっぱり俺のことを軽蔑するかい?」

「いえ、そんなことは…」

 麻里子はただ、そうか、それでこの人は作業服を着ていたんだ、と思っただけだ。


「便所掃除なんて、昔は普通に生徒達にやらせていたもんだが。今はそんなことを生徒様にやらせようもんなら、体罰になるんだとさ」

 笑いながら男はブラシやら洗剤やらが入った青いバケツを、こちらに見せるように少し持ち上げて言った。


「だとすると俺は、ずっと罰を受け続けているということになるわけだ。そう、罰を受けるのが今の俺の仕事だ。笑いたきゃ笑ってくれていい」

「笑ったりしません。職業に貴賤の別はないと習いました。どんなお仕事でも例外なく価値があると」

「さすがは進学校に通うお嬢様らしい、いかにも優等生のお言葉だな」

 皮肉交じりの言葉が男の口から漏れた。

「・・・・・・」

「まあ、いい。こうやって罰を受け続けているおかげで、俺は死なずに、こうして生き永らえているんだからな」


 そうして男は薄笑いで、さらに自虐的な言葉を口にした。

「人が排泄してよごした便器に付着した汚物を拭き取り綺麗にする。そう、これは俺の犯したけがらわしい罪に対して与えられた罰なのさ。永遠に許されることのない罪。汚辱に満ちたこの俺にこそふさわしい…」



 ****



 物の怪達が創った結界が解けると、深山麻里子は逃げるように学校の中庭を抜け出し、H公園へと急ぐ。何としてもあの男に会わなければ。


 ――このままでは、このままあの妖怪を自分の手元に置いておいたら、きっと大変なことになる。

 

「もし水曜以外で俺に会いたければ…。そうだな、H公園の便所でも探してみてくれ。金曜の夕方に、俺はそこで罰を受けているはずだ。この学校の近くだ、運がよければ今日のように会えるかもしれない。それ以外の日かい? もっと遠い場所で罰を受けているんだよ」

 ニヤリとまた自嘲的な笑みが漏れた。


――そういう時は、そうだな、この子たちに案内をさせるといい

 

 その時、あの人はそう言うと、手の平の上の小さな黒い毛玉を優しく撫でていた。





 キュイー、キイ、キイ


 一匹だけになってしまったあの子がいる。いや、こんな妖怪でも、一匹だけになってしまって、悲しくているのだろうか。


――そうだ、金曜日にこんなことが起きたのも、偶然ではなく、運命なのかもしれない。もうこれ以上私には無理。早くこの子を返してしまおう。

 



 公園に辿り着いた。

 週末の午後、遊びに興じる近所の子供たちの喚声があちこちから聞こえてくる。園内をランニングしている人が、狭い道の真ん中で立ち尽くしている自分の脇を、迷惑そうにすり抜けて行く。

 

 しかし、この広い公園の中にトイレは一体何ヵ所あるのだろう。その一つ一つをあの人が全て掃除して回っているのだろうか。


 近くにあった園内の案内地図を見てみる。パッと見ただけでも、男女の人型を模したトイレのマークは七、八ヵ所以上はある。


――そうだ、会いたければこの子達に案内させろ、って言っていた。


 こいつらはどこに居ても、きっと俺の血の匂いを嗅いで、俺のところまで連れて来てくれる、そう言っていた。


「ねえ、お前、あの人がどこにいるかわかる? 私をあの人のところに案内して!」麻里子は静かに頭上を漂う黒いモノに向って言う。


 すると、その黒い毛玉の物の怪は、風を纏い、身を翻して飛び始めた。その途端、強い風が全身を吹き抜ける。一瞬顔を背け、もう一度虚空を見上げると、麻里子は飛び去る物の怪の後を急いで追い掛けた。



 四、五分の間、黒い物の怪の後を追っていた麻里子は、目の前に小さな公園トイレの建物を認めた。

 見ると、女子トイレの入り口付近に「清掃中 使用禁止」と書かれた黄色い三角の、小さな立て看板が目に入った。


 すぐに中からグレーの作業服姿のあの男が、青いゴムの手袋を外しながら現れて顔を上げた。

 その頭上を、物の怪が嬉しそうに何度も行ったり来たりして舞っている。


「おや、これはこれは、誰かと思えばお嬢さん。随分と久しぶりだね」目の前にいる麻里子の姿を見ると、言いながら、左腕を高く差し伸べた。

「わざわざ俺なんかを尋ねてくるなんて、さては何かあったのかい?」


 そうして、まるで鷹匠のように、黒い毛玉を左腕に載せると、そいつに向って話し掛ける。

「やあ、大きくなったね。元気だったかい? うん? お前、弟はどうしたんだい?」


「あの、助けて…。お願いです。助けてください!」麻里子が叫んだ。


「ふむ。何があったのかな?」

 男は物の怪から麻里子の方へと目を移すと、凍り付くような、冷たい視線を向けた。


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