第二章
3 のぞみ
次の日、僕はまた昨日と同じ時間に、あのベンチにいた。
涼しい風が吹き抜け、澄み渡る空にひつじ雲が点々と散っている。
僕は、また同じコーヒーを持って、昨日と同じような服を着て、のぞみを待つ。
すると、丁度十二時過ぎくらいだろうか。
彼女が来た。
同じ青のカーディガン。その上に、ほの白い上着を羽織っている。
その姿は素直に可愛いと思った。
僕は軽く手を挙げ、彼女を手招く。
彼女はすたすたと歩き、こちらに迫る。
二人揃って、ベンチに座る。
彼女も、同じコーヒーを持っていた。
「こんにちは」
彼女が言う。
「こんにちは」
僕も返す。
「……」
声色は明るかった。でも今日の彼女は、どこか淋しそうな顔をしていた。
まだ出会って少ししか経っていないけれど、その変わりばえは簡単に分かってしまうほどだ。
何か嫌なことでもあったのだろうか。
「大丈夫?」
そう思って、僕が聞く。
「あっ、はい……」
反応で分かるくらいだ。彼女は間違いなく何か嫌なことがあったんだろう。
嫌な気持ちは、誰かと分け合ったほうが楽になれる。
人の事情に踏み込むのは失礼なことかもしれないが、僕は聞いてみることにした。
「本当に大丈夫?」
彼女がちゃんと言うために、僕は少し強く言う。すると彼女は、
「――いえ」
と沈黙の間の後に答えた。
「何があったの?」
とそれから僕は訊く。
すると彼女は、
「あまり打ち明けることはしないのですが……少し長くなります」
と、前置きして話し出した。
「私の家は三人兄弟で、私は長女に当たります。上に長男が一人、下に次男が一人、といった感じです」
「そうなんだ」
くいはあまり、自分の家のことを話したりはしなかった。
僕が聞かなかったと言うのもあるが、それでも、彼女の言わなさというのは異常なまでであった。
明らかに家族についての話題を避けている、そんな空気感があったのだ。
「しかし、私が生まれてすぐに、長男が事故で他界してしまいました。町中を友人達と歩いている最中、車にはねられてしまい、即死だったそうです。当然、それからしばらくの間は、親族の中に悲しみの空気が流れ、両親に関しては立ち直るのにかなりの時間を要したそうでした。ですが私は、長男と関わる時間がなかったに等しかったし、まだ赤ん坊でしたから、そんなに大きな事件ではありませんでしたが」
「そっか……それもまた気の毒な話だね」
のぞみはコーヒーをすすりながら、さらに話す。
「長男の死は、皮肉ですが家庭の経済状況的には寧ろ嬉しいことだったようでした。何せ長男もいたら五人家族ということとなってしまい、大して高い給料も出ない中小企業に務める会社員の父とパートタイムの母の収入とでは、生活していくのもギリギリだったようでしたから。
ですから長男の死によって家計には余裕が生まれ、私と次男――弟と呼びましょう、弟は何一つ不自由なく、大きくなったそうでした。
そうして、順風満帆……に生きていたある日のことでした。
つい最近、今年の五月のことです。事件が起こりました。
弟の借金が分かったのです。ざっと五百万円です。
どうやら弟はその前、一年前くらいから様々な心理的な要因が積み重なり、スロットや競馬など、ギャンブルにのめり込んでしまっていたようでした。
しかし弟はギャンブルのこと、いわゆる期待値とかに関して何も知らなかったので、負け続けてはまたやっての日々を繰り返し、どんどんとお金を失くしていったようでした。
そしていよいよ、今年に入ると同時に、弟はお金を他からもらっていくようになってしまいました。まずは消費者金融に行き、その次は親の口座。隠していた通帳を見つけ出してしまったようでした。そして最終的には、闇金融にまで手を出していきました。
消費者金融から借りた金額が三百万、闇金融から借りた金額が二百万円です。両親はいつの間にかに離婚をし、どこかへと行ってしまいました。いわゆる「蒸発」というやつです。連絡先も捨てたのか、電話は一向に繋がらず、もう関わりたくないというような雰囲気が感じられました。それに今思えば、多分両親は長男が死んだ時点で、私達に愛情を注ぐ力などはもう残っていなかったんだと思います。中身は空っぽだったのでしょう。
そして、当事者である弟なんですが、借金を返済しようとは思わず、気づけば音信不通になってしまっていて。今どこにいるのかも分からず、始めからいなかったかのように、弟に関係する連絡先とかは全然繋がらなくて……。
そうして、私が返済するしかなくなってしまったんです。
初めてその関係の人が来たときは驚きました。あ、こんなことって実際にあるんだと思って。それにそもそも、なんで私が払わないといけないんだろうと思って。私は訪ねました。そしたら、こういう答えが返ってきたんです。
どうやら弟は連帯保証人の欄に私達家族全員の名前を順繰りに書いていたようで、残っていた最後の名前が私だったため、そういう風になってしまったそうでした。つくづく運の悪い話です。
合計五百万円のその借金を、私はバイトをしながらこの半年間返してきたのですが、両親の失踪により私は大学の学費も払わなければならなくなってしまったので……国公立とは言えど、大変なものがあります。
私はバイトの給料で、生活、返済、学費の全てを賄わなければならないのです。
これがかなり、大変なことで……
って、すみません。随分長く話してしまいました」
「いや、いいよ。もっと話して」
僕は促した。人に話したほうが楽になれる時があると思うから。
「ありがとうございます……
それで今日の朝、闇金融に――少しですが借金の返済に行ったら、いわゆる反社会的な人にかなり怒鳴られてしまい、
『もっと払えねえのかよ』
『早くしろ』
と。
辛くなってしまって。で多分、それを生田さんに気づかれてしまったと言った感じでした。ごめんなさい、こんな話を長々としてしまって」
「いや、本当に良いんだ。それにしても、そっか……」
気丈に振る舞っている彼女が、そんな過去を秘めていることが、何だか悲しくて、早く救われてほしいと思った。
華奢な彼女が、こんなにも重い荷物を背負う必要はないんだと伝えたかった。
今日の空も明るい。風はキャンパスの中を吹き抜けていく。
でもその時、僕は話してくれてありがとうとも思った。
「あのさ、話してくれてありがとう」
「え?」
彼女が驚き、僕の目をまじまじと見つめる。
それと同時に、彼女の目を僕は見つめる。
そして気づく。
今、彼女があまりに目を潤わせているということに。
僕は言う。
「人の話を聞くのってさ、その人の人生の一部になれたみたいで。だから、話してくれるっていうのは凄く嬉しいことなんだよ」
彼女を少しでも労うために。
「だから、何かあったら話してほしい。辛いことも、嬉しかったことも。その方が、絶対に良いことが起こると思う。君にとっても、僕にとっても」
「……」
彼女はそれを聞くと、沈黙した。
随分と長い沈黙だった。何かを考え込んでいるみたいだった。でもその沈黙はあまりに重要な意味を持つものだった。
そして、その沈黙のあと。何も前触れもない静けさの中、彼女は泣いた。
溜まっていた涙が、彼女の柔らかな頬の上をすっと伝った。
(僕がなんとかするから大丈夫、もう泣かなくて良いんだ)と思って、
「大丈夫」
彼女との距離、15cmすら乗り越えて。
どうか救われてほしいと思って。
その茶色の髪を、撫でた。
「さっきも言ったけど、何かあったら、僕に言って。できることは少ないと思うけど、荷物は一人で抱えるより、分担したほうがよっぽど良い」
そう言って、僕は笑った。
「……、ありがとう」
彼女は、そう言って微笑んだ。泣いて、涙で顔をいっぱいにして、目を赤くしながら。
丁度、キャンパスの時計塔が一の文字を指した。
彼女の講義の時間が迫っていたから、それから僕は彼女を送り出した。まだ飲んでいないコーヒーを、一本渡して。
そして、別れ際に一言。
「一人で溜め込まないで」
彼女の背中を見る目が、少し変わった。
僕も、自分の通う文学部の講堂に戻る。
アメフト部も、昼休憩のために練習を一度ストップしている。
辺りはいつもどおりの賑いと、いつもどおりの自然で満たされていた。
その中を歩きながら、思う。
くいは話してくれなかった、家族のこと。くいはどんな背景を持ち、僕の前にいたのだろう、と。
もしかしたら――。
嫌な予感がひた走る。分かりようのないことについて。
でもこうも思う。どんなに大丈夫そうな人でも、必ず苦しいと思ったり、辛いと思ったり、そう言う側面があるんだってことを。
くいに、のぞみの顔が重なっていた。
「よし」
一つ、呟いた。
あれから、三ヶ月が経った。
夏が過ぎ、秋も終わりになっていた。
日の出ている時間は短くなって、僕の行く文学部の研究室に来る人も少しずつ減っていた。
時間の変化や流れを感じずにはいられなかった。
といってもこの三ヶ月間、僕は大いにのぞみと打ち解け合い、のぞみのこともかなり知った。
毎日昼にあのキャンパスのベンチで会う度に、のぞみも僕に自身の悩みを少しずつ打ち明け始め、互いの存在が、互いにとってとても大切なものになり始めていた。
のぞみが少しでも心の荷を軽くしてくれたらと思い、始めたバイトをやりながらも僕はのぞみと会う時間を大切にし、そして献身的に接するようにしていた。
しかし、のぞみと接していく中で、僕はやはり「くい」のことを思い出さずにはいられなかった。
未だのぞみとくいの間にある何かなどは分かっていないし、もはや、二人は瓜二つなだけで無関係であるのかもしれない。
けれども僕は、そこに何かがあると疑っては諦められなかった。
本能的に、そこに何らかの重大な関係があると思ってしまっていた。
そういった意味でも、のぞみと関わり続けることには意味があった。のぞみは不本意だと思うかもしれないが――でもそれは、僕自身どうしようもないことだった。
午前六時前、札幌駅。
セーターにコートを羽織り、僕はのぞみを待つ。
もうすっかり寒くなって、何枚も重ね着をしないと身震いしてしまうほどだった。
今日は僕の奢りでのぞみと小樽へ行くことになっていた。
のぞみは初め、私の分は私で払うと言っていたけれど、借金で大変な彼女にお金を払わせるなんてことはとてもじゃないがさせられるわけがなかった。
改札では、お勤め人達が下を向きながらすれ違い、往来している。
僕もあと半年もせずにあんな感じになってしまうのか、なんても思う。
それから数分。お勤め人の群れの、その中を一人、こちらへ歩いてくる青いロングコートが見えた。のぞみだった。
「おはよう」
「おはよう」
挨拶を交わす。
「遅くなっちゃったね、ごめん。ていうか今日寒いね」
のぞみが手をぶるぶると震わせて言う。
秋でもここは北海道だ。気温は簡単に一桁台になる。
「気にしないで、まだ五時五十五分だし」
僕は続けて言う。
「列車に乗る前に、カイロでも買っていく?」
そう尋ねるとのぞみは「いや、大丈夫。早く行こう!」と気分高めで僕の腕を掴んだ。
今日をどんなに楽しみにしていたんだろうと、のぞみの心の中を汲み取ると、僕は実に嬉しい気分に浸ることができた。
それから、二人揃って改札をくぐった。
札幌駅の改札をくぐるのは、関東からこっちに引っ越してきた時以来だった。北海道では列車を使うということが本当に少なかった。
ホームが見える。
ここから小樽までは、函館本線の鈍行列車に乗って、約五十分ほどである。
僕たちは、丁度二番ホームに停車していた、函館本線・各駅停車、然別行に、自動販売機で飲み物(もちろんコーヒー)を買って乗り込んだ。
列車の中は、小樽方面に行く人は少ないのか、がらんとしている。
その様子はまるで、僕らだけの貸切状態のようだった。
「まるで貸し切りみたいだね」
僕の思ったことをのぞみはそれからそのままに言った。
六時九分、列車はダイヤ通りに動き出した。
厚い乗車口が閉まり、「本日もJR北海道をご利用いただき……」というアナウンスが流れ出すとともに。
ガタンゴトンと車輪がレールの上を通過する音を出しながら、列車は少しずつ加速していく。
その様子をのぞみは、あのペットボトルコーヒーを左手に持ちながら興味深そうに見つめている。
「あれ、列車に乗ったことってあまりない感じ?」
その様子を見て僕は、のぞみに訊く。
「うん、私ずっと十勝市で育ってきていて……って前も言ったか。移動も全部車で列車に乗る機会なんてなかったね」
のぞみは揚々とした感じで答えた。
「じゃあ、今日が列車初乗車日?」
のぞみは機嫌よく「うん」と答えた。
僕はなんだか、そんなのぞみのことが純粋に友達としてかわいいなと感じていた。
僕が事前に買っていたじゃがりこをのぞみと席で分け合うたび、列車は各駅で止まった。
動いては止まり、動いては止まり。しかしその間隔は、札幌を離れていくごとに遠いものとなっていった。
列車は札幌競馬場――彼女が見ないように僕は一生懸命配慮した――から北海道科学大学までの直線を抜けると、軌道を左方向に変え、高速道路の隣を並走していく。それを更に抜けるとやがて海が見え始め、列車は海スレスレの海岸をゆったりと走っていく。それはまるで杉みき子の小説「飛べ かもめ」に出てくる鈍行列車のように。かもめは一匹もいなかったけれど。
僕らは車窓からどこまでも広がっている日本海の様子を眺め「夢みたい」などと呟きながらは、またじゃがりこを一本つまんでいた。
その頃にはもう車両の中では数名のお勤め人たちと、一組のファミリーも乗車していて、彼らは無機物のように大人しく過ごしていた。
四十分くらいが経過した頃、列車は朝日海水浴場に隣接している駅――朝日駅を出発して、少しずつ内陸部へと入り始めた。
あと十分程で、目的の小樽駅に到着する。
「列車まもなく小樽駅に到着します。お忘れ物のないよう、ご注意ください」親切な車掌によるアナウンスもかかる。
そして、それからウイングベイ小樽や小樽市立病院などと言った札幌にも引けを取らない施設が続々と見え始めると、車窓に細かな氷が付き始めた。
そう、この日小樽では雪が降っていた。この日の天気予報は見事に外れたのだった。
今年の降雪は早いな、と思いながら、僕は何度かのぞみのことを眺めた。そして、その数多の雪粒を見た。
のぞみは何かに惹かれているのか、一言も喋らずに、車窓の外を眺め続けていた。
たちまちすぐに、列車は小樽駅に着いた。
雪に注意しているのか早い段階から少しずつ減速を始め、ちゃんと所定の位置に列車は停止した。
厚いスクリーンドアーが「小樽、小樽」というアナウンスとともに重たく開く。
やはり雪が降っているだけあって、小樽は札幌より少し寒く感じた。
それから、札幌では買わなかったけれど、僕らは小樽駅のセブン11でカイロを何枚か買った。
しっかりと貼るもの、普通のものを区別して。
そしてそれらを二人で分け合った。
小樽駅を出る頃には、朝七時半頃になっていた。
小粒の雪たちがパラパラと多くもなく少なくもなく舞っていて、駅前のホテルや商業施設は照明をチラチラと輝かせていた。
「朝ごはん食べないとね」
と、僕が言う。
「そうだね」
のぞみが頷く。
「何食べたい?」
「そうだなー、そこの市場入ってみない?」
「良いね」
そうして僕らは、小樽駅前横のいかにも北海道というような海鮮市場に入った。
市場の中はまだ朝早いというのに活気で満ち溢れていて、地元の漁師たちが自分たちが釣り上げた大振りな魚たちを大声を張り上げて売っていた。
「今活きの良いマグロ、安売りしてるよー! 買って買って!」
そんな商売人たちの声とともに、水がいたるところから流れ出し、その流水を受けて活きの良いたこやあさりなどの貝がのびのびと動いている。
札幌ではあまり見られない光景で、でもそれは北海道といえばという景色でもあった。
「活気があるね」
僕が呟く。
「ねっ」
のぞみが微笑み、肯く。
のぞみが笑っている姿を見ると、来てよかったなという気持ちになれた。
結局僕らはその後、市場内の一角に佇む海鮮食堂のような店に入った。
その店は上品な老夫妻によって切り盛りされており、マグロ丼やしらす丼が名物のようだった。
店内には気前の良い北前船の模型が飾られ、木を基調とした古臭さを感じさせないデザインで色彩は統一されている。
席に座り、黒く縁取られたメニュー表を一覧すると、僕はしらす丼を、のぞみはマグロ丼を注文した。
僕らの席の周りには数人の客が座っていたが、皆同じようなものを注文していた。
食事が来るまでの間、のぞみと言葉を交わす。
「改めて、今日はありがとう」
のぞみが頬を赤らめながら言う。
「いやいや、むしろ僕の方こそ」
のぞみが僕にそれだけ、心を開いてくれたのだから。
「今日は楽しもう」
僕は続けて言った。
「小樽って、何が有名なんだっけ? 地理に疎くて……」
のぞみが僕に訊く。
「そうだなー、僕もあんまり詳しくないけど。ヨーグルトとかは結構有名らしいね」
「へえ、そうなんだ!」
「うん、このあたりは酪農とか結構やってるからね」
「私そのあたりのこと全然知らないからなー」
「地理とかあまりやらなかったよね?」
「理系だと必要ないからね」
「でも僕は逆に、化学とか生物とか全然やらなかったね」
「お互い様って感じだ、ふふっ」
のぞみが笑った。彼女が笑ってくれると、僕はなぜか救われた気分になれた。
そう、このように、彼女の一つ一つは、間違いなく僕の気持ち一つ一つに影響していた。
「じゃあ、今日は沢山ヨーグルト食べよう!」
「たくさん食べるものでもないと思うけどね」
僕が少し笑いながら言う。
「気にしない気にしない」
のぞみが慣れないようににやりと言う。
なんだかこの状況が、どこか嬉しくも切なくも感じた。
それからしばらくして、注文したものが届いた。
僕が食べるしらす丼も、彼女が注文したマグロ丼も、メニュー表の写真に引けを取らずとても立派だった。
すぐに調理したのだろう、米の上に丁寧に盛り付けられたしらすは身が引き締まっていて、とても食べごたえがあった。
米に関しても、しらすと不釣り合いなどとはならず、料理全体を引き立たせる役割となり、コントラストを演出していた。
「美味しい!」
マグロ丼を食べると、のぞみがとびきりの笑顔で言った。
しかしその時だった。
(くい……)
(――それでも)のぞみのその笑顔を嬉しく思いたいのに、なぜか思い出してしまった。
その笑顔が、くいがいつも顔に浮かべていたそれにそっくりだったからかもしれない。
くいの姿、仕草、口癖が一気に頭の中に降り掛かってきてしまった。
「良かった」
僕はのぞみにそう言いながらも、ふと僕は一体何をしているんだろうという気持ちになっていた。恋人がいるのにも関わらず、違う女の子とわざわざ列車に乗り、出かけているなんて、と。
(だめだ!)
僕の心のなかに、僕を強く戒める声が聞こえる。
そう、僕はのぞみと過ごしている間、くいのことなどはさっぱり忘れようと決めていたのだ。
のぞみをこれ以上傷つけないために、彼女の心のなかにある傷を癒やすために。
のぞみと今いるのは、そのためなんだ。
それにそう決めていたじゃないか。
僕はくいのことを頭の中から追い払おうとした。
でもその輪郭は頭の中にずっとこびりついていた。
気を紛らわすために、僕はしらす丼をかき込みながら言った。
「これもすごく美味しいよ!」
のぞみは笑った。
その後僕らは注文したもの――朝食を食べ終え、店をあとにした。
会計時、のぞみが自分の分の金額を払おうとしてきたが「今日は僕のおごりだろ」と言って、支払った。
バイトを始めておいて良かったなと千円を三枚渡した時に思った。
「本当にありがとう」と、その後のぞみが言ってきた。
「良いんだよ」と僕は返した。
それから再び小樽駅前に戻った時、時刻は九時頃となっていた。
まだまだ一日は始まったばかりだった。
この頃には街中には沢山の――札幌ほどではないが――人が往来しだし、活気が盛り始めていた。
「このあとどうしようか」
僕がのぞみに訊く。
「なんでもいいよ」
のぞみがそう返す。(じゃあ……)
「ウイングベイにでも行ってみようか」
「良いね!」
のぞみが喜んでくれて安堵した。
それから市営のバスに乗って、僕らはウイングベイ小樽(列車から見えた建物だ)に向かった。
バスの中にはこの町の住民たちや僕らと同じ大学生たちがそこまで多くもなかったが乗っていた。
バスは町中を走り、海の方向へと進んでいく。
そして、度々横に大きく揺れる。
その度に横に座っているのぞみが、僕の左腕に触れる。
それでも着々とバスは目的地に向かい進んでいた。
二十分ほどで、バスは目的地にたどり着いた。
他の乗客たちも目指していた場所は同じようで、僕らが降りるとともに彼らも降りた。
小樽一の商業・娯楽施設であるウイングベイ小樽は、やはりかなり大きかった。
電気が煌々と光り、気分をあげさせるBGMが鳴っている。
それらは人々の間に違和感なく馴染み込んでいた。
そして僕はのぞみとともにその中に入る。
やはり中では大きな外枠ということもあり様々な種類の店が展開されていて、それと同様に様々な種類の人々が歩き楽しんでいた。
「すごいね!」
それを見てのぞみが気分を高揚させて言った。
「小樽にもこんな建物があるんだね」
僕はそう返した。
「小樽に失礼だよっ」
それに対しのぞみは悪態をつくようにそう言った。
「確かに」
意外な所をつつかれ僕がそう呟くと彼女はこくりと肯いた。
でも僕のその返答はなぜか、我ながら違和感を覚えた。
「楽しもう!」
彼女のその声につられた。「うん」と元気よく結局僕はそれから言うのだった。
そして、それから僕らはその中で、だいたい昼を過ぎる頃まで、ボウリングや映画、食事などを楽しんだ。
そしてその中で見せるのぞみの一つ一つの言動や表情は、僕に嬉しさと懐かしさ、寂しさなど沢山の感情を発生させた。
「ボウリングとか初めてだよ! 本当にありがとう」
(良かった。本当に良かった)
(くいだったら、なんと言ったんだろう)
(僕のガーターを見て笑いでもしただろうか)
「すごい良い映画だったね」
(そう言ってもらえて本当にうれしい)
(でも、くいだったら、くいがこれをみたらどう思ったんだろう)
(くいはこの映画を見たんだろうか?)
「この分は流石に私が払うよ」
(君は大変なんだしここは僕が払うよ)
(もし僕がそう言ったら、くいはじゃあ喜んでとでも言ったんだろうな)
(最後にくいと出かけたのは……いつだったろう)
(ああ、一体くいはどこに? なんでいなくなったんだろう)
僕らがウイングベイを出る頃には、時刻は午後三時頃になっていた。
かなり長い時間過ごしたんだな、と僕は少しずつ傾いていく斜陽を見ながら思った。
のぞみは満足感をその顔に存分に表してくれていて、それを見ると僕はこの世界に引き戻ることができた。
「海に行かない?」
のぞみが言った。
「いいよ」
僕がそれに対しそう言うと、のぞみは微笑んだ。
実は僕も同じことを考えていた、とは言わなかった。
海に着いた。
ウイングベイ小樽は名前の通り海の近くにあったから、時間もかからずに徒歩ですぐに着いた。
海辺。夕日が照っている。
さざ波が穏やかに砂浜に押し寄せては、引き戻っている。
北海道の日本海の様子はいつもこんな感じだ。
僕らはそんな海やその先に見える水平線を前に、二人一緒に砂浜に腰を下ろす。
「今日はありがとう。何回言っても足りないくらい、本当に楽しかったよ」
いつも僕の目を見て話すのぞみが、このときだけは海の向こうを見ていた。
僕から見える横顔には、うすらな赤が滲んでいる。
「いいや、感謝したいのは僕の方だ。出かけるなんていうのも久しぶりだったし、君がいなかったら多分小樽になんて来なかった」
僕はのぞみと同じように、海の向こうを見ながら言った。
僕はきっと、頬を赤らめたりはしていない。
「こら」
するとのぞみがそう呟いた。
「また小樽に失礼」
次に聞こえたのはそんな小さな笑い声だった。
「確かに」
このやりとり、既視感があるなと思いながら、僕は返した。
「……」
少しの沈黙の間、さっきまではいなかったはずの二羽のかもめが、海の上を自由に飛び回るのが見える。
「――ねえ」
そんな沈黙を、のぞみがその二文字で破った。
その声は、少し震えているような、照れているような、なんとも言えない、音。
「ん?」
顔は正面に向けたまま、僕はそう訊き返す。
でも、心は君に向いている。
「あのさ……生田くんはさ、今、何を思ってる?」
のぞみは若干ためらいながらも、そう訊いてきた。
こういう時、僕はなんて返せば良いのか、その正解が分からない。
なんとなくそんな感じのことを訊いてくるのかもしれないと思っていたのに、返す言葉が一向に見当たらない。
「そうだな」
そう言いながらも、時間は着々と経過していく。
海の上を飛んでいたかもめは気づけば陸地の方へ上がっていくし、波は何回も砂浜に当たってくる。
のぞみの息の音は少しずつ聞こえだすし、その頬は赤らみを増しても行く。
最適解が何か僕は知らないけれど、でも最終的には、思ったことをただ言うに留まってしまう。一つ息を少し吸って、言う。横を見たりは、しない。
何て思うんだろう、君は。
僕は言った。
「君のことを、考えていた」
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