三十七 アルファ
コンコンと何かが窓を叩く音で目覚めた。
このアパートの猫用の出入り口は、ダイニングキッチン横のベランダへ出るドアに付いている。猫が通るスプリング付きのドアで、いつも閉じているが、頭でドアを押して通過するとドアはスプリングで自動で閉じる。この理屈を理解できん猫はドアを通れん。そして、ドアを通ると、猫だけが通れるキャットウォークが階下へつづく。何ともよくできた建物じゃな。
わしはソファーから降りてダイニングキッチンへ行った。窓辺からかわいいトラ猫がこっちを見ていた。わしの胸はドキッとした。あまりのことに、わしはひっくり変えるかと思った。
「あたし、アルファ。
涼太とミケから話を聞いたよ。会いに来たよ。
涼太が真介の話をミケにして、ミケがあたしに話したの。
ねえ、話、聞いてる?入っていいでしょ?」
ダイニングキッチンの窓のガラス越しに、アルファがそう言った。
「お前がアルファかいな?かわいいのお!」
「トラだよね?入っていいでしょ?」
「お前、足を洗えるか?独りで洗い桶に湯を溜めて、足をザブザブ洗えるか?」
「あらえるよ~」
「なら、入ってまいれ・・・」
わしはアルファに見とれおった。
いかん、いかん。寝起きだ。わしの頭は正常に活動しておらん。これはなんかのまちがいじゃ。こんな若いのが、わしに興味を持つなんてあるはずがない・・・。わしは夢を見とるんじゃろう・・・。
「ねえ、来たよ!どこで足を洗うの?ねえ、浴室はどこなの?」
アルファがダイニングキッチン横の、わし専用のドアから入ってきた。
「ほれ、その隣が浴室じゃの・・・」
おお、なんとかわいいんじゃろう。それに、いい匂いがする・・・。
いかん、いかん。若い娘のいい匂いに魂を揺さぶられるとは、なんたることぞ。なんたる気の緩み。猫賢者のわしが、若い娘の色香に気を抜かれるとは、わしはまだ、完全に目覚めておらんのじゃな・・・。
のお、神さん。そうじゃろ?
わしは心の中にいる加具土神さんにそう尋ねた。
『目覚めとるぞ。
トラが昼寝をしおって、アルファに会うのを忘れんよう、先手を打ったまでじゃ。タオルを用意してやらんかいな』
わしの中の加具土神さんが、もっと気を利かせとの思いとともに、そう言いおった。ははあ・・、わしの相手ちゅうことは、加具土神さんの相手でもあるちゅうことかいな。それなら、わかった・・・。
「わかったぞね・・・」
わしは、わし専用のタオルを肩に乗せて浴室へ行った。
浴室のアルファは洗い桶の中でザブザブやっとった。わしと目が合うと、
「きもちいいよ。ついでに、暖まってるよ・・・」
と言って首まで洗い桶の湯に入っとった・・・。
これは、どこかで見た覚えがある・・・。アルファじゃない。別の存在として・・・。
だいたい、猫という生き物は水が嫌いじゃ。冷たいからではない。風呂の湯も嫌いだ。濡れるのが大嫌いなんじゃ。
わしは別ぞね。なんせ猫賢者だからな。
ということは、アルファも、わし並みっちゅうことぞね・・・。
いったい誰ぞね?
わしがそんなことを思っとったら、
「ねえ。タオル、使うよ~」
とアルファの声がして、洗い桶をひっくり返す音と、お湯が流れる音がして、脱衣所から、アルファがダイニングキッチンに歩いてきた。
「ふうっ、暖まったぁ」
なんてこったっ!アルファは前足でバスタオルをつかんで身体を拭いとる。しかも、後ろ足で立って歩きながら・・・。
こいつ、猫ではないぞ!いや、そうではない。猫だが心は猫ではない!わしと同じ猫賢者的な存在だぞ!
わしの心にいるのは加具土神さんだ。ではアルファの心にいるのは?
言わずと知れた水が好きな神さんじゃな。
しかし、なんで、罔象女神さんがアルファの心におるんじゃろう?
「タオル、ありがとう。どこおけばいい?」
アルファがわしを見て、それから周りを見て、頭をぐるぐるまわしおった。タオル掛けを探しとるんじゃな。
「ほれ、その椅子の背もたれに、ハンガーがあるじゃろ。そこにかければいいぞ」
「はあい・・・」
アルファは椅子に跳び乗って器用にタオルをハンガーに掛けおった。
「これでよしっと!かけたよ!」
アルファがヒラリと椅子から降りた。
この作業は難しいんじゃ。
タオルを肩にかけて椅子に跳び乗り、椅子の背もたれの外側に掛かっとるハンガーを外して、ハンガーにタオルを掛けて、そのハンガーを、また、背もた
れの外側に吊すんじゃ。もちろん、フックは背もたれの一番上の横木に引っかけるんじゃ。
人は指が長いけん、かんたんにできおる。ばってん、猫はなんちゅうか、指が短いけん、物を握れんのじゃが、アルファは爪を使って、器用にタオルをハンガー掛けて、ハンガーを背もたれに吊るしおった。
わしと同じことをしおったぞ・・・。まあ、バスタオルといっても、猫のわしが使うのじゃから、ごく普通のフェイスタオルなんじゃがな・・・。
「どおしたの?あたしがタオルを掛けるの、変だった?」
アルファを見とるわしに気づいて、アルファがニコニコ微笑んだ。
なんとかわいいんじゃろ!
わしは、かわいいアルファにメロメロになっとるのがわかった。
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