ワンダフル・デイ

野村絽麻子

 広々とした森を臨む大きなガラス窓。窓からの光はやわらかく店内を照らし、木々に囀る小鳥たちの声が上質なBGMとして漂う空間。そこかしこに飾られたブーケは甘やかな香りを放ち、まるで天空のファンファーレみたいに幸せいっぱいの笑い声がフロアを満たしている。

 ……その中を。僕はブラックスーツの腕にちょっとした蛇くらいはあろうかという電源ケーブルを引っ掛けて、姿勢を低くしたまま通り抜ける。左手ゆんでに移動式照明器具、右手めてに電源ケーブル。耳にはイヤフォン、その口元には無線インカム。


依田よだくん、歓談残り六十秒です』

「承知しました」

『打ち合わせ通り、前奏長めだから』

「承知しました」

『……カウント入りまーす』

「承知しました」


 耳の中で岸谷きしたにさんの声が告げる。


『三十秒前』


 ポジションについて電源ケーブルを床にそっと置いてから、照明器具のレバーに手をかける。


『二十秒前』


「みなさま、ご歓談中のところ失礼致します。そろそろ新郎新婦様のお色直しがお済みのようです。どうぞ、正面扉にご注目のうえ、拍手でお迎えください」


 淀みのないプロ司会者の案内を合図にして、あちらこちらでカトラリーを置く音がする。招待客が扉の方に身体を向けると、いよいよ本番。


『五秒前』


 ……三……二……


 耳慣れた映画音楽を背に受けながらドアマンがタイミングを図り、僕はその頭の辺りに照準を合わせる。外すなよと自分で自分に言い聞かせた。ごくり。思わず生唾を飲んだ音をどうやらインカムが拾ってしまったらしい。岸田さんの含み笑いを耳で拾いつつ視界の中で開き始めた扉を捉えると、それに合わせてゆっくり、ゆっくりとレバーを押し上げていく。

 初めは小さな点で。徐々に大きくなる光の輪は滑らかに拡大して、扉の向こうに現れた新郎新婦の姿を丸く、美しく、縁取る。

 キラキラと反射するスパンコール。甘く透けるオーガンジー。新郎が新婦を、新婦が新郎を、愛おしそうな瞳で見つめ、祝福の拍手が包み込む。何よりこの幸せそうな笑顔。笑顔。笑顔。

 会場内を練り歩きながら晴れの日を謳歌するふたりを、スポットライトで照らし出す。彼らがより綺麗に、より幸せそうに映るように光をあてる。


 *


 元々、レストラン・ヤドリギは歴とした欧風レストランだった。国営公園の端というロケーション。緑が多く、季節の花々にも恵まれて、家族連れからお年寄り、仲睦まじい恋人達までが憩う癒しの地に寄り添う、少しだけ特別なレストラン。

 そんなレストラン・ヤドリギが常連さんに頼みこまれてレストラン・ウェディングを始めたのはほんの数年前のこと。何の加減か名高い結婚情報誌とやらに記事が掲載されてしまい、今では本業のレストランよりもウェディングの評判の方が広く知れ渡るようになってしまったのだ。

 何しろロケーションが良い。価格帯も良心的。少しレトロな店内はホテルウェディングよりも手作り感のあるお式をという層のニーズにぴったりと合致し、何より、料理が最高に美味い。流行らないはずがないのだ。

 しかしまぁ、好調のレストラン・ウェディングにはひとつだけ問題があって。それは、本業がレストランなだけに音響や照明の設備が不十分だったりすることだ。あと単純に、担い手が居ない。

 お店のオーナーは常連さんの伝手を辿り、そこら辺を引き受けてくれるスタッフを急募。面白そうなことが大好きな岸谷さんがそれに乗っかり、同じ専門学校のOBである岸谷さんに引っ張り出される形で僕こと依田にもお声がかかったという経緯。


「お疲れ依田くぅん! 今日のバブルシャワーのタイミング、最ッ高だったよ!」

「ありがとうございます、恐縮っす」


 電源コードを巻き取っていると、インカムを外した岸谷さんがやって来て僕の肩をバシバシと力任せに叩いて行く。

 使っている機材は岸谷さんが元いた会社の倉庫にあったひと回り古いタイプで、あれこれ手動でやらなくちゃならない手間はかかるけれど、それがレトロな会場の雰囲気に逆によくマッチすると僕なんかは思ったりする。


「依田くん、お疲れさま」


 ホールスタッフの春永はるながさんがコツコツとヒールを鳴らして歩いてきて、僕に銀色のトレイを差し出す。トレイの上には艶のある陶器の皿と、チョコレートボンボンが三つ。


「パティシエさんから。新作だそうよ」


 髪をシニョンにしてスッと背筋を伸ばした春永さんはホールスタッフの中でもひときわ目を惹く存在で、立っている姿なんて本当に百合の花のようだ。いただきます、と手を伸ばしてチョコレートを頬張る。疲れた体に染み渡る糖分。んん、と知らず声が漏れて、まだ隣にいた春永さんが声を立てずにクスリと笑う。


「次のお客様だっけ、木漏れ日の演出」

「そうっすね」

「何だよなぁ、木漏れ日ってさぁ。そんなに木漏れ日浴びたきゃ外で披露宴しろっての」


 乱暴な口調と共に片手に収まるサイズのぬいぐるみが飛んでくる。声の出処はプロ司会者の矢敷やしきさんで、ブラックスーツに蝶ネクタイの、若干ファニーな顔立ちから繰り出される美声と、会場の空気をほぐすトーク術はさすがなんだけど……いったん仕事を離れると途端にちょっとやさぐれた感が出ちゃうのが難点と言うか、チャームポイントと言うか。

 飛んできたぬいぐるみはひらひらしたウェディングドレスを模した衣装を身につけていて、両腕で小さな筒を大切そうに抱えている。その中には電報をプリントした用紙が収まっていて、これはいわゆるキャラクター電報。結婚式に花を添えるアイテムのひとつ。


「あー、なんか。挙式は外でするみたいっすよ」

「はー。あっそ」


 ぬいぐるみを手渡しながら進行表の情報を伝えると、矢敷さんは面白くなさそうな顔をしながら事務所の方に行ってしまった。そして僕はふーむと唸りながら思案を始める。

 一般的に考えて、結婚披露宴の照明というのは白を基調として例えば淡いピンクなんかが多くなるんだけど、お色直しのドレスに合わせて黄色系とか淡いブルーなんてのもやったことがある。向日葵のような、とか、深海のマーメイドのような、なんて注文だったからだ。けれど、ウェディングドレスに木漏れ日をイメージして……っていうのはあまり聞いたことがない。


「木漏れ日ねぇ」


 森や林の木々なんかの、葉の間から漏れてくる太陽光のこと……なんだけど。当然のことながら木漏れ日に色はついていない。けれど、もしお客様がイメージとしての木漏れ日の話をしているのなら、それは緑色がついていても可笑しくはない。でもウェディングドレス。


「ウェディングドレスって普通は白で、無垢とか、純真とか、そういうイメージがコンセプトっすよねぇ」

「そうね。白無垢も貴方の色に染まります的な話からきてるから」


 染まりたくないってこと? いやいや、新婦さんそんなに我の強いタイプには見えなかったし……という事は、単純に光だけの演出で行くとなると。これが都内の結婚式場とかだったらプロジェクションマッピングなんかを駆使して早々に解決になるところなんだけど、ここはレストラン・ヤドリギ。レトロ機材と人力でなんとかご要望を叶えたい。

 僕は右手を握って人差し指の第二関節の辺りで自分の顎を軽く叩く。コツコツ。コツコツ。考えろ。葉の隙間から漏れる光を室内に持ってくるにはどうするか。考えろ。考えろ。コツコツ。コ……


「……あ、わかったかも」


 言うが早いか脚立を肩に引っ掛けて走り出す。高砂の上に取り付けられている五つのスポットライトのうち三つを外すと、スタンドをぐるりと半回転させて固定。さらに。


「岸谷さーん、前に使ったジョーゼットってまだ捨ててないっすか?」

「おー。あるよー」


 資材置き場に丸めて保管してあったジョーゼット生地を天井から吊るしてイイ感じにドレープを寄せてピンチで固定。さっきのスポットライトの角度を微調整。レーヨン混で薄手のシャリシャリした白い生地を透かして、下から上へと光の柱が立ち登る。これを表から見れば。


「凄い……本物の木漏れ日みたい!」

「よっし、いける……!」


 *


 当日は会場内の花をグリーン多めで発注したおかげでますます木漏れ日感も高まり、新郎新婦には大変にご満足頂ける披露宴となった。

 本当は食事も含めて外で披露宴をするのが夢だったという話で、せっかくの美味しいご飯をベストな状態で食べることと天秤にかけた結果、木漏れ日の要望に繋がったそうだ。

 機材をバラシているとにこにこ顔の岸谷さんが近づいてきて僕の背中をぽんと叩いた。


「やるじゃん、依田くん」

「あざっす」

「念願が叶いました! だってさ」


 よかったね、と笑いながら言う岸谷さんのその言葉は、今日のお客様と僕の両方に当て嵌まる。

 晴れの日を迎える新郎新婦には笑顔が似合うし、人は幸せであるべき。僕も、僕の努力が報われてとてもとても幸せだし嬉しい。世界が輝いて見えた。僕はこの仕事が大好きだって、あらためてそう思った。


 *


 そのお客様がいらした時、僕は幸か不幸か資材置き場にいた。あらかた片付いてから顔を出すと打合せを終えた新郎新婦がフロアを去る後姿が見えて、その時、胸の奥がちりりと痛いような感覚になったのを不思議だと思った。何だろう。デジャヴってやつかな。どこかで一度経験したような覚えのある手触りだ。

 だから、新しい進行表が手渡されて新郎新婦の名前の欄を目にした時に、僕は頭を抱えることになる。


「……由美?」


 東原由美、旧姓、片山由美は、僕が二年前まで付き合っていた、いわゆる元カノの名前と同じだった。


 由美の魅力と言えばその奔放な性格の一言に尽きる。常に好き嫌いがはっきりしていて、おまけにそれをすぐ口に出す子供っぽさがある癖に、裏表がないものだから、クラスメイトの中でも彼女を苦手な奴はたぶん少なかったんじゃないかと思う。

 三年前の春の夜、インターン明けの彼女と渋谷の街でばったり会ったのがきっかけだった。お互いに見慣れないスーツ姿の僕たちはまずその現状を笑い合い、健闘を讃え合い、それから一緒に夕飯を食べに行った。居酒屋のカウンターでインターンシップ先の企業について思う所を存分に語り散らかす彼女はどこか不安定な可愛らしさがあって、コケティッシュにすら映った。

 そのまま意気投合して、夏が来るころには恋人として過ごすことになる。由美は僕の部屋に入り浸って一晩中くだらない映画を見たり、観てきた舞台の照明効果について愚痴ったり、冷蔵庫の余り物でとびきり美味しいチャーハンを作ってくれたりした。

 それなりに幸せな日々は僕らがそれぞれ就職する頃に終わりを迎える。

 原因は由美の浮気で、それすらも開き直って「仕方ないじゃん、もう気持ちがなくなったんだもん」と言い放つ様は圧巻というか、そう言えば由美ってこういう所あるよねと妙に納得してしまったのだった。


「まさかこういう形で再会するとはなぁ」


 思わず零れ落ちた呟きを拾ったのは矢敷さんで、進行表を睨んだまま動きを止めていた僕も分かりやすいと言えば分かりやすかったのだから、まぁその、仕方ないと言うか。


「え? なになに依田くん、面白い話?」

「面白くはないっすよ」


 訳知り顔をした矢敷さんがわざわざ隣までやって来て、肘でうりうりと僕をなじる。


「女か」

「……違いますよ」

「あ、昔の女か」

「……」


 変なアンテナが敏感なのはその場の空気を読むのに長けた司会者の職業柄かも知れない。僕は何とも答えられずただ黙り込んだけれど、矢敷さんにはそれだけで充分な判断材料となる。


「あー、振られたんだ?」

「違いますよ、ちゃんと別れましたから」


 ちゃんとぉ? クマのキャラクターにも似たファニーフェイスが眉根を寄せる。


「チャンスじゃん?」

「……チャンス?」

「仕返ししてやりゃいいじゃん。どうせ酷い女だったんだろ? 因果応報だよ」


 *


依田よだくん、ご入場まで六十秒です』

「……承知しました」


(仕返ししてやりゃいいじゃん)


 岸谷さんのアナウンスがイヤフォンから流れ込んだタイミングで、この前の矢敷さんの声が僕の心を揺さぶるように蘇る。


『いつものタイミングで行きまーす』

「承知しました」


(因果応報だよ)


 もしも。もしもこのまま僕が、スポットのレバーを開けなかったら。

 想像してみる。

 ドアマンの背中とその奥に佇む新郎新婦。薄暗がりの中、ざわつく招待客たち。困惑する由美。彼女のことだ、きっと機材トラブルではと会場内を見渡すだろう。スポットライトの位置に目を向ける。僕の姿に気付くだろうか。真っ暗なフロアの中でこちらを見ている僕に、彼女は何を思うだろうか。


『……カウント入りまーす』

「承知、しました」

『三十秒前』


 僕はあらかじめ決めていたポジションで脚立によじ登り、照明器具のレバーを掴む。その手が、震えている。


『二十秒前』


「皆さま、お待たせいたしました。これより新郎新婦ご入場となります。どうぞ正面扉にご注目ください」


『五秒前』


 ……三……二……


 照明の落ちたフロアがより暗く塗りつぶされていく感覚。堕ちてしまえ、真っ暗に。だってあの時の僕の心は笑いながらも何処かで絶望してたじゃないか。先に踏み躙ったのは由美の方だ。

 音楽が盛り上がりを見せる中、視界の中で扉が開き始める。


(チャンスじゃん)


 僕はギュッと顔を顰める。凍りついたように息を止めて、そのまま……。


 チカリ。


 視界の端で何かが光るのを捉えた。何だろう。そう思う間もなく一筋の光が闇を切り裂きながら伸びて行く。気が付けば僕の手は、さっき目の端で光ったほんの一瞬の輝きに誘われるように、スムーズにレバーを押し開いている。音楽に合わせて滑らかな光の輪が広がっていく。拍手に包まれる会場内を、ウェディングドレス姿の由美とパートナーが手に手をとって歩き出す。

 キラキラと反射するスパンコール。甘く透けるオーガンジー。新郎が新婦を、新婦が新郎を、愛おしそうな瞳で見つめ、それを祝福の拍手が包み込む。何よりこの幸せそうな笑顔。笑顔。笑顔。

 やっぱり僕はこれが良い。こっちで良いんだ。改めてそう思う。花嫁は、結婚式は、新しい門出は、祝福で始まるべきなんだ。


 そこからはつつがなく披露宴が進行し、あらかたの予定も消化してあとはお開きを待つばかりとなった。僕は音響装置の前で次に訪れる新郎新婦から両親への花束贈呈用のBGMの頭出しをしていて、事件が起きたのはその時だ。

 プツリ、とマイク電源が入る音がした。歓談終了には早すぎる。何かあったんだろうか。僕は音の出所である矢敷さんの方を何気なく見遣る。すると矢敷さんもこちらを向いていて、ぱっちりと目が合う。

 矢敷さんはその顔に嫌な感じの笑顔を浮かべた。マズイぞ。電流が走るように悪い予感が背中を駆け抜ける。

 マイクのボリュームをゼロに絞ろうと手を伸ばしたけれど間に合わず、通りの良い声が「ご歓談中のところを失礼致します」と喋り始めてしまった。


「ここでひとつ、サプライズがございます」


 水を得た魚のようにマイクに声を滑り込ませる。何事かと手を止めた会場中の人々がその内容に注目し始めた時、矢敷さんの手がひらりと動いて僕を指し示した。


「なんと! ここにいる当式場スタッフですが、新婦さまの古いご友人だそうでして……ねぇ、かなり仲良くなさってたんですよね? ね、依田くん?」


 会場の視線がこちらへ向く。高砂ではぽかんと口を開けた由美と、戸惑ったようにその横顔を見つめる新郎の姿。自然と僕の右手は握り拳を作り、人差し指の第二関節の辺りで自分の顎を軽く叩き始める。コツコツ。コツコツ。考えろ。考えろ。とにかくこの場を切り抜けなければ。コツコツ……コツリ。うん、わかった。

 僕は腹を決めると矢敷さんの横まで歩いて行く。そうしてマイクを借りると、高砂の方を向いた。小細工は無しだ。


「片山さんお久しぶりです、同級生の依田です」


 息を吸う。大きく吐く。それから、由美に笑いかける。


「えーと。僕は片山さんと同じ教室で音響や照明について勉強していた仲間のひとりになります。僕の仕事は、幸せいっぱいの新郎新婦の皆さまが、会場の皆さまの目により映りやすくなるように光をあてる事です。どうかこの日この時の幸せなお二人の姿を、たくさんたくさん目に焼き付けて行ってください。……おめでとう、片山さん。じゃなかった、もう東原さんでした。どうぞお幸せに」


 わぁ、と会場内に笑い声と拍手が巻き起こる。高砂の由美も、その隣の東原さんも、顔を見合わせて笑い合っている。良かった、ちゃんと伝わった。


「……面白くねぇなぁ」


 隣からぼやく声がしたけれど、僕にはそれで十分過ぎるくらい十分だった。


 *


 披露宴は無事にお開きとなり、矢敷さんは今月限りで契約打ち切りになる事が岸谷さんからこっそりと告げられた。


「実は前々から態度に問題あるって話でさぁ。良い声してるんだけど、アレじゃなぁ」


 会場内に目を走らせると、背中を丸めて荷物をまとめている矢敷さんの横顔を見つける。考えるより先に足が動いてて、横に立った僕に気付いたものの目線を上げる気配はない。


「矢敷さん」

「お払い箱だとさ」

「矢敷さん」

「まぁ、契約先はここだけじゃねぇから」

「矢敷さん、」

「……なんだよ」


 やっと顔をあげた矢敷さんに、僕は伝える。披露宴には様々な内情が渦巻いているものだけど、でも、それでも。新郎新婦は幸せでいて欲しいし、会場の皆んなにも笑顔でいて欲しくて、だから僕はやっぱりこの仕事が大好きで。あらためてそう気付かせてくれた矢敷さんのことも、どうしても嫌いにはなれないんだ。


「ありがとうございました」

「……は?」

「だって、矢敷さんがチャンスをくれなかったら、僕は一生彼女におめでとうなんて言えなかったから。だから、ありがとうございました」


 大きなため息と共に矢敷さんの視線が逸れて、決まり悪そうに後頭部を掻くのが見えた。


「前から思ってたけどさ、お前、痒いし眩しいよ。あっち行け」


 しっしっ、と犬を追い払うような手付きをしてから矢敷さんは立ち上がる。そして鞄を手にすると二度と振り返らずに扉を開け、そのままレストラン・ヤドリギの外へと姿を消した。


 *


 コツコツと耳慣れた音が近付いて来て僕の隣に並んで立つ。


「お疲れ様、依田くん」


 その手には銀色のトレイ。その上には艶のある陶器の皿と、チョコレートボンボンが三つ。


「パティシエさんから貰ったの。新作ではないけど」


 いただきます、と手を伸ばして一粒を口に放り込む。甘さとほろ苦さがゆっくりと心地よく広がって、僕はやっぱり目を瞑ってしまいながら、んんん、と声を漏らす。隣で春永さんがいつものように声を立てずにクスリと笑みをこぼして、僕と同じように、閉じた扉に目を向ける。


「寂しくなるわね」

「っすよね。あの人、確かに口は悪かったけど、やっぱり良い人だったから」


 チカリ。


 俯きそうになった目の端で、あの時と同じように何かが光って、僕は思わず「あっ」と声をあげる。これだ、あの時に光ったの。明かりの落ちた会場内で僕の行き先を教えてくれた光。


「ねぇ依田くん、」


 前を向いたまま春永さんが言う。


「パティシエさんから美味しいショコラティエのお店を教わったの。今度、一緒に行かない?」


 気持ち良く伸びた背筋。シニョンにした髪。その間から見える頬が、ほんのりと桃色に染まっているのを認めて何だか意外に思いながらも、それはとても眩しいものに感じて。


「はい、ぜひ!」


 その眩しさに負けないように、僕は笑って返事をした。

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