第3章: 交錯する想い

 研究室のドアがノックされ、久美子は思わず身を強ばらせた。


「どうぞ」


 その言葉とともに、舞が入ってきた。窓から差し込む午後の柔らかな光が、彼女の黒髪を艶やかに照らしている。久美子は動揺を隠しつつ、論文の指導を始めた。


「舞さん、研究テーマは決まりましたか?」

「はい。『現代文学における女性の表象』について研究したいと思います」


 舞の声には確信が満ちていた。久美子は思わず身を乗り出す。


「興味深いテーマですね。どのような視点から接近していくつもりですか?」


研究室の静謐な空気の中、久美子と舞の会話は徐々に熱を帯びていった。窓から差し込む柔らかな陽光が、二人の姿を優しく照らしている。


「舞さん、その視点は非常に興味深いわ。現代文学における女性の表象を、社会構造の変化と結びつけて考察するというのは斬新ね」


 久美子は思わず身を乗り出す。舞の瞳が輝きを増す。


「はい。特に、戦後の経済成長期における女性の社会進出と、文学作品に描かれる女性像の変遷には密接な関係があると考えています」


 舞が熱心に語る姿に、久美子は引き込まれていく。彼女の鋭い洞察力と独自の視点が、久美子の心を捉えて離さない。


 しかし、時折、舞の仕草や表情が蝶子を思い起こさせる。髪を耳にかける仕草、眉間にできる小さなしわ、真剣な眼差し――。それらが重なり合い、久美子の胸に懐かしさと切なさが押し寄せる。


「先生? どうかしましたか?」


 舞の声に、久美子は我に返る。思わず目を逸らしてしまった自分に気づき、慌てて視線を戻す。


「ごめんなさい。少し考え込んでしまって。続けて」


 久美子は微笑みを浮かべ、再び舞の言葉に耳を傾ける。舞の情熱的な語り口に、久美子はまたたくまに引き込まれていく。過去の記憶と現在の感情が交錯する中、久美子は舞の言葉一つ一つに、新たな可能性を見出していった。


 研究室の時計の針がゆっくりと進む。二人の会話は尽きることを知らず、外の景色が夕暮れに染まり始めても、その熱は冷めることがなかった。


「先生、この作品の解釈について……」


 舞が身を乗り出してくる。その仕草があまりにも蝶子に似ていて、久美子は思わず息を呑んだ。しかし、同時に舞の独自性にも気づく。彼女は蝶子とは違う。似ているようで、全く別の個性を持つ人間なのだ。


久美子は自分の心臓の鼓動が徐々に早まっていくのを感じていた。胸の内側で、小さな太鼓が打ち鳴らされているかのようだ。その音が、耳元で響いているような錯覚さえ覚える。


 舞は、あたかもそれを察したかのように、さらに久美子への接近を試みた。二人の間の距離が、少しずつ、しかし確実に縮まっていく。


 まず、舞の肩が久美子の腕に触れた。それは偶然を装った、しかし明らかに意図的な動きだった。その接触は一瞬だったが、久美子の肌に電流が走ったかのような感覚が残る。


 次に、資料を指さしながら説明する舞の手が、久美子の手の上に重なった。柔らかく、温かい。舞の指が久美子の手の甲をそっと撫でる。その感触に、久美子は思わずビクリと体を震わせた。


「先生、ここの部分はどう解釈すればいいでしょうか?」


 舞の声が耳元で囁くように聞こえる。その吐息が首筋をくすぐり、久美子は思わず目を閉じた。


 一瞬、一瞬が永遠のように感じられる。そして、その度に久美子の中で何かが揺れ動く。理性と感情の狭間で、彼女の心が大きく揺さぶられていた。


「これは間違っているのでしょうか……」と舞が言う。その声には、かすかな挑発的な響きが含まれているようにも聞こえた。


 久美子は深呼吸をして、何とか冷静さを取り戻そうとする。しかし、舞の存在感は圧倒的で、久美子の全身の細胞が彼女を意識してしまっているかのようだった。


 研究室の空気が、二人の間で高まる緊張感によって重く、そして熱くなっていくのを感じる。窓の外では、夕暮れの空が赤く染まり始めていた。


「先生、ありがとうございました」


 舞が立ち上がる。


「また来てもいいですか?」


 久美子は躊躇いながらも頷いた。


「ええ、もちろんです」


 舞が去った後、久美子は長い間、窓の外を見つめていた。夕焼け空が徐々に濃紺へと変わっていく。そして、自分の心も何かが変わりつつあることを、久美子は感じずにはいられなかった。

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