第5話:公爵の噂
帝都である噂が流れた。
公爵家当主となったジャレッド・フォン・エルディアン公爵が婚約者候補を探しているのだと。
その条件は、長い黒髪と青い瞳の美しい女性だと言う。
当然ながらその話は帝都近郊のフリューア侯爵の屋敷まで届いていた。のだが、どう考えてもロサリアのことにしか思えない。
確かに新聞の広告欄には、黒髪で青い瞳の女性を探しているという記事が先月くらいから毎日掲載されている事実はあった。
どういうつもりなのだろうとシェリーメイは訝しんでいた。
「ロジィ、どうやらジャレッド様が婚約者を探していると言う噂があるのですが」
「そうなんですのね……」
もきゅもきゅと焼き菓子を食べていたロサリアの手が一瞬だが止まった。だが、直ぐに笑顔を浮かべると彼女はまた焼き菓子に手を伸ばす。
また何かを誤魔化す時の笑顔だ。
「あなたは妹として何も思わないんですか?」
「そうは言われましても……わたくしは義理の妹ですし?」
「はい……?」
「あっ……」
「詳しくお聞きしても?」
「だ、ダメですわ! お父様に怒られてしまいますわ!」
「あのですね、ロジィは家出してる上にら来週には国外に旅立つのに怒られるも何もないでしょう?」
「あっ……そうでしたわね」
ロサリアは手を止めて逡巡する。ゴクリと唾を飲み込むと、心を決めて話し始めた。
「わたくしは、元はエルディアンの分家も分家、末端の牧場の生まれなんですの……」
「なるほど、そうでしたか。社交界ではよくあることです」
「もしかして、メイも?」
「残念ながら私はフリューア侯爵家本家の生まれです」
「そうですか……」
「露骨に残念がらないでください。嫡男が生まれず、分家や従兄弟から養子をとることはよくあるので。けれども、ジャレッド様とは随分と仲が良いように見えましたが、頼れないんでしょうか?」
「お兄様は婚約者を探しておいでですわ。わたくしが戻ってしまっては迷惑ですもの……」
「あのですね、社交界の噂や話というものは、尾ひれはひれついて大きくなるものですよ。もしかしたら、婚約者を探していると言うのは間違いかも知れません」
「でも……」
「とにかく、一度ジャレッド様とお話ください。帝国を出ると二度と戻ってこれないかもしれないんですから」
「……」
シャリーメイはそうは言うが、ロサリアはこのまま何も告げずに旅立つつもりだ。公爵家に来てからはずっとジャレッドに迷惑をかけてばかりで、その上行きずりの顔の知らない男とも一夜を過ごした。そんな不良令嬢が公爵家に戻るだなんてジャレッドの邪魔にしかならないだろう。
そんなことを考えているのだろうとシャリーメイは読んでいた。ほんのひと月だが、ロサリアを見ていて思うことは多くあった。
自己評価が低すぎる。
だが、これもきっと公爵のせいだろう。
そのフォローをしていたのがジャレッドだと考えるとまさに鞭と飴だ。もしかしたら、ジャレッドは公爵の命令で優しくしていたのかもしれない。だから、せめてそこをハッキリさせるためにもシェリーメイは話すべきだと考えていたのだ。
ロサリアには悪いと思いながらも、シャリーメイは一通の手紙を送ることに決めていた。
・
例の噂が流れ始める数週間前のことだ。
ロサリアを探し続けていたジャレッドは街中で黒髪の女性の後ろ姿を見つけた。もしかしたらロサリアかもしれないと思い、ジャレッドは人混みを押し退け、黒髪の女性の肩を掴み声を掛けた。
「待ってくれ、ロサ──誰だお前!?」
振り返った顔はロサリアに似ても似つかない顔立ちだった。ジャレッドは「すまない、知り合いに似てたので」と謝罪すると手を離す。
そんなことが何度も何度もあった。
どこに行ってもジャレッドが考えているのはロサリアのことだけだ。仕事も手につかなくなり、代わりにロサリアを探す時間ばかりが増えていた。
だが、今は予定にない来客の対応に追われている。
それは全て彼自身の不用意な行いのせいなのだが、ここ最近は毎日ひっきりなしに黒髪で青い瞳の女性が公爵家にやって来るのだ。
中には自身の髪色を黒く染めて来る女性もいる。辟易しながらも、ジャレッドは使用人に追い返させていく。一目だけでもあってくれだの、私が運命の女ですだの騒がしい。
その上、先日はフリューア侯爵令嬢からも面会希望の手紙が届いている。一応は今日の午後の面会を許可したが、まさかあの令嬢まで髪を染めて来るわけがないよな。そもそも、フリューア侯爵令嬢は国外に嫁ぐはずだと面会の意図がジャレッドには分からないでいた。
「旦那様、大旦那様からもこの事態を収めるために婚約者を立てろとのお達しが来ております」
申し訳なさそうにする老齢の執事を一瞥するが、ジャレッドはまたため息をついてロサリアのことを考えていた。
一度意識してしまうともうダメだ。
ロジィは大切な妹だと何年もの間、自分に言い聞かせていた。けれども、日々成長していくロサリアの姿を見る度に、彼の秘めた想いは徐々に大きくなってしまう。
それでも、皇太子レオンハルトとの婚約が決まった時には、一度その想いは落ち着いたはずだった。もう二度と叶わないことだと諦めたはずだったのだ。
だから、ロサリアの幸せを見守ろうと決めていたというのに婚約破棄になった。
当然、喜ばなかったわけがない。
あんな不貞皇太子なんかに大切な妹、いや、心の奥底から渇望した女性を渡さなくて良かったと安堵し、歓喜に身を震わせたくらいだ。
触れられなくても、僕が当主になれば一生そばにいられる。一生手放さなくて済むとジャレッドの独占欲は今まで押さえつけられた分肥大し止められなくなりそうになっていた。
だが、一夜を共にした女性がロサリアだと分かると、ジャレッドは正体を知られたくなくなって逃げ出したのだ。
妹に優しい完璧なお兄様でなければならない。
触れてはならなかったというのに……。
ロサリアを穢してしまった罪悪感と、ロサリアの初めては僕だと言う背徳感にジャレッドはどうしようもなくなっていた。
最低だとはわかっていても、もうロサリアはいない。
あの日の朝、僕は選択肢を間違えたのだとジャレッドは悔やんでも悔やみきれなかった。
シェリーメイはロサリアに黙ってエルディアン公爵の屋敷まで来てしまった。
エルディアン公爵家の屋敷は、まさに威厳と格式の象徴だった。
馬車に乗ったまま正門をくぐると、目の前に広がる美しい庭園が目に映る。庭園は手入れの行き届いた緑と季節の花々で彩られ、その中央には清らかな水音を奏でる噴水が静かに佇んでいた。真っ直ぐに伸びた石畳の道が、屋敷の正面玄関へと導いており、その道の両脇には、純白の彫像が整然と並べられている。
屋敷自体は、黒を基調とした壮麗な造りで、どこか冷たい威圧感が漂っている。高くそびえる塔が複数あり、まるでこの世のすべてを見下ろしているかのような印象を覚えた。窓枠や扉には、精巧な装飾が施されており、特に赤い薔薇のモチーフが随所にあしらわれているのが目を引いた。
玄関の扉は大きく、重厚感があり、その表面にはエルディアン家の紋章が刻まれている。使用人が扉を開け、案内に従って足を踏み入れる前から冷たい空気が流れてきたように思えた。
「さすがに……少し圧倒されますわね」
シェリーメイは、自分の声が思ったよりも響くことに驚いた。廊下に入ると、その広さと長さに息を呑む。光沢のある黒い大理石の床は、まるで鏡のように彼女の姿を映し出していた。
壁には、過去のエルディアン家の当主たちの肖像画が飾られており、どの顔も厳格で威厳に満ちている。だが、その眼差しにはどこか冷淡さも感じられた。
シェリーメイは少し緊張しながらも、ロサリアのことを考えた。この屋敷の冷たさと孤独感が、彼女を一層「黒薔薇姫」として社交界での誤解を強めているのではないかと感じたからだ。
「こちらでお待ちください」
どこか疲れた顔をしている老齢の執事に客まで待つように言われた。
シェリーメイは応接間の中を見回した。
部屋は広く、重厚な家具が並べられており、そのどれもがエルディアン家の格式を象徴しているようだ。天井近くまで届く大きな窓からは柔らかな自然光が差し込み、豪華なカーテンが優雅に垂れ下がっている。壁には繊細な刺繍が施されたタペストリーが掛けられており、古いが手入れの行き届いた木製のキャビネットが一角に置かれていた。
応接間の中央には、深いワインレッドのベルベットで覆われたソファが配置されており、座るだけで身体が沈み込みそうなほど柔らかそうだ。その前には、同じく重厚な作りのテーブルがあり、その上には銀のトレイに載せられたティーセットが整然と並んでいた。
シェリーメイは、少し緊張しながらも、そのソファにゆっくりと腰を下ろした。執事がお茶を入れてくれるのだが、優雅に香りを楽しむ余裕はない。
しばらくすると、ジャレッドが応接間に入ってくる。もうあとには引けない状態だが、ロサリアのためにもはっきりとしておく必要があった。
「ご無沙汰しておりました、エルディアン公爵閣下。本日は面会のご許可を頂きありがとうございます」
「あ、ああ……」
ジャレッドはシェリーメイの髪色を見て安心したのは言うまでもない。いつものプラチナブロンドのままだ。
「それで、フリューア嬢から面会したいだなんて初めてじゃないか?」
「おっしゃる通りです。別段、私が閣下に用事がありませんので」
「随分とバッサリと言うじゃないですか。こう見えても、私は社交界でもそれなりに人気が──」
「あったとしても、私はお断りですね」
「確かに。フリューア嬢はご婚約がもう決まっておりましたね」
「それ以前の問題です。閣下はロジ──こほん、ロサリア様のことをどうお考えですか?」
「どう、とは……?」
「家族? それとも政略結婚の駒ですか?」
「……どういうつもりだ?」
「どうもこうもありません。それさえ聞ければいいのです」
真剣な面持ちなシェリーメイに、ジャレッドの方が気圧されている。あんなに小さな体のどこから殺気にも似たプレッシャーが出せるのだろうか。
ジャレッドは本能的に真実を伝えなければ取り返しのつかいことになるのではと感じるほどだ。彼は長く息を吐き出すと、罪人が観念して罪を認めるかのような気持ちで本音を吐き出した。
「ロジィは……僕の全てだ」
「と言いますと?」
「意地が悪いな……僕はロジィを妹として大切に思っている上に、彼女のことを──愛している」
「本当にですね?」
「ああ、本当だ。言いふらすも新聞社に売るも好きにするといい。公爵家のスキャンダルだ。良い金になるだろう?」
「随分と投げやりですね」
「僕は……間違えた。君もロジィが行方不明なのは知っているだろう?」
「ええ、ですから閣下に、いえ、ジャレッド様におひとつ情報をお伝えします──」
──話が終わり、シェリーメイはとっくの前に退室していた。
だと言うのに、ジャレッドはソファから立ち上がれずにいる。それはロサリアが無事だった安堵と、国外へ去ってしまうと言う焦燥感からだ。
もしあの時、正体を明かしておけばロサリアを悲しませることなんかなかったはずだ。そして、想いの丈を全て伝えていればこんなことにはならなかった。
やっとのことでジャレッドはソファから立ち上がると、自室へと向かう。そして、キャビネットの一番下の引き出しに隠した例の仮面を取り出した。
目元だけを隠す黒い布製の仮面だ。
ジャレッドは仮面を握りしめたまま思い悩んでいる。
今度こそ正体を明かすべきだと分かっていても、ロサリアはどう思っているのだろうか。ただの兄である自分と一夜を共にしただなんて知ってショックを受けるは明らかだろう。もしかしたら、二度と口を聞いて貰えないかもしれない。
けれども、そうやって逃げてロサリアと向き合わないのも卑怯だ。
世間になんと謗られてもいい。
ロサリアに嫌われてもいい。
ジャレッドはシェリーメイの言う通りにしようと決めた。
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