第三章

5 告白

 気づけば意識は戻っていた。

 玄関先、無様にも倒れ込んでいる僕。

 頭がガンガンと鳴り痛み、口の中に嫌な気持ち悪さを感じる。

「あ、そうか……」

 そこで初めて、僕は自分が気絶していたことを思い出す。

 廊下の先の窓からは、まだそこまで明るくもない光が差し込んでいる。

 それを見ていよいよ慌てて、ポケットからスマホを取り出し時刻を確認すると、まだ午前六時。

 今日は月曜日、朝から講義が入っている。

 だから、午前八時には大学のキャンパス内には入らなければならない。

 幸いにもこの時間であったため、今から準備をしていけば時間には全然余裕を持って間に合うことができる。僕は支度を始める。

 気絶していた時間は途中から睡眠にでも切り替わっていたのか、僕は不思議と眠気などはまったくなく、もはや頭は明晰で冴え渡っていた。

 顔を洗い、水とゼリーを飲み、軽く部屋の中を片付け、身支度をし、家を出る。

 いつもと全く変わらない、普段通りのルーティン。

 今日も昨日や一昨日と変わらずに、またいつもどおりの日常が始まろうとしている。

 消していく、ストーブ、暖房、照明、電気。

 そして鍵をかけ、家をでる。


 もうすっかり冷え込み、冬本番の寒さとなってきた。

 何枚も重ね着をし、厚いコートを羽織り、マフラー、手袋をつけたとしても、体の芯から凍え上がるような寒さ。

 やはり、できる限り早く、関東に帰りたかった。

 空を見れば、カラスや落ち葉たちがいずこへともなく飛んでいる。

 いつまでも変わらないものも、あった。


 札幌、北二条駅。イチョウ並木の中、歩みを止めない。

 大学のキャンパスへと向かいながら、今日の予定を諳んじる。

[午前九時 イギリス文学概論の研究発表]

(泣きながら話してくれた、自分の生い立ちや悩み)

[午前十一時 スティーヴン・キング論の最終講義]

(真面目で、どこか優しげな性格)

[午後二時 現代文学ゼミの謝恩会、出席の必要はなし]

(小樽の海で赤らむ、大人のような頬)

(いつも変わらず、その雰囲気を振り撒いていた。戯け顔なんて、見たことがなかった)

「ああ」

 今日の予定を確認していく中で、ふと昨日のことを思い出した。

 くいと二人、小樽へと行ったこと。

 楽しかった覚えがある。

 二人で海鮮を食べ、ウイングベイに行き、最後は海へ行ったこと。

「あれ?」

 僕は思わず呟く。

「海へ行った後、何をしたんだっけ?」

 まるでマーカーペンで見えないように塗りつぶしたように、そこの記憶だけすっぽりと抜けてしまっていた。

「まあ」

 別れ際の話しだ、そんな大したことでもないだろうと思い、僕は更に歩みを進めた。



 就職先も決まり、それぞれの進路が決まったこの時期。

 大学四年の中に漂う雰囲気は「平穏」の二文字で片付けられた。

 数か月前までは必死に喰らいついていたエントリーシート、企業説明会、面接。

 そんなのが嘘かのように、みんな笑って、友人との最後の時間を過ごしている。

 スマホを見れば、”12/9”。もう十二月も終わりだ。

 最前席でこうやって、窓の外を見つめるのも最後になるんだろう。

 やがて教授が入ってきて、今日最初の講義、いや、仲間内での発表が始まった。

 皆それぞれやってきたことを話していくうちに、時間は経過し、僕の発表は次の日となった。

 少し安堵し、次の講義を迎えた。

 そしてその次の講義も終わり、また次の講義とやっていくうちに、あっという間に昼になった。

 今日は午後の講義がなかったため、これで今日の大学は終わりだった。

 でも、帰る前に、いつもの、寄る場所がある。


 時計塔の針が零を指している。

 直にのぞみが来るだろう。

 昨日はありがとう、をまず伝えよう。

 それから、もうすぐで今年も終わり、について話そうか。

 いや、もうすぐでクリスマス、としようか。

 コーヒーのペットボトルを飲みながら、ベンチに座り考える。

 すると、理学部講堂の方に青いロングコートが見えた。

 もちろん、のぞみだった。

「おはよう、ってもう昼か」

 のぞみが僕に近づきそう言った。

「こんにちは」

 僕が言う。

「こんにちは」

 のぞみも言う。

 二人揃って、ベンチに座る。

「昨日はありがとう」

 座ってから、のぞみに言う。

「こちらこそ、いや、むしろ私がありがとうって言うべきだよ」

 のぞみはそうのぞみらしく遠慮がちに返した。

「楽しかったよ」

 僕が言う。

「私の方こそ楽しかったよ」

 のぞみが笑ってそう返す。

 頭上を鳩が飛んでいく。空の向こうに雨雲が見える。

「今日は俺もう講義終わりなんだけど、のぞみはどう?」

 僕が言った。考えていた話す内容など、もう頭の中にはない。

 それにのぞみはなぜか少し驚いたような顔をしながらも笑って返す。

「私も午前だけだったよ、良かった良かった」

 その返しに僕は少し違和感を覚える。

 でもそれはすぐに無くなった。些細なことだったんだろう、イントネーションとかその程度の。

 するとのぞみが頬を赤らめながら勢いよくすぐに言った。

「あの、さ。この後少し、一緒に歩かない?」

 歩く程度のことをなぜそんなにも勢いよく提案したのか、僕には分からなかったが、

「ああ、良いね!」

 と元気よく返すことにした。



 札幌駅、時計塔、すすきの、豊平川――。

 札幌市街を南北に、僕らは歩いた。

 ときどき立ち止まって、コーヒーを一口飲んで。

 僕より少し背の低いのぞみが、僕の左横を歩いていた。

「綺麗だね」

「見慣れた景色なのにな」

「普段の景色にも良いところはたくさんあるんだね」

「小川洋子みたい」

「何それ、ふふっ」

「あははっ」

 他愛もない雑談が、冷たい風に乗って飛んでゆく。

 僕には分からなかった。

 自分が何をしたいのか、自分が今どこに存在しているのか。

 そんなのは「英語」とか「札幌」であるのだろうけれど、それよりもなにか、不思議な、何か。

 ずっと、探している。多分、あの日から。

 くいの消えた日から。

 その、不思議なものを。

 ――そして、何か言葉にできることを。

 気づけば大通りを離れ、川の方まで来ていた。

 上流からは鮎などの川魚が、澄んだ水の中、侵食された小石たちとともに下流へと向かっている。

 いつか耳にした言葉。

「終曲をこんなにはっきり予想して川は大きくなる」

 終わりなき旅などない。物事には必ず始まりと終わりが伴う。

 そう、くいとの時間で学んだ。

 僕の終曲はどこなのか、その川を見て思う。

 そして、僕は大きくなっているのか。

 横を見る。のぞみがいる。僕より背の低い、のぞみがいる。

 出会った時も、のぞみより大きかっただろうか。

 のぞみと同じくらいだっただろうか。

 今となっては分からない、過去の話。

 もう過去に思いを馳せるのはやめよう。

 見るべきなのは、多分、未来だ。

 それに……そう、僕はのぞみの心を癒やすために、のぞみと一緒にいるのではないのか。

「――っ」

(のぞみの心を癒やすために)

 頭の中を巡ったその言葉に、僕は何らかの違和感を覚える。

 そして今は、その違和感がわかった。

 ……それはきっと、何か、大切な変化なんだろうと思う。

 僕はのぞみのことを、きっと――。

 川面を風が過ぎていく。

「あのさ」

 横を見れば、顔を赤らめているのぞみがいる。

 今日はのぞみらしくなく、落ち着きがない。

「どうしたの?」

 僕は少し不安気に、のぞみにそう尋ねる。

 するとのぞみが言う。

「少し、川辺に降りない?」

 僕は肯いた。



 豊平川の川べり。

 来たことはない。

 札幌にも、まだ僕の知らない土地はどこまでも続いている。

 上流を見る。すると、雨雲が見える。

 今日の天気予報は晴れ。また外れないと良いが。

 のぞみが口を開く。

「今日は、寒いね」

 僕は返す。

「これからもっと寒くなっていくのかな?」

 会話は進む。

「北海道にずっと住んでいるけど、いつかきっと私は東京に行きたいと思ってる」

 のぞみがそう決意を話す。

「そっか」

 僕はそう返す。

 周りにもそういう人は山のようにいる。でものぞみが自立しようとしていることに意味はあった。

 のぞみはさらに言う。

「――きみと」

「ん?」

 急なその三文字に、僕は思わず一文字で返す。

 そして、横を見る。

 するとそこには、涙を流すのぞみがいた――。


「どうしたの?」

 突然のことに、僕はそれしか訊くことができない。

 そして、

「ごめんなさい、私、今まで嘘――いや、隠し事をしていました」

 のぞみは急に謝ってきたのだった。

 目を赤く腫らし、拳を震えながらも握りしめながら。

 それに、口調も出会ったときの敬語へと変わっていた。

 あまりの突然のことに僕は驚きの中でのぞみに尋ねる。

「隠し事、って?」

 するとのぞみは、

「あまりにも大切な話です」

 と前置きをし、時々言葉をつまらせながらも話しだした。

 そして、それはのぞみによる衝撃的な――内省的には知りたくもなかった告白だった。

 僕はあまりの衝撃に、顔を硬め、そして多分完全に相槌も打たずに聞いていた。

「私には記憶がないんです」

 告白はその一文から始まった。



 いや、正確に言うと、今年の四月からその前の記憶のほどんどがないんです。ぼんやりと思い浮かべることはできますが、それは夢みたいですぐ消えてしまうし、そもそも断片的で時間の流れにはなってません。

 なんでそうなっているかっていうと、四月のことになります。

 今年の四月、思い出せる最古の時、私は病室にいました。


 目覚めると、そこは小さな病室だったのです。

 私には訳が判りませんでした。

 でも病室の中では、備え付けの小さな窓から微量の光が入ってきていて、周りにはアルコールの匂いが漂って、沢山の器具が置かれていて、完璧なまでの病室でした。

 私はそんな突然過ぎる状況に心底驚きました。

 なんで急に病室に? と。でもその理由、すなわち過去のことはどう頑張ろうと思い出せなかったのです。

 でもそんなこと驚いたり考えてる暇もありませんでした。

 目覚めてからほんの少しの時間が経った時、急に頭に激痛が走ったのです。

 感じたこともない痛みでした。

 ジリジリでも、ジンジンでもない。何かこう、ハンマーみたいなもので内側から殴られている感じで。うまく言葉にはできませんが。

 私は悶えました。そのベッドの上で、頭を抑えながら。そしたら触って分かったんですが、私の頭、多分包帯で何重にも巻かれていたんです。

 いよいよ状況が混沌となり、私は夢であることを祈りました。

 しかしそれは現実でした。病室の中に看護師らしき人が入ってくると、私を見るなり「起きたのね! 良かった……」と安堵し外の飛び出していったのです。

 頭の激痛に耐えながら、それから数分が経ちました。

 すると白衣を着た医者らしき人が今度は三人ほどの看護師を連れてやって来ました。

 医者は私を見るなり涙を流しながら言いました。

「くいさん、本当におめでとう、そして、お疲れ様」

 私は当然思いました。

(くい……? 私の名前はのぞみだけど)

 医者はさらに言います。

「腫瘍は、消えましたよ」

 私はもう意味が分かりませんでした。

(腫瘍、何それ?)と。

 私は痛みも相まって収拾がつかなくなり、思うままに叫んでしまいました。

「お医者さん、私はくいではありません、のぞみです!」と。

 すると医者は急に顔をこわばらせ、

「まさか……」と看護師の方を向きながら言いました。

 私には今目の前で何が起こっているのか理解できませんでした。

 すると看護師の方からこんな声が聞こえてきたのです。

「まさか、本当に『ショック』が起こってしまったなんて」

 私にはその“ショック” についても、よくわかりませんでした。

 そんな私を見てか、医者は言いました。

「君は、のぞみさんは、くいさんではないのですか?」

 私は自分の名前はのぞみだと思っていたので、当然、

「はい」と返答しました。

 その頃にはなぜかもう頭の痛みも引いていました。麻酔によるものなのか、あまりの混乱によるものなのかは分かりません。

 一方目の前には、頭を抱える医者の姿がありました。

 医者はそのまま数十秒頭を抱えていましたが、その後に私にゆっくりと言ってきました。

「もう頭は痛くありませんか?」

 私は「はい」と同じように返答しました。

 すると医者がさらに言いました。

「少し説明しないといけないことがあります。今、説明を聞くことはできますか?」

 私は同じように「はい」と返答しました。

 医者は五分間ほど、それから説明をしてきました。その声色は今にも消えてしまいそうなほど弱々しく、蚊の泣くようなものでした。そして、それは私には到底信じられないことでした。


 私は、あなたが愛していた恋人、くいさんだったようでした。


 医者から聞いた話です。

 どうやらくいさんは、私が目覚めたその日より約二年前から、脳に腫瘍が見つかっていたそうでした。

 その腫瘍は見つかったときにはまだ軽度なものだったようで、薬により消せる程度だったようでしたが、それは半年、一年と経つにつれて、なぜか薬が効かなくなり、少しずつ大きくなってしまったようでした。


 昨年の夏――おそらく丁度生田さんが渡米した頃の話です。くいさんは倒れてしまったそうでした。

 なんとかそこまで持ちこたえていたようでしたが、いよいよ入院となったそうです。

 でも腫瘍は入院し集中的に治療を施したとしても、どんどんと大きくなっていってしまいました。

 医者は考えたそうです。切除できたなら、きっと大丈夫だ。でも、それをしてしまうと、もしかしたら何か別のトラブルが起きてしまうかもしれない。

 そのときくいさん、まあ私の身体は二十歳。脳の腫瘍は大きいですが手術をすることはできます。


 どうやらくいさんは、そこで、三月に手術を受けたそうでした。

 手術はうまくいったように見えていました。

 しかし、手術後、麻酔が切れてもくいさんが起きることがなく、それからひと月が経過してしまっていたようでした。もう三月から四月になっていました。

 そして、その日――四月十日、私は目覚めました。

 しかし、目覚めたのはあくまで私。くいさんではありません。

 どうやら、その手術をするに当たってのリスクとして、いくつもありましたが、次のようなものがあったそうです。

「手術中、不吉にも脳が何らかの原因により強い衝撃を受けた場合、ショックにより人格が変わってしまう場合がある」

 その”不吉にも”が現実になってしまい、私「のぞみ」という人格が発生してしまったようでした。

 私は医者に聞きました。

「くいさんが元に戻る方法はないのですか?」

 非情にも医者は言いました。

「一度違う人格が出来上がってしまうと、もう元の人格は戻ってこない。残念だが」

 私は、どうすれば良いのか、分かりませんでした。

 現実は、どうしようもなく大きくそこに横たわっていました。

 そして、そこで医者の話は終わりでした。

 医者も看護師も私も、かなりの時間そこに留まっていました。



 しかし時間というのは流れるものでそれから数ヶ月が経ち、夏になりました。

 その間、姉――くいさんの脳の病気により精神をおかしくしてしまっていた、くいさん、今となっては私の弟がギャンブルにハマり、借金が発覚するなどのこともありました。前にも言ったと思いますが。

 両親も以前言った通り蒸発しました。それは、弟の借金だけでなく、多分、くいさんが消えてしまったことによるショックもあったのでしょう。

 そしてあの日。覚えていますか。生田さんが私に話しかけてきた日。

 私はあまりの孤独の中で、その時ベンチに座っていたのです。

 どうしよう、これからどうすればいいんだろうって。

 そんな時に生田さんが私に話しかけてきました。あまりにも勢いよく。驚きました。

 でもその時私は、恥ずかしさや動揺の中に、なんだか懐かしさを感じていたのです。

 あれ、どこかで? というような。

 でも、すぐには思い出せませんでした。何せ記憶は少ししか思い出せませんから。

 だから多分、私はあの時生田さんに対して赤の他人として、接してしまったのだと思います。

 ですけど、それから今日にかけ日を重ねていくうちに、生田さんのことが少しずつ思いだせてきたんです。

 思い出せないはずの、四月より前の記憶が。

 くいさんの思いが、それほど強かったのだと思います。

 私は生田さんのことを、今くんと呼んでいたこと。

 植物園や砂浜に行ったこと。

 色々と鮮明に、思い出してきました。

 昨日一緒に小樽に行った時、私はくいさんがどんな思いで生田さんと接していたのか、ずっと知りたかったのです。

 そして最後、列車に乗っている時に思いが分かりました。

 なぜくいさんが、生田さんのことを好きになったのか。

 生田さん、あなたは、とっても優しく、一生懸命な人なんですね。

 あなたは私が好きなコーヒーを、一緒に飲んでくれました。

 あなたは不安定な私を、献身的に寄り添ってくれました。

 何よりあなたは、私がくいさんと違うと分かったとしても、私に接してくれました。

 ……もうさすがに分かったかと思います。

 くいさんが生田さんを好きになった理由が、私になりに分かったということが示す結論。そして、私が今言ったすべてのことから。


 私は、あなたのことが好きなんだと思います。


 くいさんに別れを告げられないまま、今を迎えているあなたに、こんなことをいうのはお門違いだと分かっています。

 だめだっていうことも、許されないということも、この気持ちが芽生えてしまったときからずっと思っていました。

 私は、あなたを好きになってはいけない。

 私は、あなたと接してはいけない。

 だって私はくいさんの「変わってしまった」姿なのだから。

 私はくいさんの空白を埋めているだけなのだから。

 それでも、それでも駄目でした。私はやっぱり、いやもっともっと、あなたのことを好きになってしまいました。

 あなたが今どんなことを思っているのか、私には分かりません。

 あなたがこれからどう返すのか、私はそれに干渉することだってできません。

 それでも、私の思いはこれでいっぱいなんです。

 もしできるのなら、違う形であなたと出会いたかったです。

 くいさんより先に。

 ――あなたがくいさんに恋をしてしまわないように。

 でも目の前には、こんなにも不条理な現実しかありませんでした。

 ごめんなさい、あの時以来ですね。こんなにも長く話しをしてしまったのは。私はもう、これ以上話しません。

 最後に一つだけ、あなたが返す前に言わせてください。

 ありがとう。私は、どうなろうとあなたと過ごした日々のことを忘れたりはしません。そして、あなたを好きだと思う気持ちも。消えることはないんだと思っています。



 のぞみは、顔を涙でいっぱいにしながら、最後にそう締めくくった。

 僕は目の前に示された真実を見て、何を思えばよいのか、何一つとして分からなかった。

 衝撃的な事実と、あまりにも純粋な思い。

 くいのことも、のぞみのことも。

 何も知らなかった。何も言えなかった。

 川面を吹き抜けていく風は、ほの涼しく、ものうい空気を漂わせる。

 降り注ぐ日光。冷たい空気。凍てついた土の表面。

 僕の周りに広がる光景には、何のヒントも転がっていない。

 横には、泣きながらも晴れた表情を顔に張り付けているのぞみがいる。

 僕らは、なぜ、こんな思いでいるのだろう。

 その問いに答えられるものなど、無論何一つとしていない。

 この世界は、あまりにも不条理で、下劣だった。

 でも僕は、言わなければならない。決めなければならない。

 この残酷な選択を。僕の行く先を。

 意を決して、言う。

 もう、後戻りなんてできない。

「――のぞみ」

 名前を言う。

 のぞみが振り向く。顔は笑顔、でも泣いている。

 彼女の思いの深さ、決意の固さを思うと、僕も今、勇気を振り絞らなければならないんだ。

 目を見て、拳を堅く握って、言った。

「俺は――」

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