最近、契約で婚約した冷血皇太子様が目を合わせてくれません……。

安居院晃

婚約者の冷血皇太子様が最近目を合わせてくれません

 世界が闇に沈み、三日月が空の主役となった夜。


「最近、幽冥ゆうめい様が目を合わせてくれない……」


 広大な敷地面積を有する寝殿造りの豪奢な屋敷。

 その一室、私が私室として使っている部屋にて。

 憂鬱な感情を多分に孕んだ声音を喉奥から零し、私は机に突っ伏した状態のまま肩を落とした。


 自然とため息が零れる。

 身体の力が抜けていく。

 まるで心の状態がそのまま肉体に反映されているように、身体が鉛のように重かった。


「どうしたの、春風はるかぜちゃん」

「…………雨百合あめゆりさん」


 このまま机に突っ伏したまま眠っちゃおうかな。

 と、瞼を下ろした瞬間に聞こえた、襖を開ける音と女性の声。瞬時に入眠を止めた私はそれらが聞こえたほうへと顔を向け、そこにいた人物に片手を上げた。


 とても綺麗な大人の女性だ。

 私よりも高い背丈に、性別を問わず羨み憧れる均整の取れた体躯。手入れの行き届いた茶色の長髪は蝋燭に灯る火の光を受けて輝いていた。

 彼女の名前は雨百合。

 私の──私たちの世話をする使用人を取りまとめる侍従長であり、とても頼りになる人だ。


 私の隣に移動した雨百合さんは机に頬杖をつき、私の顔にかかっていた髪をそっと払い、私に問うた。


「元気ないね。悩み事?」

「いや、ちょっと……」

「もしかして、幽冥様とのことで悩んでる?」

「……なんでわかるんですか」

「そりゃわかるよ。春風ちゃんが悩むことと言ったら、あの冷血皇太子のこと以外考えられないからね」


 まるで私が常に婚約者のことを考えているみたいな言い方。

 けれどまぁ……否定はできないかな。


 その事実に若干恥ずかしくなりながら、私は沈黙する。

 口を閉ざした私に、雨百合さんは『お姉さんが話を聞いてあげましょう』と何処か楽しそうな微笑を浮かべた。


「んで? 春風ちゃんは、幽冥様との何で悩んでるの?」

「それは、その……」

「子供でも授かった?」

「授かってません! 私と幽冥様はまだ清い関係ですから!」


 あまりにも配慮や遠慮のない質問に、私は思わず声を大にして否定した。


「わ、私たちは正式に夫婦になるまで清い関係でいようと、約束していますので!」

「……それ、どっちから言ったの?」

「え? それは、幽冥様ですが……」

「あんのヘタレ皇太子が……」


 とても主人に対して言うことではない台詞。

 しかし雨百合さんはそのことを気にする様子もなく、自分の額に指を当てて頭を左右に振った。

 やれやれ、と呆れた様子で。


「幽冥様……家柄も地位も権力もあって、容姿も端麗。表では『冷血皇太子』なんて呼ばれてるくせに、実際は可愛い婚約者に手も出せないヘタレとは……男ならガツガツいきなさいよ、全く」

「あの、雨百合さん?」

「あー、なんか考えてたら腹立ってきた。もういっそ私が春風ちゃんのこと食べちゃおうかな」

「何を変なこと言ってるんですか!」

「冗談。流石にそんなことしないよ」


 ケラケラと笑う雨百合さんに、私は自分の顔が赤くなっていることを自覚しながらホッと息を吐いた。


 幽冥様は、私の婚約者だ。

 この国──水盟国すいめいのくにを治める帝の息子たる皇太子であり、絶世と評されるほどの美貌の持ち主。

 年は私よりも二つ上の十八歳。

 とても真面目な性格で、浮ついた話は一つもない。

 遊ばず、浮つかず、また感情の機微に乏しく人を寄せ付けない雰囲気を纏っていることから『冷血皇太子』という異名までつけられている。

 実際に接してみると、彼が噂通りの人ではないとわかるのだけど……独り歩きした噂から、彼のことを怖がっている人も多いらしい。


 私の悩みは、そんな婚約者とのことだ。

 とはいっても、別に冷たくされているとか、嫌なことをされているとか、男尊女卑が激しすぎるとか、そういうわけではない。

 ただ最近、これまでとは態度が変わったというか……。


「なんだか最近……幽冥様に避けられているような気がして」

「よし、待っててね。今からあのヘタレ皇太子を一発ぶん殴ってくるから」

「ちょっと待って本気でやめてください!!」


 本当に有言実行しそうな気迫で部屋から出て行こうとした雨百合さんの腰にしがみつき、私は必死に止める。

 相手は皇太子。手を出せば本気で死刑になりかねないんだから、感情に任せて動かないでほしい。

 というか私の婚約者様を殴ろうとしないで!


 本当に、雨百合さんは過保護というか愛が深すぎるというか……嬉しいことなんだけどね。

 私の懇願を聞き入れた雨百合さんは退室を止めて再び座り、しかし、纏う気迫はそのままに、私の肩に手を置いて言った。


「いい? 春風ちゃんは国宝にも等しい女の子なの。次代の皇后になるわけだから、繊細に接しないといけないのは当然のこと。ううん、それ以前に。貴女はとっても可愛くて、美しくて、儚くて、可憐で、何者よりも価値があるの。そんな貴女を悲しませた時点で、幽冥様は五発や六発の拳は受けるべきなの。わかる? なんでわからないの? 春風ちゃんは自分の可愛さを自覚するべきよ?」

「なんで私が怒られてるんですか!」


 理不尽に叫んだ私は不穏な雰囲気を漂わせている雨百合さんを何とか宥め、落ち着かせ、悩みの詳細を話した。


「露骨に避けられているというわけではないんですけど……何というか、目を合わせて貰えないことが多くて、身体が触れそうになると距離を取られたり……」

「あの野郎……」

「あ、でも! 仲が悪いというわけではないんです。会話は普通にできますし、食事をする時も一緒で……先日は新しい簪を贈っていただきましたし。それに──」


 と、その時。


「春風、いるか?」


 襖が開かれ、一人の青年が姿を見せた。

 艶やかな銀糸の髪と蒼い瞳。高い背丈に、細身ながらも鍛えられていることが十分に伝わる身体。その美貌は完璧以外の言葉では言い表すことができず、自らと同じ人間なのかすら疑わしく思えてくる。


 彼が幽冥様だ。次代の国を担う皇太子にして、私の婚約者。

 まさに絶世。彼以上に美しい者などこの世界には存在しないと、本気でそう思える。


 彼に名前を呼ばれた私は立ち上がり、背筋を正して応じた。


「如何なさいましたか、幽冥様」

「霊がいた。すぐに来てくれ」

「! 承知いたしました…………あの」

「では、門の前で待っている」


 私の声を遮った幽冥様は、用は済んだと言わんばかりに私から顔を背け、立ち去ってしまった。

 嗚呼……私、やっぱり嫌われて……。

 と、再び肩を落として憂鬱な溜め息を吐いた時。


「あれは大丈夫だよ、春風ちゃん」

「え?」


 何が?

 視線で尋ねると、雨百合さんは優しい手つきで私の頭を撫でつけて言った。


「幽冥様は、貴女のことを嫌っているわけじゃないから。寧ろ……いや、これはちゃんと本人の口から言うべきね。そもそも自覚しているのかすら怪しいけど」

「?」

「とにかく! 嫌われてるわけじゃないから安心しなさいな。ほら、早く彼のところに!」


 ぐいぐいと背中を押された私は廊下へと出された。

 雨百合さんは今の幽冥様の何処を見て、嫌っていないと判断したのだろう。

 その疑問を問うても雨百合さんは答えてくれず、『早く行きなさいな』と言うだけだった。

 これは、どれだけ聞いても答えてくれないやつだ。

 それに、幽冥様を待たせるわけにはいかない。雨百合さんから答えを得るのは諦めて、今は自分のやるべきことを済ませに行こう。

 気持ちを切り替えた私は一度呼吸を整え、よし、と気合を入れ、幽冥様の待つ屋敷の門へと向かった。


「本当に……可愛いくらいに初心だね」


 直後、背後から雨百合さんの呆れたような声が聞こえて振り返ったが、そこには既に、彼女の姿はなかった。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 この世界には二種類の霊が存在している。

 人に害をなすことのない、現世を彷徨うだけの善霊。

 そして、悪意を持って人に害をなす危険な悪霊。


 今宵姿を見せたのは前者だ。

 屋敷の門前で私を待っていた幽冥様。彼の傍にいたのは、半透明の鹿だった。神秘的な青白い光を纏っており、何処か神々しさを感じる、美しい森の住人。

 鹿は現れた私を見つめたままジッと動かない。

 まるで、自分を救ってくれる救世主を見つけたように、微動だにしなかった。


 この子はわかっているらしい。

 私が、自分が求める存在であると。


「頼むぞ、春風」

「おまかせください」


 幽冥様に頷きを返した私は立ち尽くす鹿の傍で膝を折り、眼前に両手を掲げ瞼を下ろした。

 集中し、祈り、意識を自らの手先に向けた──その時、虚空から美しい白の羽衣が顕現した。天を横断する天の川にも似たそれは瞬く星々のような輝きを放ちながら、微風に揺られ宙を揺蕩う。


 この羽衣は、私が持つ力を象徴するものだ。

 他の誰もが持たない特別な力──現世を彷徨う霊魂を黄泉の世界へと送り届ける。この力を発現する時、私は羽衣を纏うのだ。まるで天女のように、女神のように。


「……さぁ、いってらっしゃい」


 白い光を纏う両手。

 送り届ける言葉を口にし、その手で鹿の顔に触れた──直後、心地よさそうに瞼を下ろした鹿は淡い蒼の光となり、空気に溶けて消え去った。

 救済完了。あの鹿は、無事に黄泉の世界へと旅立った。

 証拠は見せられない。けれど確証はあった。救うことができたという、確信が。


 どうか、安らかに。

 心の内で呟いた私は立ち上がった。


「終わりましたよ、幽冥様」

「ああ、ご苦労様。……相変わらず、美しい羽衣だな」


 幽冥様は私に労いの言葉を送ったん落ち、私の背後で揺らめく羽衣を見つめて言った。


「霊魂を黄泉の世界へと送り届ける天女の力……霊からすると、其方は女神に等しい存在なのだろうな。自分たちを救ってくれる、救世主」

「大袈裟ですよ。私はただ、自分の力の責任を果たしているだけです」


 力には責任が伴う、とはよく言ったものだ。

 もしも私が霊を救済しなければ、彼らは永遠に現世を彷徨うだけだ。それはあまりにも宝の持ち腐れであり、あまりにも彼らが可哀そうだ。

 力を与えられたのならば、然るべき行動を。

 幼少期から教えられた教訓に従っているまでだ。


「その謙遜も美徳だな」


 私の回答に幽冥様は微笑み──その時、夜風が強く吹き付けた。

 夜に冷やされたそれは瞬く間に私の体温を奪っていき、冷やされた身体は反射的に身震いする。耐えられないほどではないが、肌寒い。昼間の温かさが恋しくなった。


「──……さむ」

「今夜は冷えるな」


 自分の身体を抱きしめた私の肩に、幽冥様は着物の上から纏っていた羽織をかけてくださった。幽冥様の体温が残っており、彼の温もりが感じられて温かい。身体だけではなく、心も。

 私は羽織の前側を握りしめ、幽冥様にお礼を告げた。


「ありがとうございます、幽冥様。ですが、これでは幽冥様が……」

「案ずるな。俺は元々、人よりも体温が高い。それに、俺としては其方に風邪を引かれるほうが嫌なのだ」

「……」


 優しい。彼の心遣いには素直に感謝したいのだけど……やはり、幽冥様は私と目を合わせてくれない。会話こそ成立しているけど、今も彼の視線は屋敷のほうに向いている。


 嫌われているわけではないんだけど……本当に、どうしてだろう。

 首を傾げつつ、私は幽冥様に言った。


「屋敷に戻りましょう。いつまでもここにいては、本当に幽冥様が風邪を──」


 と、言いかけたその時──ゾワッ。

 全身を不快な悪寒が駆け巡り、肌が粟立った。

 怖い。何かよくないものが来る。近づいてくる。


 膨れ上がった恐怖心に、身体は硬直したまま動かすことができない。一歩たりとも、この場から移動することができない。

 どうしよう。どうしよう。このままじゃマズイ。

 直に感じた命の危機。私はそれに、カタカタと身体を震わせた──瞬間。


「俺の伴侶に近付くな──悪霊が」


 ぐい、と私の身体を抱き寄せた幽冥様は、いつの間にか抜き放っていた腰元の刀を振るい、一閃。

 直後、私の鼓膜を醜い断末魔が揺らし、視界の端に闇の破片が現れ、それらは一秒にも満たない刹那の間に消え去った。

 もう命の危機は感じない。悪寒もない。

 感じるのは、布越しに触れあった幽冥様の体温だけだった。


 リン。

 緋色の刀身を鞘に納めた幽冥様はフゥ、と一息つき、私に言った。


「もう大丈夫だ。悪霊は今、俺が祓ったか、ら──」

「? 幽冥様?」


 言葉を途中で切った幽冥様に、どうしたのだろう、と尋ねると、彼は慌てた様子で私から身を離した。

 そして、コホン、と咳払いを一つ挟み、わざとらしく屋敷のほうへと身体の正面を向けた。


「さ、さて。用は済んだ。ここは冷えるし、早く屋敷に戻って寝ると──」

「待ってください」


 逃がさない。

 そんな強い想いを胸に、私は幽冥様の袖を摘まみ、彼を引き留めた。


「は、春風?」

「……嫌いになってしまったのですか?」

「え?」


 驚いた様子の幽冥様には構わず、私は続けた。


「最近、幽冥様は私と目を合わせてくれません。それに、傍によると今のように慌てて離れてしまいます。会話も以前よりも少なくなったように思います。貴方は……私を嫌いになってしまったのかと──」

「そんなことはないっ!!」


 冷血皇太子の名には似合わない大声で否定した幽冥様は、ハッとした後、やや言いづらそうに続けた。


「いや、その……変な態度を取ってしまったことについては謝る。すまない。嫌な思いをさせてしまったな」

「い、いえ、とんでもございません」

「ただ、俺は其方を嫌いになったわけではない。勿論、疎ましく思っているわけでも。これは真実だ。信じてほしい」

「……では、どうして?」

「えっ……と、だな……」


 私の問いに、幽冥様は頬を掻いた。

 恥ずかしそうに、気まずそうに。


「まず……俺と其方は、互いの利害が一致していたから婚約者になった。そうだな?」

「は、はい。私たちが一緒にいれば、全ての霊を祓うことができる、と」


 私と幽冥様の婚約には恋愛感情はなかった。

 悪霊に狙われやすい体質の私を護る代わりに、幽冥様の霊魂救済に協力する。あくまでも、契約。仮初の婚約者として、私たちの関係は始まった。

 勿論、憶えている。忘れるわけがない。


 そのことを確認した幽冥様は続きの言葉を口にした。


「言い方は悪いが、以前の俺は其方の隣で平静を保つことができていた。落ち着き、他ごとを考える余裕もあった。だが、最近は、その……──」

「え?」


 急激に小さくなった幽冥様の声。

 至近距離ではあったが、よく聞きとることができなかった。

 私が難聴なのではない。幽冥様の声があまりにも小さいから、聞き取れなかった。

 なので、私はもう一度、と幽冥様にお願いをする。


「すみません、良く聞こえなかったので、もう一度……」

「だ、だから……──だ」

「? あの、もう一度」

「いやだから……あぁ、もう──ッ!!」


 全く聞き取ることのできない私に対してか、或いは声が小さくなってしまう自分に対してか。

 苛立ちを募らせた幽冥様は痺れを切らした様子で声を荒げ──やや乱暴に私の手首を掴み、私の手を自分の胸の中心に押し当てた──直後。


 ドクン、ドクン


 掌に伝わってきたのは、通常の鼓動よりも遥かに大きな、大きな、心臓の音。

 明らかに冷静ではない。平常ではない。まるで全力疾走をした後のように大きく、速い律動で心臓は拍動を刻んでいた。


 え、ちょっと待って。

 これって、あの、つまり……?


 私はとある可能性を頭に留めながら、驚きつつ幽冥様を見やった。

 羞恥や緊張の赤に染まった、彼の美しい顔を。


「最近、おかしいのだ」


 幽冥様は私の手を自分の胸に押し当てたまま、言った。


「其方を前にすると、平静でいられなくなる。鼓動が加速し、身体に力が入り、其方を直視することができなくなるのだ」

「……」

「だが……何故かな。苦しいはずなのに、全く辛いとは思わないのだ。寧ろ、其方の傍にいたいとすら思ってしまう。この症状を、状態を、俺は知らない。こんな経験は初めてだ」

「え、っと……」

「なあ、春風」


 私の名を呼んだ幽冥様は、空いていた右手で私の左頬に触れ──久方ぶりに、私の瞳を真っ直ぐに見つめて、問うた。


「教えてくれ。この気持ちは……一体、何なんだ?」


 羞恥、疑問、不安、高揚。

 あらゆる感情が混ざり合った、これまでに見たことのない幽冥様の表情。

 生まれて初めて感じる感情に翻弄される彼を至近距離から見た──その瞬間。


 ドクン


 私の胸から、恋が始まる音がした。

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