4 くい

 それから僕らは、バスに乗り、列車に乗り、札幌まで帰った。

 途中、僕らは会話を交わすことはあったが、多分、それほど中身の濃い会話はしていなかった。

 ふたりとも別の何かのことを考えていて、その空間に集中はしていなかったのだ。

 それでもやはり時間というのは着々と過ぎて、気づけばその日は終りを迎えていた。


 午後六時、札幌駅。

 もう辺りはすっかり暗くなっていた。

 本来なら僕らは一緒に帰れるところまで帰ろうとしていたのだが、その時、僕らはそこで分かれることにした。

「じゃあ、解散で」

「うん」

「今日はありがとう」

「こちらこそ、本当にありがとう」

「じゃあまた明日」

「また明日」

 そんな取り留めもない流動的で機械的な会話をして、僕らはそこで別れたのだった。

 別れたあとも、僕は去っていくのぞみのことをその場でいつまでも見つめていた。

 それ以外に何もできなかったのだ。

 その場から離れることも、言ってしまえば息をすることさえも。

 ただただ時間が経過していくのを待っていた。

 そして、それから時計の針がかなり進んだ。

 のぞみが目の前から完全にいなくなって、気づけば数時間が経過していた。

「ああ、まずい」なぜ自分がその場から動くことができないのか、その理由も分からずに、そんなことを思っている。

 けれども、列車の終電時刻がどんどんと近づいても、身体が動くことはなかった。

 ただ呆然とその場に立ちすくんでいた。

 目の前では沢山のお勤め人や学生たちが往来していた。

 きっと邪魔だったに違いない。

 それでも……それでも僕は動けなかった。

 いつになろうと、その身体がそこから動くことはなかった。

 しかし――驚くべきことに、零時を過ぎ日をまたぐと同時に、僕の身体は急に元通りになったのである。

 硬直していた手足は自由に動き、ずっと同じ場所を焦点も合わず見つめていた眼球も、その時には日頃の自由を取り戻していた。

 よくわからない現象だった。

 それが何によるものなのかは分からない。

 ひょっとしたら僕の意図的なものであったのかもしれない。

 けれども僕はそれについてはよく考えずに、急いで自宅へと向かった。


 終電は過ぎていたから(北海道の終電は早いのである)、僕は歩いて帰ることとなった。

 その頃にはもう人々は本当に数少なく、唯一飲み屋街の煌々とした電気の中に見えるくらいだった。

 満月が見える。

 夜空をいくつかのカラスが飛び回っている。

 そんな、いつもとほぼ変わらない風景。

 そんな情景に、僕は目や耳を澄ます。

 感じることはいつもと変わらない。

 吹く風の冷たさ、光る満月の無力さ――。嫌気が差していた、その要素たち。変わらないものも、目の前にはいくつも転がっている。

 僕は足を早めて、自宅へと向かう。

 長い夜道を一人、歩く。

 頬を何かが伝うのを感じる。

 でも、気にしない。

 拭いもしない。心地の良いような、悪いような、よくわからないそれにはもう、目もくれない。

 月光や、蛍光灯の明かりが揺らいで見える。

 遠く微弱な耳鳴りが聞こえる。

 コンクリートやトラックの排気ガス、アルコールの匂いが鼻をかすめる。

 少ししょっぱい味がする。

 足先が地面にぶつかる感じ。

 非日常な情景、意識が、それから一時間ほど続いた。

 ゆらゆらとした足取りでやっと自宅に着くと僕は、そのまま玄関に倒れ込んでしまった。

 あまりに自然で、分かりきっていたようなその倒れ込み。

 瞬間、意識がぷつんと途切れたのだった。



 気がつくと、そこは真っ暗闇だった。

 自分の体は見えない。

 ただ真っ黒が、本当に暗黒を煮詰めたような真っ黒が、その前に広がっているだけ。

 どこだろう、と思う間もなく、懐かしい声が聞こえてくる。

「雨だー!」

 そう、そしてその声とともに、雨の音も聞こえてきたのだ。

 かなり強い、本降りの雨である。

 するとやがて、目の前の景色が見え始める。

 一瞬で分かった。

 そこは、二年前の懐かしい「あの日」のキャンパスだった。

 そしてその中に、今までずっと探し続けていたシルエットが見える。

 ――くいだった。

「あぁ」僕は泣いてしまいそうだった。けれども泣くことはなかった。泣けなかったのである。その代わりに、ものすごく強い、ものすごく深い、懐かしさ、温かみ、切なさが湧き上がってきていた。



 ――その日は、ひどく強い雨が降っていた。

 真夏の八月。その中旬。

 北海道では中々見られないほどの、大雨が降っていた。

 天気予報によれば、例年よりかなり早いこの時期に、南海で大型台風が発生したそうで、その威力は凄まじく、普通ならありえない、北海道までもその威力を落とすこと無く来たそうだった。

 見たことがないほどの強い雨。感じたことがないほどの強い風。

 そして、それらが始まった時、僕は丁度大学の図書館にいた。


 丁度その時期は夏休みで、僕の他には数名しか、その場所にはいなかった。

 図書館の中にいても、その暴風雨の強さは明らかに感じ取れた。

 図書館の屋根が、ものすごい音を立てて振動していたのである。

 トーマス・マンの「魔の山」をその時僕は読んでいたのであるが、一ページめくるごとに思わず上を見上げてしまうほどであった。

 ページを繰る、ザーッ、ページを繰る、ザーッ……。

 やがて僕は気が散り始めてしまった。

 本を元に戻すとともに、不可思議にも僕は外に様子を見に行った。


 図書館を抜け廊下に出ると、そこはところどころ浸水していて、注意していないと靴が水没してしまいそうだった。

 窓が中途半端に閉まっていたところが風により開いてしまい、そこから雨が大量に入り込んできてしまっていたのである。

 ぴしゃんと雨漏りしている音が廊下中に響き渡っている。

 僕はそこで引き返しても良かったのであるが、そのまま棟の外口まで行った。怖いもの見たさというか、なぜか気が完全にそう向いていたのだ。


 案の定、棟の外に出ると僕は案の定びしょ濡れとなった。

 横殴りの雨は、外に出て存分に露呈された僕のTシャツとジーパンを一瞬にして濡れ切らせた。

 でもそんなことは気にならないくらいに風が強く、今に吹き飛ばされないか不安になるほどであった。

 一枚の屋根の下、僕は暴風雨を全身に受けている。

 端から見れば完全に頭のおかしいやつであるのだが、人がいなかったため気付かれる心配はなかった。

 ――しかし人はそこに一人いたのである。でもそれは完全に僕と同じ頭のおかしいやつであった。

「雨だー!」

 そいつはそう大きく叫びながら、傘もささずに(僕が言えることでもないが)上を見上げていた。

 さらにそいつは女子であり、びしょ濡れの白衣を着ていた。

 僕はそれを見るなり何をしているんだと疑問に思った(勿論、僕が言えることではないのだけれど)が、気味悪く感じその場を離れようとしした。そしてその瞬間僕は自分がやっていること――暴風雨なのにもかかわらず傘もささずレインコートも着ずに外で佇んでいる――の意味不明さに気付いたのであった。

 しかし、急いで戻ろうと踵を感じたところでだった。

「ねえ」

 彼女(「そいつ」と呼びたいくらい異常性を感じた人間であったが、一応僕もイギリス国民のような紳士でありたいと思っているため、そう呼ぶことにする)が声をかけてきたのである。

 完全に何らかの異常を抱えている人間だと思っていたため、声をかけられてしまったときには背骨を抜かれたような感覚になってしまった。

 しかしそこには僕しか他に人がいなかったため、逃げることもできずに、僕は恐怖心に震えながら後ろを振り向いたのだった。

「何ですか?」

 返した声は震えに震え、僕の表情は完全に歪んでいたと思う。

 すると彼女は、僕のそれを顔は前に向けたまま片目で見るなり、大笑いながらこう言ってきたのだ。

「何やってるの? この雨の中で」

 僕は思わず「それを言うならお前だろ!」と突っ込みたくなってしまったが、変に刺激するとまずいのではないかと危惧し、

「いや、ちょっと外の様子を見に」

 と平静を装い返事した。

「雨、すごいよねー」

 そう言うと彼女は完全にこちらを向いた。

 そしてそこで、僕は彼女の全体像を見ることとなった。

 一つ言うと、僕はここで彼女――外面的な部分のことを差す「彼女」である、決して内面的なものではない、注意してほしい――に惚れてしまうのである。

 彼女は白いスニーカーに青のデニム、オレンジのパーカー、そしてその上に白衣を着ていて、こちらを見た彼女の顔は、まるで少女のように見え、ただ可愛くもあったのだ。

 二重の、大きくくりっとしている目。栗色の柔らかくも長めの髪。すうっと高く整った鼻筋。

 すべてのバランスが取れていて、思わず「きれい」とこぼしてしまいうほどであった。

 ただしかしここでの失態は、僕のその一言である。

 その一言を彼女に聞かれてしまっていたのだ。

「え?」

 見惚れている僕に彼女のその甲高い声が聞こえた時、僕はいよいよ絶望感を抱くのであった。

 あ、ここで僕の大学生生活はおしまいだろう、彼女はこれから暴走でもするんじゃないか、と。

 それに、それと同時に僕は恥ずかしさをも抱いた。

 通常「可愛い」などといったことがその相手に聞かれて、恥ずかしがらない人間なんていないんじゃないだろうか。よっぽどの変人でなければの話ではあるが。

 兎にも角にもその時点で僕の感情はかなりの複雑性を帯び、いよいよカオスへと変貌していったのだった。

 目の前の情景が夢か何かではないかと思った時、彼女が言った。

「ふふっ、ありがとう」

 頬を赤らめながら、目線を僕に向けて、素直にそう言ったのだ。

 その言葉に、僕の中でとてつもない恥ずかしさが込み上げてきたが、でも僕はそれ以上に安心感と納得を感じていた。

 目の前にいる女性は、きっと純粋な性格をしているんだろうな、と。

 そこに見事に着地したのだった。そしてそれと同時に、僕の彼女に対する警戒心は和らいでいった。

「私はくいって言うよ」

 彼女がそれから気恥ずかしそうに言った。しかし雨音がその時丁度強くなってしまったため、僕はうまく聞き取れず「ういさん、か」と言ってしまった。

 すると彼女が、

「ういじゃない、くい! 全く、失礼な奴だね」

 と返した。

「ごめん、雨音が強くてね」 

 僕はそれにそう返した。そして、僕は自分が言ったことを反芻するなかで、あることに気づいたのだった。それは、僕が初対面である彼女に敬語を使っていなかったということだった。通常、僕は初対面の人に敬語を使わないような人間ではないのだが、このときは、なぜか敬語を使っていなかったのだ。

 でもそれは、あまり重要なことではなかったんだと思う。彼女は周りにそういった影響を与えるような力を持ち合わせていたんだろう。

「僕は生田今人、よろしく」

 なぜだかわからないが僕も流れに乗り自己紹介をした。

 すると彼女が言った。

「いくた・いまと、ね」

 彼女は人のことを言えない。

「いまとじゃない、いまひと。全く、失礼なやつだな」

 僕は意地悪くそう言った。すると彼女は、

「うわー、やられた。揚げ足取られたー」

 と悔しがった。

 その純粋さに、僕はさらに彼女のことが、多分、好きになってしまったのだ。これを一目惚れというのか、などと冷静なことは考えていなかった。考えられなかった。

「よろしく」

 僕は思わずそう手を差し出していた。

「うん」

 彼女も同じく手を差し出した。

 そうして、お互い手を握りあった。

 暴風雨の中、お互い濡れているというのに、お互い初対面だと言うのに、これといった機会によるめぐり合わせでもないのに、それなのにもかかわらず、僕らは自己紹介をし「よろしく」などと言ったのだった。

 客観的に見ればあまりにおかしく、意味のわからないものだったのかもしれない。

 けれどもこれは、紛れもなく僕らの馴れ初めであり、僕の初恋であったのだ。



 そしてその日、僕らは大学に泊まった。

 あまりの暴風雨で、さらにその後風雨が強まってしまったため、家に帰れそうになかったのだ。

 しかしお互い濡れに濡れてしまい、着替えも持ち合わせていなかったから、すぐに体が冷え始めてしまった。

「寒いね」

 と彼女がそれからすぐに震え声で言った。

「仕方ない、どうしたものか」

 僕も多分震え声でそれに対しそう返していた。

 その日は丁度夏休み真っ只中の八月であり、文学部にも彼女のいる理学部にも奇跡とも言えるほどに人がいなく、図書館にまばらに数名散らばっている程度しか大学内に人はいなかった。

 しかし、こんな醜態を全く関わりがなくともその数名には見られたくはなかったため、僕らは自力でその寒さを乗り越えなければならなかった。

 雨が強まり、ますます施設内に響く音の大きさが増していく。

 ところどころ浸水もしていたから、それは軽くホラー映画の一場面をも超える怖さだった。

 僕らは何とかこの寒さを乗り越えられないかと、必死に寒さを和らげてくれそうなものを大学内の様々な箇所へ行き探した。

 しかし見つかるのはいつも書類、プリント、筆記用具、パソコン……などとあまりに不必要なものばかり。

 そしてそれを目の当たりにする度に

「もうさいあくー」

 と彼女はだらしなく語尾を伸ばしそう言うのだった。

 それから数時間が経った頃だろうか。

 僕らはようやく「ライフライン」を見つけることに成功したのだ。

 それは理学部生物学科の研究室でのことだった。

「さすが文系、って感じで文学部の施設には何も無いから私の棟にでも行ってみる?」

 文系施設をあらかた見終わった後、彼女がそう言ったのだ。

「こら、文系に失礼」

 僕がそう言うと彼女は

「ふん、実際にそう思って言ってるからねえ」

 いじらしくそう言うのだった。

 僕は少し不満に思いながらも、実際そうであったから仕方ないと思った。ぐうの音も出なかった。

 そうして僕らは、理学部の棟へ行った。

 しかし文学部と理学部は離れていて地下通路などがないため、一度外に出て行かなければならなかった。

 文学部の正面玄関まで来たとき、彼女が

「よし、じゃあ行こう!」

 とあまりに元気よく思い切って言うものだから、僕は思わず行くことを躊躇してしまい、

「傘とかないかな?」

 などとこの暴風雨で意味もないはずなのにそんなことを言ってしまった。

 もちろん、

「この暴風雨で傘なんてあってもなくてもないようなもんだよ」

 と彼女にその返答は一蹴されてしまい、僕は彼女とともにその暴風雨の中に飛び出すこととなってしまったわけだが。



 ――雨の中、暗闇に包まれるキャンパス。

 それとは対照的に僕の横には常に明るい、のかわからないがただただ脳天気な彼女がいた。

「すごい雨だねー!」

 彼女に半ば引っ張られる形でどんどんと前に進んでいく中で、そんな陽気な言葉が聞こえた瞬間僕はもはやため息を付いてしまった。

 彼女はただ純粋な人間なんだと思っていたのが、ちょっと頭のおかしなところもやはりあるという所に変わったのだった。

 夏だからか、雨を浴びている間だけはそこまで寒さは感じなかった。

 小学校のプール。それに思い出される「地獄のシャワー」をその雨からは想起した。

 彼女の白く細い腕に引っ張られて、理学部の講堂を目指す。

 彼女のその思い切りの良さといい、能天気さといい、でもそれは彼女の魅力であり、武器なんだとその中で感じてもいた。



 やがて理学部棟が見え始め、僕らはやっと雨に濡れなくなった。

 でも本当に身体は濡れに濡れてしまっていて、その不快感は夏の暑さとも相まり耐え難い強烈なものとなっていた。

 彼女が「行こう」と言って、どんどんと先を進んでいく。

 僕はそれを追いかける。

 理学部の講堂の中は、僕にとっては初めての場所だった。

 だから、少し緊張しながら中に入った。

 すると中には様々な研究室と様々な見慣れぬ器具が沢山あった。

 学生時代、理系科目が本当に大嫌いだった僕は、そういった器具などを見るだけで嫌悪感を感じた。

 しかしこの場所で学業に励んでいる彼女含め学生諸君は本当に凄いなという畏敬の念をも同時に抱いた。

「ちょっと来て!」

 彼女の唐突な掛け声に呼ばれ、僕は向かう。

 理学部講堂の廊下は浸水していなかったから普通に歩くことができた。

 そして僕が彼女のところまで行くとそこには大きな研究室があった。

「これ、何かわかる?」

 彼女が訊いた。

「うーん、そもそも僕はこの建物を知らないからな」

 僕がそう返すと彼女はいじらしくさらに訊いてくる。

「じゃあ、この部屋についてはどう思う?」

「あー、大きくてなかなかに凄いね」

 僕が素直に答えると彼女は満面の笑みを呈しながら言った。

「そうだよねー、実はこれ私が行ってる研究室なんだ!」

 彼女は満更でもなくどう凄いでしょ? と言わんばかりに僕にそう言った。

「あーすごいすごい」

 僕はなんだかそれが鼻につき、大根役者になってそう言う。

「絶対思ってないでしょ!」

 彼女は顔を膨らませそれから僕にそう言った。

「ごめんごめん」

 僕がそう返す。

 彼女がそれで良し、と言いながら笑う。

 僕も笑う。彼女と話している時間は、本当に楽しかったのだ。


 それから僕らはその研究室の中に入った。

 すると、中にはタオルやジャージなど数多の欲しかったものが揃っていた。

 何なら寝袋などもあり、完全に一泊できるようにもなっていた。

 僕の喜ぶ様子を見て彼女が言う。

「私が生物学科であったことを感謝するんだね!」

「ああ、ありがとう」

 僕は肯きながら言った。


 その後僕らはカーテンを隔ててジャージに着替えをし、タオルで身体に張り付いている水分を拭き取った。

 窓の外は依然として変わらず、暴風雨が何なら先程より強く吹き降り荒れている。

 研究室の中にもザーッ、という不安を煽り立てるような音が響き渡る。

 そんな中やはり彼女だけは通常運転、とでも言えば良いのだろうか、明るいままだった。

「君はさ、好きなことは何なの?」

 カーテン越しに彼女が訊いた。

「好きなことかー、うーん」

 好きなことと聞かれて、僕はこれといってはっきりと言うことが昔からできなかった。

 これまでの人生において、何かに全力で熱中したり、何かをこよなく愛したりなど、そんな経験は全く無かったのだ。

 ただ英語に対してだけは、ほんの少し、熱を持てた気がしていた。

「じゃあ趣味みたいなものはないの?」

 彼女が更に訊く。

「そうだね、あまり……というかないね」

 英語のことは言わない。英語が趣味だなんて言ったら、何か格好つけているとでも思われてしまいそうだから。しかし、そう返事はしたけれど、ここで会話を断ち切りたくないと思い、彼女のことを訊いてみることにした。

「そういう君こそ、趣味はないの?」

 すると彼女は、すぐに答えた。

「植物だね」

 ”?”と頭の中にハテナマークが浮かぶ。今までかつて僕は「植物」が趣味である人のことを見たことがなかったからだ。

「植物?」

 僕がそう訊き返す。

 すると彼女は、

「そう、植物」

 と、なんでもないように答えた。

 そもそも、植物が趣味の場合、どんなことをするのだろう。

 そう思って、そこから彼女に訊いてみることにする。

「具体的にどんなことをするの? 植物が趣味っていうのは」

 僕がそう訊くと、彼女は神妙な声色で答えた。

「具体的に……って、例えばその植物について調べたりとか、植物を採集したりとか、色々だよ。そんな変わった話でもないよ。鉄道が趣味の人だって、同じようなことをするでしょう?」

 彼女があまりに普通のように言うから、僕は「植物」という趣味はかなりメジャーなものなんだと錯覚してしまった。しかし、それから僕は彼女以外で、趣味が「植物」の人間を未だに見たことはない。

「なるほど、良い趣味だね。僕も熱中できるものが欲しいよ」

 彼女の発言を聞いて、僕はそれからそう言った。

 すると彼女は、

「英語は違うの? 英文科専攻なんでしょ?」

 と僕に訊いてきた。

「そうだね、確かに英語は好きだけど、でも趣味ってほどではないと思う」

 僕はぼそりと言った。

「でも好きなんでしょう?」

 僕の返答に対して、その後彼女は少し間をおいて言った。

 その質問に対して僕は、

「嫌いじゃない。だから多分好きではあるんだと思う」

 と、少し考えてから言った。

「じゃあそれは趣味だよ」

 彼女は僕の返答が終わると、そう言った。

 あまりに自然に言われたその言葉は、僕の心に多分染み込んでいた。

「じゃあ僕の趣味は英語だ」

 着替え終わると同時に、僕は言った。


 時刻は夜八時頃だった。

 僕らはその研究室の中で、談笑しながら備蓄されていたカップラーメンを食べていた。

 食べながら僕は言う。

「これ、勝手に食べちゃって良いのかな?」

 その場の流れで食べていたけど、備蓄用の食品であるため、落ち着いて考えたらそう思ったのだ。

 すると彼女は、

「逆に備蓄用の食品ってどんな時に食べるだっけ?」

 と逆に僕に訊いて来た。

 僕は知っている通り、

「そりゃ、非常時とかそういうときでしょ」と言った。

 すると彼女はにやついて、

「今は非常時だから食べて良いんだよ」

 と言った。

 それもそうかと思い、僕は麺をすすった。

 彼女もすすった。

 そして、

「その代わり。あとでちゃんと買って補充すること。私の分もよろしくね」

 と彼女はあとづけした。

 外の暴風雨はいまだ止まない。研究室の蛍光灯はチカチカと点滅しながら光っている。

「やれやれ」

 僕は言った。

 彼女はにっこりと笑った。


 その後、食べ終えたカップラーメンや蒸し暑い暴風雨の中で、僕は彼女と寝た。

 必然的な流れで、言葉では説明することのできない空気感の中だった。

 気づけばそうなっていた。

 お互いがお互いを求め合っていた。

 しっとりと温かく汗で濡れた肌を、静かに伝う空気、音、そして君。

 穏やかで、ゆっくりと時間が流れていた。

 雨音が激しく窓をたたき、屋根を叩いていた。研究室の蛍光灯がチカチカと弱々しく光った。

 でも、この時間がずっと続いてしまえば良いと、僕は心から強く願っていた。

 あまりに美しく、強く心が揺さぶられた。君のことをずっと見ていた。

 泣いてしまいそうだった。


 これが、僕がくいと出会った日のことだった。



 それからの一年間、僕はくいと密接に過ごした。

 出会ったのが僕が大学二年、くいが大学一年の夏の時だったため、お互いがそれぞれ進級して迎える夏くらいまでの期間だった。

 しかし正確に言えば、その夏から更に半年間、僕はくいと関わりを持っていたとも言える。

 実をいうとその夏、僕はアメリカに留学したのだ。

 くいと出会った初日に言われた「じゃあそれは趣味だよ」という言葉で、僕は自分の趣味を深めるため――英語の力を伸ばすために、留学を決めたのだった。

 だから、アメリカにいる期間はくいと会えていなかったわけだが、文通をしていたということもあるため、一応関わっていたというのであれば、僕とくいは一年半関わっていたということになるのである。

 そして、その一年半は僕にとって素晴らしく最高の時間であったと言える。

 更に、正直言ってその時間は、僕の人生においてもっとも輝き美しかった時間とも言えるだろう。

 何も熱中できなかった僕が初めて熱中できたのがくいとの時間であったし、人は何かに熱中している時間が一番充足感を覚えるということを学べたのがくいと過ごした時間でもあった。

 だからくいとの時間はそのようにあまりに大きすぎる価値を持ち、僕の人生において幅広いウェイトを占めているのだ。

 くいはよく笑い、マイペースで少し幼い性格な女の子で、でもそれでいてなお植物のこととなると物凄く真剣になれる素晴らしい人間だった。

 確かにあの初めの日のように、少し人と違う所はあるが、それも含めてくいの良いところで、僕が愛したところだった。


 植物園に行けば、

「これはドラクラ・シミア、そしてあれはサギソウ。どれも珍しい植物なんだ」

 と、熱意を持ってくいは僕に話した。

 そこで例えば僕が、

「珍しいって言うけど、観葉植物とかで売ってたりしてないの?」

 と訊いたりすると

「いい質問だね。数が少ないから、観葉植物とかでもあまり売ってないんだよ。本当に珍しい」

 と、くいは親切に答えてくれた。植物のこととなると、くいは非常に含蓄のあるその造詣をふんだんに放っていた。そしてあまりに熱を持ち話していた。


 こうやって過去を思い出すと、どんどんと思い出として僕の中に溢れてきてしまう。



 僕らが出会った年の冬、丁度クリスマスの日。

 パラパラと粉雪が降り、街が一面銀世界に覆われた日のこと。

 僕らは丁度札幌時計塔の前にいた。

 僕ら、といっても、僕がその場所に誘導したのだけれど。

 その時僕は、寒さにかじかむ手を何とかコントロールしながら、カバンの中からマフラーを取り出した。

 そして、それを僕より少し身長の低いくいの首にかけた。

 突然のことにくいは、

「ちょっと」

 と頬を赤らめて言った。

 その顔を見て僕は、

「やっぱり」

 と言う。

「何?」

 とくいが本気で困惑してその後に僕にそう言うと、

 僕は、

「やっぱり、僕は君が好きだ」

 と言った。

 そう、その日は、僕がくいにプロポーズをした日だった。

 僕のプロポーズを受けるとくいは、ためらうように、

「本当に、良いの?」

 と、いつもに似合わずにそう少し深刻に言った。

 そしてくいは続けた。

「君が思っているような人じゃないかもしれないよ?」

 僕はその真意がわからず、冗談交じりに、

「それは、雨の中で急に叫んだりする、とか?」

 と言った。しかしすぐくいに、

「冗談はなし」

 と制されたけど。

 でも僕は、どんなくいであれずっと好きである自信があったから、

「くいが言っていることの意味は僕には未だ分からないけど、多分僕は、くいのことがどんなことがあったとしてもずっと好きなんだと思うよ」

 と言った。

 そしたらくいは、

「今、言ったからね」

 と言って、

「お願いします」

 と言うのだった。

 そして――僕はくいを抱きしめた。

 くいも僕を抱きしめた。

 強く、離さないようにお互いに抱きしめあった。

「大好きだ」

 僕はその中で言った。

 くいに聞こえたかどうか分からない。

 くいは僕の厚いコートの中に顔を埋めていたから。

 僕の視界の中に、僕より少し背の低いくいの姿がくっきりと見える。

 でもその姿はたちまちゆがんだ。

 僕はやっぱり、この時間がいつまでも続けばいいと思っていた。

 それでも時間は流れて、時計塔の針が九の字を指した。



 それから僕らは交際関係となり、揺蕩う時間の中を二人で過ごしていった。

 もうすぐ春になろうと言う頃にくいが

「海に行きたい」

 などと言い出し、そのマイペースに振り回されることもあったが、それでも僕は楽しかった。

 四月の海はまだ全然冷たく、何せ北海道であるから、海に行くなんてもっての外だった。

 それでも砂浜で、

「海だー!」

 と叫びながら燥ぐくいの姿は、僕の目にはっきりと焼付き、僕の心を強く温めた。

 くいに押されて飛び込んでしまった海の冷たい海水が全身に張り付こうと、その感情が消えたり冷めることはなかった。

「あははっ」

 とくいが笑う声や顔が聞こえただけで、僕は嬉しかった。

 それはひと春の思い出であり、一生の思い出となった。


 

 そうして夏になると、僕は一大決心をするようになった。

 それは、先にも述べたがアメリカへの留学だった。

 未だ蒸し暑い七月上旬のキャンパスで、二人でアイスを頬張っていたある日、僕はくいに言ったのだ。

「あのさ、アメリカに行こうと思うんだよね」

 するとくいは心底驚いたような顔をして、

「本当に?」

 と勢いよく聞き返した。

 僕は「うん」と言う。

 するとくいは、

「なんで?」

 と理由を訊いた。

 僕は真剣に、自分の趣味である英語をもっと深めようと思ったこと、くいとしばし別れるのは寂しいけどそれでも行ってみたいと思ったこと、アメリカに行っても連絡は取り合えるから大丈夫だ、などを少しずつ刻んで話した。

 くいはそれを聞いたあと、少し寂しいような、逆に嬉しいような、そんなよくわからない表情をしたあとに、

「今くんがそれでいいなら、それでいいんじゃない? まあ、私と少し別れるのをかなり後悔すると思うけどね!」

 といつもどおりのまま、いじらしく言った。

「ありがとう」

 と僕は少し微笑んでその後に言った。

「別に感謝される筋合いはないよ!」

 僕のそれを聞いてくいはその後に笑いながら言った。

 僕も笑った。

 最後まで僕らのままだった。夏の日差しがまぶしかった。



 僕が日本を飛び立つ日――くいと過ごした最後の日、くいは、空港まで来てくれた。

 その時のくいは、たしか、こう言っていた。

「元気で。頑張ってね!」

 空港内を歩き回る群衆の声に紛れて聞きそびれてしまいそうだったけれど、くいの声ははっきりと僕の耳に聞こえた。

「ありがとう、じゃあまた来年!」

 その時の僕には、くいと過ごす来年がもう来ることがないことは分かり得なかった。

 くいは笑っていたし、僕も笑っていた。

 最後まで僕らのままだったから、そこに何らかの変化が生じるなんて考えもつかなかった。

 けれども、紛れもなく変化というのは起こってしまった。

 次僕がそこを訪れた時、そこにもうくいの姿はなかったのだった。

 目の前に広がるのはただ往来する知りもしない人々の流れだけだった。

 絶望感も、焦燥感も、何も感じなかった。

 ただ空虚でぽっかりと穴が空いてしまった気持ちが、いつまでも続いていた。


 だからこそ僕は後悔してしまったのだ。

 あの日の最後の電話を、噛み締めなかったことを。

 そしてその電話に、いつもどおりの対応をしなかったことを。


 何より、くいのことをちゃんと考えてあげられなかったことを。

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