第1話
河合 春は、どんくさく、その上仕事を覚えるのが苦手な節があり、人間関係を構築することも苦手としていた。
なので、どんな仕事も長続きせず、会社から戦力外通告も受けたこともあるし、いじめを受けて自主的に退職したりして、職場を転々としてきたのだが、前の年の十二月に地元の老舗旅館、紀北荘の受付業務の求人を見つけた。
前職をお局のしつこいいじめにより退職し、無職になり、雇用保険の支給が終わる二か月前のことだった。
面接には落ち続けていた。
そんなに自分はいらない存在なのか、と泣いた夜だってあった。
面接の日、その年の七月に亡くなった祖母の形見の黒いバッグに荷物を入れて向かった。
祖母が見守ってくれているような気がした。
紀北荘の支配人は、五十代くらいの、明るく、ざっくばらんな女性だった。
話を聞くと、その年の四月から支配人として配属されたらしい。
支配人をやるのは初めてだから何事も手探りなんだと笑っていた。
紀北荘といえば、元の経営陣のころからだと、もう何十年と和歌山の紀見峠駅の徒歩圏内に鎮座し、お客様をもてなしてきた老舗旅館だが、経営陣や支配人が変わり、全く違うものになっているらしい。
求人内容は、受付業務、となっているが、紀北荘の業務のほぼ全ての仕事を覚えてもらいたい、と言われ、困惑した春。
「あ、あの、私、仕事を覚えるのが壊滅的に下手で……」
「大丈夫大丈夫!! そんな直ぐに完璧になれとは言わんし、ゆっくり覚えてくれたらええよ!!」
そして、支配人の明るい優しさに惹かれ、紀北荘で仕事をしてみたいと思い始める。
支配人は、採用したい、私は貴女の人間性を気に入った。というが、嬉しいながらも春は少し悩む。
しかし、従業員みんな私みたいな明るくて面白い人たちだし!! と言われ、この支配人みたいな人ばっかりなら楽しそうだな、と雇用契約を春は結んだのだった。
結局、年末から入社し、仕事をしたが、受付業務はもちろん、客室清掃、大浴場の清掃、宴会の配膳などなど、人員不足から、入社早々なんでもやらされる羽目になった。
毎日頭をパンクさせながら仕事をしていた春だが、しかし、受付の直属の先輩で四十代くらいの女性従業員の多田を始め、従業員は確かに皆優しく、明るく、面白い人たちだった。
春は、それが救いで、朝九時から十八時までの八時間労働を耐えたのである。
そして、年が変わって、春と同じ名前の季節が来て、桜が綺麗な紀北荘に宴会シーズンが到来し、慌ただしく日常を消費していく春は、ある男と、出逢った。
その男は、法事で親戚一同様と紀北荘にやってきた。
そして、大きなスーツケースを持っていた。どうやら紀北荘に宿泊するらしい。
「すみません、チェックインは三時だっけ?」
宴会は十二時から十四時。
チェックイン開始は十五時だから、少し早いが、延長もありえるのでまあ、そんなに待たずにチェックイン出来るだろう。
男の質問を承ったのは、仕事が板についてきた、春だった。
「左様でございます。お時間までお荷物お預かり致しましょうか?」
「ありがとう、じゃあ、頼むよ」
「かしこまりました! こちらが引換券になりますのでお引き取りの際にご提示ください」
「わかった」
春は、男のスーツケースを預かると、深々と頭を下げ、会場に向かう彼を見送った。
スーツケースは事務所の奥に鍵のかかる部屋があるので、お荷物お預かりはいつもここに保管するようになっている。
男はというと、スーツケースをわっせわっせと難儀しながら運ぶ春の後ろ姿を少し見つめて、頬を赤らめ、叔父にそれを揶揄われていた。
春は、その後、受付業務を多田に任せ、法事のお食事の配膳をこなしていた。
お酒好きばかりらしく、瓶ビールが飛ぶように無くなった。
「お姉さん、ちょっといい?」
「はい、いかがなされましたか?」
バタバタと配膳を頑張る春を呼び止めたのは、あの優男だった。
「ビール、一本いいかな」
「ビールですね! 少々お待ちくださいませ!」
春は、男から注文を承ると、メモをしながら裏にビールを取りに行った。
「あら、またビール? 今日はよぅ出るね」
「紀北荘的には大儲けですね!」
「せやね!! 私、ちょっとビール追加で持ってくるから、春ちゃんここお願いできる?」
前の支配人の時からの従業員の長野が貯蔵庫に向かおうとするので、春は、「お任せください!」と元気に送り出した。
紀北荘に就職してから、明るくなったような気が、春はしていた。
春は、男に注文された瓶ビールを裏で開栓し、急いで持っていく。
「お待たせしております。ビールでございます」
「ありがとう。くだらないこと聞くけど、お姉さんは受付の人じゃないの?」
男からそんな質問を受けるとは思ってなかったので、一瞬大きく目を見開いた春。
でも、気になったんだろうなぁと素直に答えることにした。
「私、配属は受付なんですけど、なんでも屋なので」
「そうか、ふふ、かっこいいね。頑張ってな」
「ふふ、ありがとうございます」
春は、失礼します。と一言添えてその場を去っていった。
「たーっちゃん!!」
「ぐわ!! いった……。おっちゃんなんやねん」
気になる女の子と話せてご機嫌な男こと、武藤 辰は、隣に座っていた酔っぱらいの叔父に勢いよく肩を組まれ、顔をしかめる。
おっと、普段は出さないようにしている関西弁も、ぽろり。
「お前、あの女の子狙ろとるやろ」
「……やったらなんやねん」
「おっちゃんがキューピットになったろか?」
「余計なお世話や。この酔っぱらいめ」
「がははははは!!」
果たして、辰は意中の女の子こと、春に先ほどの質問以上の話題を持ちかけられるのだろうか。
貴方の瞳に恋した私を貴方の熱で溶かして 三途ノ川 黒 @jakou
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