第4話:すれ違い
どうしたらいいか分からないまま、ロサリアを置き去りにして逃げ出したジャレッドは皇宮に来ていた。皇宮の中でも奥まった場所にある一室で、ジャレッドは応対用のソファに腰かけて出されたお茶にも手をつけていない。かなりショックを受けているようだとこの部屋の主は弱々しく苦笑していた。
ソファに座るジャレッドの斜向かいに置かれたベッドに状態を起こしたまま病人のように顔色の悪い青年は座っていた。長く伸びた灰色の髪は、彼が病床についてからの年数をものがたり、薄い紫水晶のような瞳は生気が薄く感じられる。部屋から出ていないと言うより出られない彼の肌はシミもなく真っ白だった。
「それで、朝早くから尋ねてくるなんてどうしたんだ、ジャレッド?」
「いや、その……すまないヴィートリヒ。なんと言えばいいのか……」
「妹さんのことかな? それとも、ユージーンが仮面舞踏会で何かやらかしたのかな?」
「両方……になるんだと思う」
「どういうことだね?」
「妹のことで、僕がやらかしたんだっっっ!」
「ほう?」
第一王子、ヴィートリヒはなんと声をかければいいのか迷っていた。
こんなジャレッドの姿は初めてだ。いつも見せる余裕な表情と態度はなりを潜めて、メソメソとしている。こんな彼を見られるのは面白くはある半面、親友としておくびにも口に出せない。
確か、昨日は第三王子のユージーンとヴィートリヒ主催の仮面舞踏会に向かったはずだ。なかなか婚約者がいないジャレッドを心配して、ユージーンに誘わせた。好色なユージーンのことだ。それなりに何かを仕出かしているのはいつもの事として、まさかジャレッドがやらかすとは思ってもみなかった。
「ジャレッド、聞いてもいいか?」
「ああ、そのために来たんだ。聞いても笑わないでくれ──」
神妙な面持ちでジャレッドは昨夜の仮面舞踏会で声をかけた女性の話を始めた。最初は放っておけなくて、次は憐れみから話に付き合ったこと。そして、最後にはロサリアと重ねてしまいその女性を本気で守りたいと思ったこと。そして、結婚するつもりで手を出したと話す。
真剣なジャレッドの態度に、ヴィートリヒも一切茶化さずに話を静かに聞いていた。
あの、女なんて
「──その女性は、ロジィだったんだ」
「すまない、どういうことだ?」
「つまり、僕は大切な妹を……ロジィに手を出してしまったんだ……最低だ……僕は……」
「あー、その、なんだ。もう、ロサリア嬢を娶ればいいんじゃないかな?」
「父上が許すとでも?」
「君はあと少しでエルディアン公爵家の当主になり、ルビウス、君のお父上は隠居。実質もう君がエルディアン公爵家の支配者と言っても過言ではないよ」
「分かってる……けれども、ロサリアが養子だとしても戸籍に入ると結婚は出来ない……僕はとんでもないことをしてしまったんだ!」
「そうか……じゃあどうするつもりなんだ? 屋敷に閉じ込めて置くのか? それとも、どこか人目のつかない場所に匿って一生外にも出さず世話をするのか?」
「……出来るのならそうしたい。けど、それはロサリアの自由意志を奪うことだ。僕は……ロサリアには自由でいて欲しい」
弱々しくジャレッドはロサリアに対する思いを吐き出した。ロサリアは牧場主の娘として生まれ、物心ついた時から仕事をさせられたと聞いていた。歳を経る毎に仕事は増え自由な時間はなくなった。公爵家に連れてこられてからはさらに自由からは遠ざかり、父のルビウスは物のように扱う。
だから、せめて僕だけはロサリアを束縛したくない。
ジャレッドはそう思うのに、ずっと目の届くところにいて欲しいとも願ってしまう。
「それで、ロサリア嬢は今どうしてるんだ?」
「正体がバレるのが怖くて連れ込んだ部屋に残してきた……」
ヴィートリヒが絶句したのは言うまでもない。だが、直ぐに穏やかな顔はものすごい剣幕に変わっていく。
「ジャレッド、君はとんでもないことをしてしまったな?」
「分かっている。義理でも妹に手を──」
「違う、そうじゃなくてだね、一夜を共にした男が急に消えているとなるとロサリア嬢はどう思うか考えたのか?」
「それは、別に先に出ると書き置きしている──」
「馬鹿者──ごほっ、げほっ」
大声をあげ咳き込むヴィートリヒに水を汲んでやろうと水差しに手を伸ばそうとした。だが、彼は手で制して止める。こんなに声を張り上げたのは久しぶりすぎて喉から血が出そうな気分だ。
「ふぅ……ジャレッド。気を悪くせずに聞いてくれるか?」
「あ、ああ……」
「きっとロサリア嬢は、やり捨てられたと思っているぞ」
「そんな馬鹿な……僕は書き置きをしたんだぞ?」
「書き置きになんの意味がある? 目覚めたら君がいないんだ。その上、ロサリア嬢は相手が君だということも知らない。彼女からしたら、仮面をつけた君は、守ってやるだのなんだのと甘い言葉を吐くだけ吐いてやり捨てて正体もあかせず逃げ出したクズ男と変わらない」
「──っ」
ヴィートリヒの言う通りだ。
きっとロサリアの事だ。
一人きりにされて不安で泣いているかもしれない。
ロサリアを守りたいだなんて言っておきながら、彼女を傷つけるようなことしかしていないじゃないか。
気づいた時にはジャレッドは走り出していた。
「全く、本当にそそっかしいやつだな」
寝室のドアは半開きのまま、風のごとく走り去って行ったジャレッドを見送るとヴィートリヒはベッドから立ち上がった。
「さて、不甲斐ない親友のため、一肌脱いでやろうかな」
ついさっきまで生気の薄かった彼の紫水晶のような瞳には決意に輝いていた。そして、一歩一歩踏み出すその足取りは病床にいるとは思えないほどに力強く見えた。
・
ロサリアは目を覚ますと、知らない天井をぼんやりとしばらく見つめていた。公爵家のロサリアの部屋の天井と違い真っ白だ。起き上がって辺りを見回すと、飾りっけのない部屋だが、品のいい調度品が備え付けられている。
決して見栄えが悪いということではないが、機能性を重視しているのだろう。
「やっと目が覚めましたか?」
急に声をかけられて、ロサリアは驚いて声をあげそうになる。室内に置かれたソファの影から背の低い令嬢が姿を現した。どうやら、座高が足りずソファの扇形の大きめの背もたれの影に隠れていたようだ。
「黒薔薇姫とあろうあなたが酷い有様ですね」
「えっと……申し訳ございません」
普段の涼やかな佇まいのロサリアと随分と違い、どこか弱々しさを感じ、婚約破棄のことが随分と効いてるようだとシェリーメイは感じた。仮にロサリアが不貞をしていたとしても、今は突っ込んで聞くべきではないだろう。シェリーメイがそう思えるほどにロサリアは疲弊していた。
「はぁ……別に謝罪が欲しいわけではありませんよ。どうしてあんな場所にいたんですか?」
「その……帰れる場所がなくて」
「確かに、あの話の後だとお気持ちは分かります。家出するにしても、友人の一人くらいは──」
「いないんです……」
「え……?」
「いないんです、誰も……ふふふふ、わたくし、喋るだけで恐れられて……何もしてないのに。何もしてないのに……」
死んだ魚の目でロサリアは虚空を見つめて静かにツーっと涙を流している。いたたまれなくなってシェリーメイはため息をひとつ、ロサリアの手を握った。
「でしたら、しばらくは私を頼っていただいて構いません」
「えっ……ご迷惑ではありませんの?」
「むしろ、迷惑でしたらここまで連れてきませんよ」
「はい……ありがとうございます」
弱々しいロサリアを見て、シェリーメイは今の姿の彼女が本当の姿なのだろうと感じていた。どうりでお茶会でもどこか居心地悪そうにしていたわけだ。彼女にそんな気がなくても、ロサリアが帝国屈指の権力者、エルディアン公爵令嬢としてしか見ていない令嬢たちに勝手に恐れられていたということだろう。
だとしたら今までどれだけ心細かったのだろうか。
お茶会でジャレッドが迎えに来た時のロサリアが安堵していたのはこういうことだったのかとシェリーメイは納得していた。
「それにしても、友人のひとりもいないだなんて心外ですね。頼ってくださればすぐにでもお迎えに行きましたよ?」
「でも、そんなご迷惑は──」
「迷惑かどうかはこっちが決めます。今に関して言えば、帝都内で公爵令嬢が犯罪に巻き込まれる方が困りますよ」
「ど、どういうことですか?」
「〜〜っあなた、ご自身の立場分かってますか!? もし、誘拐でもされたら、もし追い剥ぎにでもあったらどうするんですか!? 帝国は治安が悪いと喧伝することになるんですよ!」
「は、はいぃ〜すみませんでした……」
いつもの公の場で見る凛々しくも毅然とした姿の黒薔薇姫はそこにはいない。麗らかな日差しを浴びて花を咲かせる蒲公英の方が似合っているだろう。
「それで、何があったんですか?」
「実は──」
シェリーメイはロサリアの話を黙って静かに聞き続けた。
婚約破棄されて、ヘンタイン伯爵の妾にされると決まった時、ロサリアは以前届いていた未開封の仮面舞踏会の招待状を思い出したと言う。乙女としてシェリーメイも初めてがあのヘンタイン伯爵になるのは忌避するべき事態だ。
きっと私もそうするでしょうね。
シェリーメイはロサリアの行動に共感していた。
地獄に送られるのならば、最初の相手くらいは選びたい。だが、顔を出していてはきっと録な男はよってこないだろう。
ロサリアは不貞で婚約破棄されたのだから。
だが、シェリーメイもこのロサリアが不貞を働けるのはおかしな話だと感じていた。
仮にだが、ロサリアの話を真実だとすると、不貞の辻褄が合わないからだ。ロサリアは最低限の交流しか持たず、ほとんど屋敷にいたし、よくある悪い噂──好色だの浪費家、あるいはギャンブル依存──も聞いたことがなくクリーンだ。それ以前に、彼女の性格では不貞なんか不可能だろう。
そうなると、やはり犯人はあの女しかいない。
「はぁ……だから申し上げましたよね? フェリシモ男爵令嬢が怪しいと」
「返す言葉もありませんわ。まだ小さいのにフリューア嬢はしっかりしてますね」
力なく笑みを浮かべて、ロサリアはシェリーメイの頭を撫でた。が、その手はがっしりと掴まれてしまう。シェリーメイは悔しそうな、悲しそうな顔に怒りを秘めて言い放った。
「私は同い歳です!」
「え?」
「ロサリア様と同い歳ですよ! 今年18歳の立派なレディーなんですよ!」
「し、ししし、失礼しましたわあああわあわあわあわあわあわあわあわ!!!」
慌ててロサリアは手を引っこめた。
パッと見まだ十四、五歳くらいにしか見えない。やってしまいましたわとロサリアは目に見えてしょぼくれてしまった。
「まぁ、その話は置いといて、そんなに友人が欲しければ私がなって差し上げます」
「い、いいんですか……?」
「と言うか、私はお茶会に来ていただけるくらいには仲がいいと思っていたのでショックです」
「はいぃ……しゅみましぇん……」
メソメソ顔をするロサリアに、何となくジャレッドが過保護な理由が分かった気がした。放っておけばきっとどこかで野垂れ死にしてしまいそうだ。社交界知識しかない箱入りの彼女が一人で生きていけるような気がしない。放り出したら次の日には干からびて死んでそうなイメージしか湧かなかった。
「あの、ロサリア様。これから、どうなさるつもりですか?」
「──っそう、ですわね……諦めてヘンタイン伯爵の妾になるしかありませんわ」
「……」
「そんな悲しそうな顔をしないでくださいまし。わたくし自身の落ち度ですわ、きっと……」
「逃げてもいいんですよ」
「逃げ、る?」
「ええ、苦しい、辛い、もうダメだって時は逃げてもいいんです」
「でも……お兄様か──」
「ロサリア様は十分頑張りましたから、ね?」
「そう、ですの?」
「そうですよ。実はですね、私の婚約者が読み書きと金勘定が出来る人材を探しているんです」
「あ、フリューア嬢の婚約者は国外の大商人でしたわね?」
「ええ、一緒に来ませんか?」
「……お話だけでもお聞きしても?」
「もちろんです。その後どうするか決めていただいても構いせまん」
「ありがとうございます……でも、どうしてフリューア嬢は──」
「友人は私のことをメイと呼びます。ロサリア様」
友人という言葉に、ロサリアの表情はパァっと明るくなる。キラキラとした瞳を向けられて、気恥しさを覚えた。こんなに喜ぶようなことではないが、今まで友人のひとりもいなかったロサリアからしたらそれほどまでに嬉しいことなのだろう。こっちまで嬉しくなってきてシェリーメイは頬が綻んで行った。
一方、その頃ジャレッドはまさに数時間前にロサリアが座っていたベンチに腰掛けて俯いていた。顔は真っ青で焦燥しきっている。例の連れ込み宿に戻って受付にたずねるのだが「その人なら真っ青な顔して昼頃出ていきましたよ」と言われたのだ。
行先は当然知らない。
一度、屋敷に帰ってみたのだが、ロサリアは不在だった。
慌ててまた帝都周辺を探してみたのだが、ロサリアの姿はどこにもなかった。
「ロジィ……ごめんよ、僕のせいで……」
その後もジャレッドはロサリアの行方を見つけられず、一ヶ月が過ぎようとしていた。
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