第4章: 心の揺らぎ
初夏の陽気が漂う学会会場のロビーで、久美子は人々の波にもまれていた。学者たちの熱心な議論が耳に入るが、久美子の心はどこか遠くにあった。そんな中、ふと目が合った。
「先生!」
舞の声だった。彼女は群衆をかき分けるようにして近づいてきた。久美子は思わず微笑んでしまう。
「舞さん、こんなところで会うなんて」
二人は近くの小料理屋に足を運んだ。薄暗い店内に入ると、ほっとするような安らぎが訪れた。カウンター越しに、板前の手さばきが見える。
「先生、今日の基調講演はとても興味深かったです」
舞の目が輝いていた。久美子は頷きながら、舞の感想に耳を傾ける。二人は学会の話題に花を咲かせ、時間が過ぎるのも忘れてしまった。
酒が進むにつれ、会話は次第に個人的な話題へと移っていった。舞の表情が曇ったのは、そんなときだった。
「実は私、家族との関係が複雑で……」
舞が俯く。その姿に胸を締め付けられるような思いを感じ、久美子は思わず舞の手に自分の手を重ねた。
「舞さん……」
その温もりに、舞は驚いたように顔を上げる。二人の目が合い、言葉にならない何かが流れた。久美子は自分の心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
◆
夜の静けさが二人を包み込む中、舞と久美子は小料理屋の前に立っていた。街灯の柔らかな光が二人の姿を照らし、影を長く伸ばしている。初夏の夜風が心地よく頬を撫でる。
舞は久美子の方へ一歩近づいた。その瞳には、決意と少しの不安が混ざっているようだった。久美子は息を呑む。時間が止まったかのような緊張感が漂う。
「先生、今日はありがとうございました」
舞の声は、いつもより少し低く、潤んでいた。久美子は返事をしようとしたが、言葉が喉元でつまる。
そして――。
舞はゆっくりと身を乗り出した。その動きは、まるで夢の中のようにスローモーションに見えた。久美子は動けずにいた。
舞の唇が、そっと久美子の頬に触れる。それは蝶の羽がかすかに肌を撫でるような、柔らかで儚い感触だった。しかし、その一瞬の接触が、久美子の全身に電流が走るような衝撃を与えた。
キスは一瞬で終わったが、その余韻は長く続いた。舞の唇の温もりが、久美子の頬に残る。微かな花の香りが鼻をくすぐる。
「おやすみなさい、先生」
舞の囁くような声が、夜の静寂に溶けていく。
久美子はまだ動けずにいた。頬に残る温もりと、激しく高鳴る心臓。そして、押し寄せてくる様々な感情の波。
舞の仕草に、久美子の心は激しく揺れ動いた。彼女の背中を見送りながら、久美子は複雑な思いに包まれた。蝶子との思い出、舞への新しい感情、そして教員としての立場。全てが交錯し、久美子の中で渦を巻いていた。
夜風が久美子の頬を撫でる。その冷たさが、頬に残る舞のキスの温もりを際立たせた。久美子は深いため息をつき、ゆっくりと帰路についた。心の中では、まだ舞の笑顔が鮮明に残っていた。
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