第10話:未来へ
エルディアン公爵家からの手紙が届いた数日後、公爵家からの遣いを名乗る二人の侍従が到着していた。こんなに早く来るとは思わず泡を食って対応した女性は母屋で晩酌している夫のところに走っていった。
「あんた、エルディアンの公爵様のところから遣いが来てるわよ!?」
黒髪の初老の女性が慌てて丸太で建てられた母屋に飛び込んで大声をあげる。仕事終わりの一杯を始めていた男は驚いて、飲んでいた馬乳酒を吹き出しそうになった。
「まだ手紙が来たばかりだろうに! 俺ァ晩酌してんだ。追い返せ、ロズヴィータ!」
「でもさぁ、もしかしたらまた金をせしめられるかもしれないじゃないかい? ほら、前は金貨三枚にもなったんだ」
「ちっ……通せ、ロズヴィータ」
「はいよ」
牧場の女将のロズヴィータはスキップしたい気分だ。昔、本家に売り払った娘が皇太子の嫁になると聞いていたこともあり、計画が上手くいった謝礼の件かもしれない考えていた。帝国の中でも辺境ということもあり、まだロサリアの婚約破棄の話が届いていないのは幸か不幸か……。
ロズヴィータは男女の公爵家からの遣いとやらを迎え入れた。一人は黒髪の青い瞳で遠目から見ても美人なメイドだ。そして、その隣にはダークブラウンの髪と赤い瞳の執事が寄り添うようにして立っていた。
「すみませんねぇ、お待たせしました。ご案内しますねぇ」
ロズヴィータは恭しく二人を案内するが、メイドの方は悲しげな表情をしていた。ほとんど使われていない応接室に案内されると、そこには作業着のままの牧場主が腕を組んだまま先に座っている。
メイドは記憶の中の彼の姿と変わらないと安堵していた。けれども、少し歳をとって顔にシワが増え、体型は少し丸くなっただろうか。それでも、単に太っているわけではなく馬の世話の仕事も手伝ってか太り肉と言った感じだ。
牧場主の男の隣に腰掛ける母、ロズヴィータも昔よりふっくらとした体型で、貧乏だと言う訳ではなさそうだ。
「初めまして。私はエルディアン公爵家から遣いとしてまいりました、家令のセバスチャンと申します」
「わたくしは、ハンナと申します……」
「ご丁寧にどうも。俺ァこの牧場主のフランツ・メイヤーです。それで、エルディアン公爵家の方がわざわざなんの御用で?」
訝しげにフランツは交互に二人に視線を送っている。かなり警戒している様子だが、セバスチャンと偽名を名乗ったジャレッドは涼しい顔をしている。その隣ではハンナと名乗ったロサリアは屋敷の使用人の名前を勝手に名乗ることに罪悪感を覚えていた。
「実は、一度あなた方のところにご息女をお返ししたいと思っておりまして──」
「──っ、金なら返さんぞ!」
「あの、いえ……そういう話では──」
「約立たずでグズな
「そうです。今になってあなた方はなんなんですか!? あの子を返すだなんて! もう要りませんよ!」
道中ではある程度どんな人たちなのかロサリアから話は聞いていた。まだ子供だった彼女に、朝は日が昇る前から起こされて厩舎の掃除。水と飼葉を変えさせて、馬の毛並みの手入れをしていたと言う。脚立から何度が落ちて怪我をしたとロサリアは笑って言うがジャレッドは口に出さないだけで彼女の両親を軽蔑していた。
ロサリアの両親ということもあり、ジャレッドは穏便にことを済ませようとしていた。けれども、あまりにも酷い言いようだ。ロサリアを連れてくるべきじゃなかったとジャレッドが後悔したのは言うまでもない。
隣に座るロサリアを気遣うようにジャレッドは視線を送るが、彼女は想像していた通りなのだろう。寂しげな笑みを浮かべているだけだった。そして、彼女の両親を見つめる目にはどこか諦めが浮かんでいる。
「──何か勘違いしておいでではありませんか? 私どもが必要なのはあなた方の戸籍のみです」
「はぁ……? お前さんは何を言うとんだ?」
「この度、公爵家当主、ジャレッド・フォン・エルディアン様とロサリアお嬢様がご婚姻なされることに決まりました。しかし、法では同じ戸籍に入っているとご成婚が出来ないのです。お分かりですね?」
「そんな……あの子は、ロゼッタは皇太子と結婚するんじゃないんですか!?」
「ロゼッタ……?」
「あ、あの、ジャ──セバスチャン。それはわた──こほん、ロサリアお嬢様が公爵家に来る前のお名前です。大旦那様は優雅さが足りないともうされまして、養子縁組の時に名前も変えたのです……」
「なるほど、そうでしたか──ああ、失礼、ロゼッタ、いえ、ロサリアお嬢様は婚約を破棄なさりまして、愛する旦那様と結婚を望んでおります」
「許さんぞ! 話が違うではないか! ロゼッタが皇太子と結婚出来れば追加で金をくれるという話だ! どうしてくれるんだね、セバスチャンとやら!?」
いつまでこの茶番を続ければいいのだろうか。いや、もう必要はないだろう。最初は曲がりなりにもロサリアの両親だからと様子を窺っていた。しかし、あまりにも酷すぎる。
彼女のことを子供どころか金のために物のように扱う様な発言だ。ロサリアの両親の人となりを知りたくてこんな方法をとったが、正解だったとジャレッドは頭痛を覚える。もはやこんな茶番は必要ないだろう。正体を明かそうとした時、ロサリアが口を開いた。
「あなた方は、ご息女を愛していた事はありましたか?」
微かに声が震えているが、ロサリアは冷静に問いかけていた。膝元で握った拳が震え、今にもこの場から逃げ出したくなる。まるで金稼ぎの道具としてしか見られていなかったのはショックだ。
ロゼッタ・メイヤー。
それがロサリアと言う貴族令嬢になる前の彼女の、牧場主のフランツとロズヴィータの娘だった頃の名前だ。もう、二人の中ではロゼッタと言う娘は過去のものなのだろう。それでも、最後に一つだけ聞きたかったのだ。
ロゼッタ・メイヤーとして。
二人の娘として。
「何を言ってるんだ、お前さんは?」
「そうですよ。あの子が居なくなったおかげで口減らしも出来ましたしお金も手に入りましたし、ねぇ?」
「そうだな。だが、あいつが婚約破棄したのは迷惑な話だな」
「全くです」
「──もういい、黙れ」
あくまで顔はにこやかなままだが、聞くに耐えなくてジャレッドは静かに言い放った。話は彼の中で決まったも同然だ。ロサリアを傷つけてしまうが、こんな下衆な両親の方が御すのは簡単だろう。金を掴ませればいいだけだ。
「なんだ、その口の利き方は! 俺たちゃなぁ、エルディアン公爵家に特別に馬を育ててやってんだ。取引をやめてもいいんだぜ?」
「ならば、そうしてもらって構わないぞ、メイヤー」
「ただの使用人ごときに権限があると思ってんのか? 当主様とやらがお冠になるだろうな?」
「その当主様直々の決定だ、メイヤー」
「はぁ……? いくらなんでもお前のような若造が当主だと? 馬鹿も休み休み言え。この件はルビウス様にも伝えさせてもらう!」
「そうか、ロジィの婚約破棄の話も知らなかったんだね。ならば、既にエルディアン公爵家の当主も代替わりしたという話もこんな辺境の田舎では知らないのもうなずける……」
堂々たるジャレッドの雰囲気に、フランツも疑いの目から徐々にジャレッドを見る目が変わっていく。どこか昔見た子供の面影があるような気がする。
そう、その昔にロゼッタを迎えに来たルビウスの後ろにいた子供だ。目の前の青年のように赤い目をしていて、気味の悪い子供だと思ったのを思い出した。
そうすると、もしかして当主だと名乗る男の隣にいるのは──。
「お前……ロゼッタ、なのか?」
今になってやっとフランツは気づく。
メイド服を着ているが、昔のロズヴィータに似ているような気がする。だが、垢抜けて芋っぽさのなくなった彼女が、自分の娘だとは夢にも思っていなかった。
「ロ、ロゼッタ……その、今の話は──」
「いいえ、フランツ様。わたくしはロゼッタ・メイヤーではありません。わたくしは──ロサリア・フォン・エルディアンですわ」
「──っ、ロゼッタ! 貴様は俺たちを見捨てる気か!? 実の両親を!?」
「そうですよ、ロゼッタ! そんな両親を見捨てるような冷たい子に育てた覚えはありませんよ!?」
「何を仰っていますの? わたくしを見捨てたのは……おふたりではありませんの!」
「貴様ぁ……!」
「もういい、黙れメイヤー。これ以上僕を不快にさせるな」
「……っ」
「お前たちが欲しいのはこれだろ?」
ジャレッドは持ってきていた革袋を机の上に投げ捨てる。すると、袋の口が解けてバラバラと金貨が溢れ出た。床にこぼれ落ちる金貨を慌てて拾い上げる二人を見て、ロサリアは彼らに対する気持ちが心の芯から冷えていくのを感じる。
「よく聞け、メイヤー。その金が欲しいのなら戸籍を使わせろ」
「は、はい、も、もちろんです、公爵様!」
「それと、それは戸籍を使わせてもらうための手数料だ。後日、追加で金を送る」
「はっ、はい、ありがとうございます、公爵様!」
金貨を両手に平服する両親を見て、ロサリアは哀れみを感じていた。
お金で買えないものはない。
人の心もある程度は金で操ることは出来る。
けれども、それは真に愛や友情やそういった感情から来る信頼や信用とも違う。
メイヤー夫妻は、金でロサリアの心までも完全に売り渡してしまったときっと気づかないだろう。醜く金貨を貪るかの如く両親の姿は豚のように見えてしまいロサリアは目を伏せた。
「さて、メイヤー。ここにサインをしてもらおう。ひとつは、ロサリアをお前たちの戸籍に戻す書類だ。そして、もうひとつは報酬に関する書類だ」
そういうとジャレッドは胸ポケットから書類を取り出した。だが、フランツにもロズヴィータにもほとんど内容が読めない。けれども、フランツたちの頭の中には、サインすれば金が貰えることしかなかった。書きなれていない歪んだ文字でサインをすると、ジャレッドに書類を突き返した。
「これで満足ですかな、公爵様?」
「ああ、問題ない。君は金を手にし、僕はロサリアとの結婚を手にする。これで話は終わりだ」
背を向けてジャレッドは出ていってしまう。その後ろをロサリアもついて行った。背中から「ロゼッタ……」と弱々しく名前を呼ばれた気がするが、ロサリアは振り返らずに母屋を後にした。
もう、わたくしは両親に捨てられたロゼッタ・メイヤーではありませんわ。
ジャレッドに、愛する殿方に愛されるロサリア・フォン・エルディアンですの。
過去の因縁と決別するように、ロサリアは心の中で一度だけ確かめるように唱えた。
「ごめん、ロジィ……」
「気にする事はありませんわ。ロゼッタならないて悲しんたまかもしれませんが、わたくしはロサリアですのよ」
「ああ、そうだね。しかし、あっちの書類を使うことになるなんてな……」
手元に残った書類を見て、ジャレッドは残念そうに呟いた。その書類には、メイヤー牧場を優遇し取引すること。そして、毎月金貨百枚を仕送りすることが記されている。それを破り捨てると、ジャレッドはロサリアを馬車にエスコートした。
もうひとつの書類には、手切れ金として金貨千枚。今後、メイヤー牧場との取引の終了が書かれていた。そのこともロサリアは知っている。残念だが信用を一度失うとどうなるのかをロサリアは身をもって経験しているつもりだ。
「ジャレッド……少し胸を貸してください……」
答えるまもなく、ロサリアはジャレッドの胸元に顔を埋めて泣いている。そんな彼女をジャレッドは抱きしめて落ち着くまで頭を撫で続けていた。
しばらくしてやっとのことでロサリアは顔を上げた。瞼は
「んぐっ……ぷっ……あははははっ」
「ふぇ……?」
「酷い顔だな、ロジィ! ぐふっ、だっはっはっはっ!」
「酷いですわ、ジャレッド! いくらわたくしでも怒りますわよ!」
「ぶふっ……す、すまない、ロジィ……くひゅっ……」
「もう……」
「ふう……とにかく、これで準備は整ったね、ロジィ?」
「そうですわね、ジャレッド──チーン!」
ハンカチで鼻をかみながらロサリアはハンカチの端で涙を拭っている。変なところで器用なロサリアの新たな一面を発見し、ジャレッドはまたくすくすと笑っていた。ロサリアはまたもや怒ってるが、ただの恋人同士のじゃれあいに過ぎない。
全ては仮面舞踏会のあの夜の過ちから始まった。
けれども、今のふたりは後悔なんかしていない。
すれ違い、苦しく辛い思いをしてきた。
だからこそ、これからはきっと幸せが続いていくのだと信じて、ふたりは口付けを交わしていた。
「愛してますわ、ジャレッド……」
「うん、知ってるよ、ロジィ。君の千倍は愛してる」
「でしたら、わたくしはジャレッドの一万倍は愛してますわ!」
「だったら僕は一千万──ぷっ……」
「ふふっ、うふふふ、無限に愛してますわ」
ジャレッドはロサリアの言葉に頷き、彼女を優しく膝の上に座らせた。ロサリアの心の中で、過去の自分と向き合いながらも新たな一歩を踏み出す決意を固めている。
彼女は過去の呪縛から解放されたかのように感じ、これからの未来に向けて少しずつ心の整理を始めていた。ジャレッドの腕の中で、その心は少しずつ癒されていった。馬車は未来に向けて走るかのようだ。辺りの風景が流れていく中で、ロサリアは新たな自分の人生を迎えられる準備が整っていた。
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