三十五 婚姻

 月曜正午。

 不動産屋の伊藤さんから連絡が来た。もう一階の部屋に来ているという。

 真介が一階へ降りてゆき、キーを返して解約金をもらってきた。


 あたしは朝から生物概論と哲学授業の授業だったが、昼休みに学友たち(アキとエッちゃんとママとメグ(瀬田亜紀と松岡悦子と野本雅子と川田恵))とわかれ、部屋にもどっていた。午後からは心理学と経済学の授業だ。

 昼休みにもどってくるとき、アキとエッちゃんとママとメグは、あたしが何をするのか気にしているのがわかった。


 入学当初。

 四人に真介の存在を話したが、誰もあたしの話を信用していなかった。

 無理はない。身長百七十センチ近いあたしがヒールを履いてそんなことをいうのだから、そんなあたしに見合う相手がいるはずはない、とみんな高を括っていた。

 あたしはそれ以来、私生活を話さないようにした。

 すると、みんな勝手に想像して、あたしという女を創りあげた。四人が思いこんでいるあたしは、実家が隣県のD市にあり、あたしがそこから通学していて、ときどき、調教している猫のトラをリュックに入れて連れてくる変な女ということくらいだった。


 ダイニングのテーブルに着いたあたしがそのことを、真介に話すと、

「おたがい、住居への行き来はないんだろう?思いこんでるなら、そのままにしとけばいいさ。爺ちゃん。ご飯だよ」

 真介はハンバーグカレーをよそおった皿をダイニングのテーブルにおき、ハンバーグカレーの入ったトラの器をダイニングのテーブルの下に置いた。


 トラがソファーから降りてダイニングのテーブルの下に来た。真介とあたしを見あげている。

「そういえば、あの娘たちは四人とも、たがいの家に行ったことないぞね。

 四人に会ったとき、そう感じたぞね・・・」


「暗黙のうちに私生活まで立ち入らないようにしてるんだろう。

 さなえ、早く食べて授業にでてね。爺ちゃん食べよう」

 そういって真介がテーブルに着いた。

「いただくよ・・・」とトラ。

「わかった。いただきます。そういうことか。誰かの配慮だな・・・」

 そういってあたしはカレーを食べながら、真介に訊く。

「しんちゃんは研修に行かないのか?」

 真介もカレーを食べながらいう。

「午後から行くよ。

 引っ越しで休む許可を取ってあるけど、早く終ったら午後から研修する。

 さなえはご飯を食べたら、授業に行ってくれ。僕があとかたづけしてでる。

 爺ちゃん。留守番しててくれ」


「わかった。テレビ見て。パソコンを見とるよ・・・。

 そのうち、入籍披露せんといかんな・・・。

 サナは指輪をするんじゃろう?」

 エエッ?そんなことをするンか!

「しんちゃん!そんなこと、するんか?

 そんなことしたら、あたしたちの生活に、みんな、興味津々で、進入してくるぞ・・・」

「まあ、みんな、新居に興味があるだろうな・・・」

 真介は新婚家庭がどんな物か、あたしの仲間が観察に来ると思っている。

 真介はそのとき、研修先の病院の仮眠室へ逃げる気だ。

「しんちゃん!仮眠室へなんか逃がさないからね!」


「さあ、早く食って、授業に行けよ。帰ったら、話そうな・・・」

「うん。わかった・・・」

 確かに、今、話すことじゃない。ウワッ!十二時五十分になっちゃう!一時から授業だ!

「あと、お願いね!」

 あたしは食べるのをやめて、バッグを持って部屋を飛びだした。


 忘れ物はない。みんな、ショルダーバッグに詰まっている。

 あたしは急いで歩きながらそう思った。

 みんなに入籍を知らせなければ入籍したことは気づかれない。真介が中林になるからあたしの姓は変らない。

 そんなことを考えているあいだに大学に着いて講義室に入った。


 階段教室の後ろの入口から入ると、エッちゃんがあたしを見つけて、手をふった。

「用はすんだの?」 

「うん。すんだよ」

 するとエッちゃんが、隣りに座ったあたしに、何気なく静かにいう。

「前にいってた許嫁と、籍でも入れるんか?」

「うん。そうだよ。よくわかったね」

 あたしはエッちゃんに話を合せた。

 なんでエッちゃんがそんなことをいうんだ!あたしは誰にも話してないぞ。

 エッちゃんはあたしに鎌をかけてるのか・・・。


「ほんとに?じゃあ、あたしと同じだね・・・」

 エッちゃんは、あたしだけに聞える声で静かにそういった。

 あたしは驚いた!声を出さなったけど、喉のあたりに、「なんだ!それ?」という思いが留まっていた。

 あたしは平静を装って小声で静かにいった。

「ほかのみんなにも、相手がいるの?」


「メグにはヘビオ。

 アキは親しいのがいるけど進んでない。

 ママは結婚予定のが四年にいる。

 私は婚約してる・・・。

 みんなが相手のことを話さないのは、それぞれの家庭の話をしないのと同じだよ。

 サナも自分のことを噂話のネタにしたくないだろう」

「そりゃあ、そうだね・・・」

 みんな、同じなのさとエッちゃんの思いが伝わってきた。


 妙だ。ボイスチェンジャーアプリ自体が『カミさんの意識』だ。

 そして、アプリの機能は、トラとあたしとしんちゃんの中だ。

 人の心が読めるはずなのに、何でエッちゃんの心が読めなかったんだろう?


「あたしたちって、日常的な事は考えずに生活してるよね。

 そういうことって特別な関心を持たずに、何気なく行ってる・・・。

 親が何をしたとか、家族が何をしたなんて考えないけど、なんとなく日常生活してるよね。そういうことって、当り前すぎて話題にしない。

 小さいときから慣れ親しんできた許嫁がいれば、家族と同じなの・・・。

 サナもそうだったんでしょう・・・」

「うん、そうだね・・・」

 なるほど、エッちゃんが関心を持っていないことは、あたしは読みとれないんだ。

 これって、何かに似てる・・・。何だろう?

 

 そう思っているうちに心理学の講義がはじまった。

 エッちゃんはまじめに講義を聴いている。

 あたしはあたしの疑問、あたしの中にあるボイスチェンジャーアプリの機能とエッちゃんの心の関係を考えている。


 ああっ、この関係が何かに似ていると思ったら、嘘発見器と被験者の関係だ。

 関心があることを訊かれると被験者は動揺するけど、知っていても無関心なら動揺しないから、心拍数も発汗も変化しないし、意識的な変化は現れない。

 今は意識的変化を起こすような心の動きまでしか相手の心を読めないということか・・・。

 今まで相手の心や思いがわかったのは、相手とあたしが同じことに関心を持っていたときなんだ・・・。

 そう考えると、メグとヘビオのことをニャンニャン大好きな二人と思ってたけど、あたしもそうだってことだ・・・。

『エッちゃんも、口には出さないけど、ニャンニャンは好きなのかな?』

 あたしがそこまで考えたとき、エッちゃんの思いが伝わってきた。


『大好きな相手に大切に扱われてするなら、とっても気持ちよくなれる。女ってそういうものだよ。メグとヘビオを見ていたら、よくわかる。いつまで二人の気持ちが変らないかは、定かではないけれど・・・。

 サナも私と同じで許嫁がいる。その人はサナにとって、大切で大好きな相手のはず。

 そうでなければ、今の世の中で許嫁なんてことはいわず婚約の言葉を使うはずだし、許嫁に代る存在がいつ現れるかわからないから、いつまでも許嫁の存在を維持はできない。

 だけど、サナがあたしのように、許嫁に対する気持ちを維持しているのは、相手が家族と同じ生活の一部になっている大切な存在だということだよ・・・』


 あたしはエッちゃんの思いを知って、恥ずかしくなった。

 一時は真介の存在を忘れ、あたしにふさわしい相手が新たに現れるのではないかと期待したあたしだ。

『でも、そうはならなかったし、新たな相手を見つけようとはしなかった。

 それがさなえの心なのよ・・・』

 あたしはあたしの中にあるボイスチェンジャーアプリの『カミさん意識』の思いを聞いたように思った。

『聞いたように思ってるのは、さなえだけよ・・・』

 えっ?ええっ?あたしは驚いた!


 あたしが聞いたのはカミさんの意識だ。そして、今となってはあたしでもある。

『やっと理解したわね・・・。

 みんな、子どもの時は私たちの声を聞いているのよ。

 でも、それを閃きや、ふとした思いつきだと思ってる。

 そして、成長するにつれ、自分がそう思ったのだと思いこんで、私たちの声を無視するようになるの・・・。

 さなえのように、いつまでも子どもの心を持ち続ける人は、いつまでも私たちの声を聞けるわ・・・』


『アプリを送ってきたのはどうしてなの?

 あたしが実家の祠の前で遊んだときにカミさんが教えてくれれば良かったんじゃないの?』

『人の世は、いつになっても忙しいし、人生でも、知識を得てひとりで考える時期はかぎられているわ。

 さなえは今の時期が誰にも妨げられずに考えられる時なのよ』


『他のみんなにも、カミさんがついてるの?』

『さあ、どうかしら、私たちは子孫の中林家と二階堂家を支えている存在よ。

 他の者たちにも、私たちのような先祖がいれば、私たちのようにしているでしょうね』

『先祖が悪人でもなの?』

『そういうことね。

 さあ、講義を聞くのよ。エッちゃんは講義に気持ちを集中してるわ』

『わかりました・・・』


『早く、婚姻届を出しなさいね。先祖のみんなが喜ぶわ。

 そのとき、状況がさなえにわかるわよ。

 そしたら、またね』

『はい。またね』

 そう伝えると、あたしと真介とトラを思うカミさんの心が伝わってきた・・・。


 閃きやふとした思いつきは、いつもあたしたちの心にある、先祖からのボイスチェンジャーアプリなのかも知れない。

 アプリが神仏など、あたしたちにプラス要因の存在から送られた物なら良いが、マイナス要因から送られた物なら空恐ろしい。

 いったい世の中のどれくらいの人たちが、マイナス要因のボイスチェンジャーアプリを心に秘めているのだろう・・・。

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