二人へ


 楽器も持たずに昇降口へと向かう。外に出た途端、ジワリとした空気が制服の上からまとわりついてくる。それを振り払うように、歩き慣れた校庭への道を進んでいく。校庭の外をぐるりと囲むように木々が並んでいて、一際大きな木の下は無数の枝葉が影を作っていた。

 影に収まる位置に座ると、正面に校舎が見える。4階の一番右が音楽室だった。開け放たれた窓の側でベージュのカーテンが揺れているのが辛うじて見えた。

 やがて管楽器の高音が聞こえてくる。それが合奏前の音合わせだということは、この場所で散々聞いてきたからすぐに分かった。

 その部屋の中で、選ばれた40人がコンクールに向けて汗を流しているのだ。もうそこに自分が関係していないのだと感じて、ぽっかりと胸に穴が開いた気持ちになる。

 思えば、彼女が吹奏楽部に入ってきた時から、この未来は決まっていたのかもしれない。そもそも顧問がオーボエを組み入れると言ったのも、彼女が入学することが分かっていたからではないか。そんな邪推も浮かんだが、もうどうでもいいことだった。自身のコンクールは終わり、演奏の支えになっていた詩織の敵討ちも出来ない。

 演奏を失敗することも出来なくなったことで、あの時の詩織の気持ちを知ることすら出来なくなった。


 課題曲が耳に届く。もうすぐ、オーボエの音も聞こえてくるだろう。

 大きく伸びをすると、日陰の涼しさもあって眠気がやって来た。ごろりと制服のまま寝転がる。枝葉の隙間からわずかに陽光がキラキラと輝いている。

 ふと掌をかざしてみた。頭の中で陽気なリズムと共に、『手のひらを太陽に』が流れて来る。小学校の吹奏楽クラブで初めて演奏した曲だった。あの時はまだカスタネットを叩くだけだったことを思い出し、ふっと笑いがこみあげた。


 今まで自分がしていたことは間違いだったのかという思いが、脳裏をかすめた。

 やりたかったオーボエではなく、演奏出来るサックスを続けるべきだったのだろうかと。

 そうしていれば、もしかしたらコンクールには出られたかもしれない。こんな気持ちでこの場所に居ることも無かったのかもしれない。

 けれどその思いはすぐに消え去った。きっとサックスを選んでいたら、今頃はオーボエをやっておけば良かったと後悔しているに違いなかった。

 何より詩織と過ごした日々はミノルにとってかけがえのない大切な時間だった。 

 詩織と過ごした記憶が、頭の中に蘇ってくる。

 詩織の声。笑顔。歩く姿。そして、オーボエを吹くきっかけをくれた彼女の演奏。

 そのどれもが全部、出会えて良かったと心から思える。そんな気持ちをくれた詩織には、感謝の気持ちしかない。


 そして二年前のコンクールで見た彼女の姿が浮かび上がる。うな垂れて引き下がる姿と同時に、あの時何も出来なかった自分を思い出して、胸が苦しくなる。

 消せないあの日の出来事は、自分を苦しめたりもしたけれど、練習をする上での原動力にもなっていた。


 いつの間にか合奏が終わっていて、代わりに運動部の掛け声が鮮明に聞こえてくる。

 放課後はまだ長い。この後どうしようかと考えていると、

「山縣先輩」

「うおっ」

 ふいに聞こえた声に、横にしていた体を慌てて起こす。

 両角香菜が両手に黒い楽器ケースを持ち、ミノルの側まで来ていた。

「何だよ両角か」

「何だよではないです。もうパート練習の時間ですよ」

 これ、と言って煤けた方のケースをこちらに向けて来る。ミノルが使う前から古ぼけてはいたが、さらに年季が入っていた。陽光に当たって、鈍く光っている。

 しかしミノルはそれを見ただけで、受け取ろうとはしなかった。もう自分には必要ないと思ったからだった。

「僕がいなくても、両角一人で十分だろ。この場所で練習したいなら、僕が除けるよ」

 そう言って立ち上がるミノルに、香菜は溜息を吐いた。

「それはダサいですよ。先輩」

 ダサい、という言葉にミノルは動きを止め、香菜の顔を見た。小柄な彼女の目線は冷ややかで、これまでに見たことのない光景に、思わず唾を飲む。

「ダサいってどういうことだよ」

 取り繕う声に先輩の威厳なんてものは無かった。さながら刑事に追い詰められた犯人のようだった。

 香菜は楽器ケースをその場に置いて、細い腰に手を当てた。

「メンバーに選ばれなかったからってふてくされて、僕に構わないでくれーって所ですよ」

「別にふてくされてなんかいない」

 顔を背けて話を打ち切ろうとする。けれど香菜は話を続けた。

「後輩としては、頑張ってくれって言って欲しかったんですけどね」

 少し下がった声のトーンに、舌唇を噛み締める。

 励ましのセリフを言えるほど、今の自分は大人じゃなかった。2年前のあの日から、相手に掛ける言葉を見つけられずにいる。

 今でさえ、頑張れの一言も伝えることが出来ない。目標を失った自分を認められず、ただ立ち尽くしたままだ。


 二人の間に風が通り抜ける。熱を含んだその風は、あっという間に遠くへ行ってしまう。残された自分の体に、何も出来ない悔しさが滲んでいた。

 遠くで楽器の鳴る音が聞こえる。各楽器のパート練習が始まっていた。

 この現実から逃げるように聞いていると、香菜が動く気配がした。見ると、こちらとの距離を縮めている。

 ミノルはその場から動けなかった。

 そうして香菜は、少し恥ずかしそうに口を開いた。


「私がこの学校に来ようと思った切っ掛けを、先輩は知っていますか?」

 唐突に告げられた言葉に、ミノルは首を傾げた。

「そんなこと、知るわけないだろう」

 ぶっきらぼうに答えたが、そんなことは気にも留めない様子で、香菜が話を続けた。

「去年、とある大学の演奏会を見に行ったんです。そこで聴いたオーボエ奏者の演奏が、とても素敵でした。もう一度勇気を持って立ち上がるような、そんな気持ちが伝わって来たんです」

 心臓が跳ねた気がした。思わず香菜の顔を見た。

 ミノルの唖然とする顔が可笑しかったのか、香菜はふっと笑顔になった。

「その人は、この高校の出身でした」

 呼び起される、オーボエを教えてくれた、先輩の姿。

「そして、ここでもオーボエを吹いていたそうです」

 過去の記憶を辿るように、一つ一つ話していく香菜の声はしっかりとミノルの耳に届いていた。

「それって……」

 ミノルの脳裏に、部活紹介で聴いた詩織のオーボエの音色と、自信ありげなその立ち姿が浮かび上がってくる。鮮明に色づいたその光景が、暖かな思い出となって胸の中を満たしていく。

「それで私は、この高校に来たんです。私もあんな風に誰かの心に残るような演奏がしたいって思ったから。だから」


 小さな手が、そっと彼女の胸に置かれた。


「あとは、私に任せて下さい」


 その言葉に、ミノルは体を貫かれた。そしてようやく正解が見えた気がした。

 

 あのとき詩織に掛けたかったのは、この言葉だったのだ。


 僕がいる。あなたの演奏を引き継いで見せる。下を向かないで下さい。貴女の演奏を、貴女が教えてくれた僕の演奏で繋いで見せます。


 ―だから僕に任せて下さい。―


 張り詰めていた空気が緩んでいく。肩の力が抜けていき、心地の良い脱力感が生まれる。

 

 言い終えた香菜の表情は真剣だった。何かを訴えかける瞳が、ミノルを捉えて離さない。


 詩織があれからどんな辛い気持ちでいたか、想像出来るなんて言わない。もう一度演奏することに恐怖を感じているとか、そんなことは勝手な想像に過ぎない。 

 今も演奏をしてくれている。ただそれだけで良かった。

 そして自分も詩織のように、いつか過去の負い目など、気にならなくなるのだろうか。

 いや、過去の出来事は、消そうと思っても簡単に消せるものではない。ずっと心に抱きしめて歩いて行くのだろう。

 だから演奏を続けるのだ。演奏で受けた傷は、演奏をすることでしか癒せない。

 

 今日の出来事は、これからもずっと、卒業しても、忘れることは無い。

 けど、それで良い。その道を歩いて行く。

 その道の先で、いつかまた、先輩に会えるかもしれないから。


「山縣先輩……?」

「もういい」

 その言葉を遮るミノル。

 拒絶されたと勘違いした香菜に、ミノルは続きを口にした。

「もう分かったから、やるぞ、パート練」

 その言葉を聞いて、香菜の表情がぱっと明るくなる。

「僕がいた所で、何か足しになるとは思えないけどな」

 自嘲気味に笑うが、香菜は「そんなことないですよ」とはにかんだ。

 香菜から楽器を受け取る。その瞬間、初めてオーボエを受け取ったときのことを思い出した。

 詩織の笑顔が、わくわくした気持ちと共に蘇る。

 浮かび上がる詩織へ、ミノルは心の中で感謝を告げた。


 ―先輩、すいません。僕はコンクールに出られませんでした。けど、精一杯やりました。僕にオーボエを教えてくれて、ありがとうございます―


 用意が出来ると、香菜がこちらをちらりと見た。

 それに頷くと、ミノルはオーボエに息を吹き込んだ。


 二人の敵討ちを、小さな1年生に任せながら。

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オーボエは繋ぐ 月峰 赤 @tukimine

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