コオロギ心中

 夕焼けをあかい貨物船が眠った女の横顔のように過ぎていく。だれもいないのに、たましいが運転するように舵のとられていた。ゆくさきもなく止まることがない。すり減って石ころになって白亜紀へ還っても進みつづける。


 おなじ海へであったり、優しい夕暮れが嵐を呼ぶ前触れだったりする。やはりなお進みつづけて、シャボン玉みたいに破滅することだけを望む。この船はなんでこうまで進むだろ。


 むかしを頼れば、ロクアンドレアのコオロギが関係している。ロクアンドレアはそのコオロギがよく鳴いて、いわゆるレーザーのような音をたてる。夜などはとても眠れない。ロクアンドレアだけ眠れる。


 彼は不眠症と自己嫌悪をずっと抱え込んで、地上のあらゆるものがアリジゴクに嵌まっていて、一点になにもかもかき集まってしまうのを怖がった。ゆえ船乗りになった。


 しかしつぎには、海の波がぶち当たってくるのは、疎外感を撫でてくると怖がった。陸海のどこもいけなくなると、パイロットへなりたがった。ただ学が足りなかった。またけっきょく空はなにもない怖さだけがあるんだと、酸っぱい葡萄あつかいした。


 やがてあらゆる四方が怖くなって、眠られなくなった。そこでコオロギだった。虫かごのなか、海のうえで夜に鳴いてくれるだけで地上の夜の感触が得れて、この地上と海の夜ふたつが混ざりあってだれとも違った逢魔が時が訪れる。その微妙ななかでまどろんでいける。


 ただざんねんにも、この逢魔が時は、ロクアンドレアのみ見ることができ、聞くことができた。ほかのものたちは、レーザーで焼ききられた耳の夢が横殴りをしかけてくるだけ煩わしかった。


 ほかのものたちは、だまってコオロギを海へ捨てた。ロクアンドレアは下っ端で怒ったところで民意的に勝てる打算であった。ここでふしぎなこと、その日にロクアンドレアもいなくなった。みな探したが、結末は海に消えたのだとなった。


 コオロギ心中などと馬鹿にしたり、はかなんだり。ともかく船員の追加もろもろのため、港に訪れる。船内みな出払って、すると船の勝手でうごきだす。どこかへ行ってしまう。夕焼けに向かっているようでいて、意味のない空間をかき分けていくことのみをねがっているようでもあった。


 こののちまたふしぎのあって、ロクアンドレアなる人物は船の名簿には端から載っていないそう。名前の消えたのでなく、そもそも名の列に並んでいない。


 そういやあのコオロギってどんな色だった? 誰かの言い始めて、みなで答え合わせするも、まとまりきらない。こんどロクアンドレアの相貌は? となった。しかしあいまいなものは、まったくあいまいなままであった。そしてしまいに、海と陸の堺までわかんなくなりそうだと、だれか神妙つぶやいた。


 それからいまでもあかい船は出没するが、夕焼けを背景として女の横顔の影絵であらわれるのだった。なぜ進むか、進んでいるのかすら船そのものにもわからない。

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