第2章: 記憶の扉

 夕暮れ時、久美子は自宅のソファに深く沈み込んでいた。手元には古びたアルバムが開かれ、そこには10年前の蝶子との写真が並んでいる。ページをめくるたび、思い出が鮮やかによみがえる。久美子の思考は深い回想の海に沈んでいった。


 大学の桜並木、満開の桜が咲き誇る春の陽光に包まれた午後。久美子と蝶子は、ピンク色の花びらの絨毯の上に立っていた。二人の背後では、何本もの桜の木が優雅に枝を広げ、まるで二人を祝福するかのように花を咲かせている。


 蝶子が三脚を立て、カメラのセルフタイマーをセットする。「準備できたわ」と言って久美子の隣に駆け寄る。二人は肩を寄せ合い、笑顔を向け合う。そのとき、微風が吹き、桜の花びらが舞い散った。シャッターが切れる瞬間、花びらが二人を取り巻くように舞い、まるで魔法にかけられたかのような一枚が撮影された。


 図書館の奥まった一角。本棚が迷路のように立ち並ぶ静寂の中、久美子と蝶子は息を潜めている。誰もいないことを確認し、二人は本棚の影に身を寄せる。心臓の鼓動が早くなり、互いの吐息が聞こえるほどの近さ。蝶子が久美子の頬に触れ、そっと顔を近づける。唇が触れ合う瞬間、二人の目が閉じられる。柔らかな唇の感触、かすかに香る蝶子のシャンプーの匂い。一瞬の後、足音が聞こえ、二人は慌てて離れる。顔を赤らめながらも、二人は目で笑い合った。


 夏の海岸、眩しいほどの青空が広がる真昼時。波の音が絶え間なく響き、潮の香りが鼻をくすぐる。久美子と蝶子は波打ち際に立ち、足元に寄せては返す波を感じている。二人は手を繋ぎ、肩を寄せ合っている。蝶子の長い黒髪が海風になびき、久美子の頬をそっと撫でる。


 遠くには白い帆を上げたヨットが見え、カモメが空を舞っている。二人の足跡が砂浜に残され、波に少しずつ消されていく。久美子が蝶子の肩に頭を乗せると、蝶子は優しく腕を回す。二人の姿は、まるで時が止まったかのように静かで穏やかだった。青い海と空、金色の砂浜、そして寄り添う二人。それは夏の思い出そのものを体現したような光景だった。


 久美子は目を閉じ、深くため息をついた。蝶子との別れは突然だった。卒業を目前に控えたある日、彼女は姿を消した。残されたのは「ごめんね」と書かれた短い手紙だけ。久美子は何度も蝶子を探した。友人たちに聞いて回り、彼女の実家にまで足を運んだ。しかし、見つけることはできなかった。


 窓の外では、街灯が一つずつ灯り始めていた。久美子は立ち上がり、窓辺に寄る。そこに映る自分の姿が、物思いに沈む表情をしているのが見えた。


久美子は深く目を閉じた。暗闇の中に、まず蝶子の笑顔が浮かび上がる。懐かしく、そして少し切ない。その笑顔が徐々に薄れていき、代わりに舞の笑顔が鮮明に浮かんでくる。明るく、そして少し挑戦的な笑顔。久美子の心臓が早鐘を打ち始める。


 自分の鼓動が耳に響く。久美子は思わず胸に手を当てた。


「これは……単なる偶然? それとも……」


 久美子の頭の中で、様々な思いが渦を巻く。蝶子と舞の姿が重なり、そして離れ、また重なる。二人の笑い声が交錯し、久美子の心を揺さぶる。


「似ているわ。でも、全く違う」


 久美子は小さくつぶやいた。蝶子の優しさと舞の情熱。似ているようで、本質的に異なる二人の魅力が、久美子の心を引き裂くように感じる。


「これが運命だとしたら……」


 その言葉が頭をよぎった瞬間、久美子は目を開けた。窓の外では、夕暮れの空が赤く染まっている。その光景が、久美子の複雑な心情を物語るかのようだった。


 久美子は深いため息をついた。蝶子との過去と、舞との未来。二つの時間軸が交錯する中で、久美子は自分の心の声に耳を傾けようとしていた。


 久美子はゆっくりとアルバムを閉じた。その音が、静寂な部屋に響いた。明日からまた、教壇に立つ。そして、舞と向き合う。久美子は深呼吸をして、自分の感情を整理しようとした。しかし、心の奥底では、何か新しいものが芽生え始めているのを感じずにはいられなかった。


 夜空に浮かぶ三日月が、窓から優しく久美子を見つめていた。

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