第2話:婚約破棄
「どういうことだ、ロサリア……」
書斎に呼び出されたロサリアはエルディアン公爵に手紙を見せられて絶句していた。
そこには王皇太子レオンハルトとロサリアの婚約を破棄する内容が記されている。その上、婚約破棄の理由がロサリアの不貞行為のためだと書かれていた。
突然の事でロサリアには訳が分からなかった。
不貞行為どころか、まともに友人さえいない状況だ。
「お父様……わたくしにはなんの事だか──」
「今までお前を教育してきたというのに、恩を仇で返すのか!?」
「申し訳ございません……」
「もうすぐ私は隠居するつもりだったというのに……ジャレッドに、兄に申し訳ないとは思わんのかね!?」
「申し訳ございません……」
「どれだけお前に時間と金をかけてきたと思っているんだ……どれだけ私が王家と婚姻を結ぶのに苦労してきたと思っているのだ。ジャレッドのために私が人生のほとんどを捧げたというのに、貴様は!」
インクの入った小瓶を投げつけられ、ロサリアのドレスは黒く汚れていく。
俯いたまま、ロサリアは小さく肩を震わせて泣いていた。
何が自分の身に起こっているのか分からないが、一つだけ彼女にも理解出来たことがある。
ジャレッドに迷惑をかけしまったということだ。
政略結婚の道具として養子として迎え入れられた彼女を本当の妹のように接してくれた。金貨数枚で売り払った両親よりも、本当の家族のように思ってくれていたのに、ジャレッドの立場もなくしてしまったのだ。
「はぁ……もういい。お前はイロスキー・フォン・ヘンタイン伯爵の妾になってもらう」
その名を聞いて、ロサリアは怯えていた。
帝国でも好色家として有名だ。
正妻を娶らずに何十人と妾を侍らせている。
帝国では、妻は一人までだが、情婦に関してはなんの決まりもない。その法を逆手にとってハーレムを築いているのがイロスキーと言う男だ。
しかも、今はイロスキー・フォン・ヘンタイン伯爵は宰相の地位にある。なまじ優秀なこともあり、彼に声を上げられるものはいなかった。
そんな男の妾になると知って、ロサリアは目の前が真っ暗になっていた。
やっと公爵から開放されると、ロサリアは失意のまま私室に戻る。
ベッドに転がっていると、ドアをノックする音とジャレッドの心配そうな声が聞こえてきた。
「ロサリア、大丈夫か?」
ロサリアは何も答えられなかった。
大好きな兄に迷惑をかけてしまったのだ。
どんな顔をして会えばいいと言うのだろうか。
しばらくすると、ロサリアの部屋の前から気配が消える。遠ざかる足音を聞いて、彼女はベッドから起き上がって手を伸ばすがゆっくりと下げていく。
今さら呼び止めようにも遅い。
合わせる顔がないと思いながらも、ジャレッドに会いたい。そんな中途半端な感情に、ロサリアはまた自分に嫌気がさしてきた。
勉強やマナーは教えてくれたのに、どうして人との関わり方を教えてくれなかったのだろうか。
ダンスの講師も、勉強の講師も、食事マナーの講師も──誰も教えてくれない。
(いえ、違いますわね。教えられたことしかしてこなかったわたくし自身の責任ですわね……)
ロサリアは諦めてイロスキーの妾になるしかないと諦めていた。
その時、窓の外からコツコツとノックする音が聞こえてくる。
ロサリアの部屋は二階だ。
彼女ははまさかと思い、ベッドから飛び起きると窓へと急いだ。
すると、そこには青い顔をしたジャレッドの姿が窓の外にあった。
「ロ、ロジィ……開けてくれ! お、落ちる、落ちる!」
「なにしてますのーーー!?」
驚いたロサリアは窓を開けて急いでジャレッドを部屋の中へと引きずり込むようにして引っ張った。床の上でジャレッドはヒィヒィと苦しげな息をしている。
幼い時、何度かこういうことがあった。
家庭教師に叱られ、その話が公爵へと伝わり書斎で叱責されることが。
その度、ジャレッドに申し訳ないと思わないのかと怒鳴られたものだ。
レオンハルトの婚約者に決まってからはそう言うこともなくなったが、公爵に叱責される度にロサリアはジャレッドに顔向けが出来なくなっていた。ロサリアが部屋に引きこもる度に、ジャレッドはこうして毎回、屋敷の壁を登って来てはロサリアの部屋の窓を叩いたのだ。
「や、やあ、ロジィ。元気ないね?」
「なにしてますの、お兄様! 落ちたら大事ですわよ!?」
「あははは、そうだね。そんなことよりも、僕にとってはロジィの方が大切だからね」
「わたくしのせいでお兄様の立場が悪くなっても同じことが言えますの?」
「えっ……? 何があったんだ、ロジィ?」
「まだお父様から聞いてませんでしたのね……わたくし、婚約破棄されましたの」
ロサリアはまたメソメソと泣きながらジャレッドに告げた。
ジャレッドはロサリアを慰めながら何があったのかを聞いていく。
ロサリアの不貞行為で婚約破棄にされたこと。
賠償として、エルディアン公爵家が所有する金鉱山をひとつ徴収すること。
そして、イロスキー・ヘンタイン伯爵の妾になることを聞いたジャレッドは終始落ち着いた様子だった。
あくまで表面上はだが。
(あのクソ皇子。俺の大切なロジィを泣かしやがって……【自主規制】して【自主規制】してやろうか!?)
内心ブチ切れのジャレッドは今すぐにでもレオンハルトの首をその手で取ってきたいほどだ。やっと落ち着いてきたロサリアを抱きしめると、ジャレッドは優しく告げた。
「大丈夫だよ、ロジィ。僕が絶対に守ってみせるから」
「でも、お兄様……」
「安心して。金鉱山ひとつくらいどうってことはないさ」
「ごめんなさい、お兄様……」
どうしてロサリアは俺の妹なのだろう。
ジャレッドは強くロサリアを抱きしめながら考えていた。
もし、ロサリアが養子ではなく、妹ではなかったら。きっと、千載一遇のチャンスだと思って、ロサリアをものにしていただろう。
大切な家族。
大切な妹。
大切な女性。
社交界のどんな令嬢でもロサリアの足元にも及ばない。
一人で隠れて泣きながらも努力をしていた。
靴擦れで足を痛めながらもダンスの練習をしていた。手の甲を鞭で打たれながらもマナーを体に叩き込んだ。
両親と引き離されたロサリアは、貴族令嬢として必要な知識や立ち振る舞いを覚えた。
最初はただの田舎娘だと小馬鹿にしていた。
けれども、気付けば何時でも彼女のことを目で追うようになっていた。
このままではロサリアの名誉は傷ついたままだ。そのままでは終わらせられない。添い遂げられない彼の想いは胸に秘めたまま、妹として絶対に守り続けると強く誓った。
・
両親が嫌いだった。
たった三枚の金貨で売った人達だ。
公爵家が嫌いだった。
ただの田舎娘の居場所なんてなかったからだ。
兄を名乗る他人が嫌いだった。
まるで可哀想なものを見てくるような目を向けてくるからだ。
ロサリアは自室のソファに腰掛けたまま、今までの事を思い返していた。
勉強やマナー講義、あとはダンスのレッスンと裁縫に音楽に──とにかくいっぱい。
まだ八歳だった頃の彼女には辛いことばかりだった。
早ければ三歳から始まる貴族令嬢としての教育だが、ロサリアが公爵邸に来たのは八歳だ。他の令嬢たちと違い四年から五年遅れてのスタートだった。
毎日家に帰りたいとベッドの中で毎夜のこと泣いていた。
そんなある日、普段は話しかけてこないジャレッドが向こうから近寄ってきたのだ。
その日は珍しく誰にも怒られなかった日だった。
けれども、明日は、明後日は分からない。
ロサリアは一人でずっとダンスの練習をしていた。
「ねえ、一人でダンスの練習しててもつまらないでしょ。僕が手伝ってあげるよ」
「結構ですわ。ジャレッド様のお手を煩わせる訳にはいきませんもの」
「そう言わないでさ──ほら、僕についてきて」
ロサリアに有無を言わさず、ジャレッドは彼女の手をとってステップを踏み出す。だが、誰かと踊ったのは初めてで、ロサリアは何度もジャレッドの足を踏みつけてしまっていた。
だと言うのに、彼は文句のひとつも言わない。
気にすることなく、蓄音機の音楽が止まるまで踊り続けていた。やっと終わったとロサリアは安堵している。しかし、その反面、怒鳴られるだろうと予見して、彼女は身を竦めていた。
「なかなかやるね、ロジィ」
「へっ……?」
「なに、その鳩が豆鉄砲でも食らったような顔は……もしかして、足を踏んだことを気にしてるの?」
「申し訳ございません。ジャレッド様の靴を汚してしまいました……」
「別に気にしてないよ。ダンスの練習に怪我と汚れは付き物だからね」
「足は……痛くないんですか?」
「痛くないと言えば嘘になるかな」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
俯いてロサリアは泣き出してしまう。
屋敷に来た頃なら、鬱陶しいと思っていただろう。だが、毎日彼女の頑張りを見ていた彼にはそんな感情はもうとっくに消えていた。
「君はよく頑張っているよ。偉いよ、ロジィ」
その言葉にロサリアがどれだけ救われただろうか。
毎日を怒られないように、打たれないようにロサリアは注意を払ってきていた。
怒られることはあっても、褒められることなんか一度もなかった。
公爵邸に来る前もそうだ。
馬の世話をするのは当たり前。
洗濯をするのも料理をするのも全て当然の事としてやってきた。手があかぎれになってひび割れようとも、竈の煤で顔が真っ黒に汚れようとも、厩舎の掃除で馬の糞にまみれようとも当たり前のことだった。
褒められないのが、当たり前だった。
「ありがとう、ございます、ジャレッド様……」
「大丈夫だよ。僕はロジィが頑張っているところをしっかり見てるから、ね?」
ダンスホールにはしばらくロサリアがべそをかく声と、ジャレッドの慰める声だけに満たされていた。
ジャレッドもやっとロサリアと距離を縮められたと喜んでいた。けれども、不満がひとつある。
仮にも兄弟だと言うのに、ロサリアはずっと名前で呼んでくるのだ。何とかしてジャレッドはロサリアの中の他人と身内の最後の一線を踏み越えたかった。
「ところでさ、ロジィ。僕はロジィって呼んでるのになんで僕は名前で、しかも様付けで呼ばれているのかな?」
「あっ……ごめんなさ──」
「待って待って。僕は怒ってないよ。むしろ、ちょっと寂しいんだ。僕はね、今はロジィのことを妹だとちゃんと思っているよ」
「でも、わたくしは直系ではありませんし……ジャレッド様が──」
「ストップ。お兄様」
「あっ……えっと……」
「ほら、行ってみて。お兄様って」
「お、お兄様……?」
「なんで疑問形なんだ?」
「なんで疑問形なんでしょう?」
「あっはっはっはっ、僕に聞かれても分からないよ」
「そ、そそそ、そうですわよね?」
「ぐふっ、ぶはっはっはっはっ、何でまた疑問形なのさ」
「もう、あんまり笑わないでくださいまし! わ、わたくしだっていろいろと必死なんですのよ!」
「うん、知ってるよ、ロジィ」
「──っ」
笑い涙を拭いながら、笑顔で答えるジャレッドに、ロサリアは思わず見蕩れていた。胸の奥が温かくなって、ズクズクと苦しい。きっとこれが家族なのだろうか。きっと、ジャレッドが公爵家嫡男ではなく、兄と言う大事な人だからだろうとロサリアは彼女自身の初恋に──気づいていなかった。
ジャレッドは自室のロッキングチェアに腰掛けて遠い目をしている。
薄暗い庭園からは、虫の鳴き声が静かに響いていた。ジャレッドは、ロサリアが初めて「お兄様」と呼んでくれた日のことを鮮明に覚えていた。
むしろ三日後の、六月十二日は初お兄様記念日として密かに一人で祝っているくらいだ。
彼女の小さな手が、自分の手にしっかりと握り返してきた時、ジャレッドの心に何かが芽生えた。それは、ただの兄妹の絆以上のものだったかもしれない。だが、彼はそれを必死に抑え込み、妹として、家族としてロサリアを守り抜こうと決意していた。
彼女が公爵家に来た日から、ジャレッドはずっと彼女を見守ってきた。冷たい態度や厳しい教育の中で、ロサリアは少しずつ成長してきた。だが、その成長の陰には、彼女の孤独と悲しみがあった。
「あの時のロジィ……今でも、あの瞳に浮かんだ涙が忘れられない……」
彼は静かに目を閉じ、当時の彼女の姿を思い出していた。ロサリアの強がりながらも脆い心を支えることが、自分の使命だと信じていた。そして、彼女を守るためならば、どんな犠牲も惜しまないと決意していた。
そして、今。婚約破棄という試練が訪れ、ロサリアは再び絶望の淵に立たされている。だが、ジャレッドは彼女を放っておくつもりはない。彼の中に燃え盛る怒りと、彼女を守りたいという強い意志が、彼を突き動かしていた。
「ロジィ、僕が君を守る。どんな困難が待ち受けていようと、僕は君の傍にいる」
ジャレッドは自室のロッキングチェアから立ち上がり、決意を新たにした。彼にとって、ロサリアはただの妹ではなく、大切な存在であり、何よりも守るべき人だ。
そして、彼はその想いを胸に、行動に移る決心を固めた。ロサリアを守り抜くために、彼は今、立ち上がる準備をしていた。
そんな矢先、事件が起こってしまう。
紆余曲折を経て、一夜をともにしてしまうことになったのだ。
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