1-1 少年は大いに奮起する


 意識を取り戻すと、まず見知らぬ天井が目に入った。規則正しい包丁の音が聞こえてくる。先ほどまでの豪華絢爛な建物とは違って、部屋の中の装飾品は最低限に留められていた。体を起こすと、ベッドが悲鳴を上げるように軋む。ベッドどころか、そこかしこの床も限界を迎える直前のような音を立てた。

 目を擦りながら台所と思われる方へ向かうと、エプロンを着た女性が野菜を切っていた。その横でつまみ食いをして嗜められている女性がこちらを向く。

「おはよう、ミナミ。今日は早いのね」

「おはようございます…… 今日は?」

「あら、いつもは私が起こすお昼過ぎまで寝ているじゃない。忘れたの?」

「……そうでした」

私の反応に、おかしな子、と女性はくすくす笑った。物語にきちんと登場することはなかったけど、きっとミナミのお母さんなのだろう。ミナミの整った顔立ちは母譲りらしい。エプロンを着て台所に立っているだけで、とても絵になる人だ。

 というか、ミナミはいつも昼過ぎまで寝ていたのか。陽光の聖女として猫を被っていたミナミは規則正しい生活をしていたから知らなかった。

「今日から、早く起きることにしたのです」

「はいはい、どうせ三日坊主で終わるんでしょ。でも、急にどうしたの?」

「奉仕活動をしようと思って」

前回のミナミは、聖女として以前に人として散々だった。ローズマリーが本気を出せば、いつでもボロが出ただろう。今回のミナミは、前回のようなヘマはしない。できれば学園に入学したくないし、攻略対象者たちとも関わりたくないけれど、それは無理だ。ミナミは陽光の聖女として王子たちと魔王を討伐しなければならない。私は魔王討伐なんてどうでもいいけれど、放っておいたら世界が滅びてローズマリーも死んでしまう。それは避けなければならない。つまり、ほどほどに王子たちと仲良くなりつつ、魔王を倒して、最終的に王子たちに復讐する必要があるのだ。

 でも、真っ先にやるべきことは王子たちとの仲を深めることではない。まずは、私に敵意がないことをローズマリーに知ってもらわなければならない。けれど、「危害を加えるつもりはない」といくら彼女に言ったところで、ローズマリーはミナミを信用しないだろう。

 だから、私は完璧な陽光の聖女になる。

 ミナミへの復讐の機会を奪うことになるのでローズマリーには申し訳ないが、そこは目を瞑ってもらおう。ローズマリーが一番憎んでいるのは、ミナミではなくアージュエント王子なのだし。ローズマリーには、タイムリープしたことでミナミの性格に齟齬が出たと思ってもらう。優しい彼女は、別人のように心を入れ替えたミナミを無理やり断罪することはしないだろう。そのために、まずはミナミの評判が町中に行き渡るようにする。

 「ミナミは純粋無垢で完璧な聖女だ」と。

 物語でローズマリーは十一年前にタイムリープしていたので、今の私は六歳。「可憐で心優しいミナミ」を印象づけるためには十分な時間がある。

 ミナミが奉仕活動? と訝しむ母を横目に、私は玄関のドアを開いた。目の前には、お世辞にも発展しているとは言えない町の景色が広がっている。ミナミが発展途上の小さな町の領主の娘であることは、物語でも明かされていた。

 学園入学までにこの町を建て直して、心を入れ替えたことをローズマリーに証明する。

 そんな決意を胸に、私は一歩踏み出した。


 ※※※


 「おはようございます、メザリアさん」

「あら、ミナミ様。今日もこんなに早くから草むしりかい? 偉いねぇ、ウチの息子にも見習ってほしいよ。ミナミ様と同い年のはずなのに、リーゼったらまったく……」

奉仕活動を始めてから、二年が経った。町の中でのミナミの評判は上々だ。この二年間、私は奉仕活動のみならず勉学と魔法の訓練にも力を入れていた。いくら私に前世の知識があるといえど、発展途上の町を興す方法なんて分からない。そこで、家にある図書館にこもって貧困対策やインフラ整備についての知識を蓄えていたのだ。経済状況は芳しくないようだが、一応領主の家というだけあって必要な本はある程度揃っていたので助かった。今までは自分が勉強するだけだったが、ある程度の情報を収集できた今は、他にやるべきことがある。

「メザリアさん。今日の午後、リーゼはお忙しいですか? もしよければ、町の皆さまとお勉強をしたいと思っているのですけれど」

メザリアさんは「あら!」と驚いたあと、なにかを思案するように顔を顰めた。

「予定が合わなければ無理にお誘いしませんが……」

「そりゃあ、息子は年中暇してるけど……でも、リーゼがミナミ様に何か無礼なことをしないか心配でねぇ」

「あら、構わないですわ、そんなこと。仮に何かあったとしても、それは教育が行き届いていないこの町の制度のせいですもの。リーゼに非はありません」

「……本当に、立派になられて……とても八歳とは思えないよ。うちの息子が何かしでかしたら、すぐに呼んでちょうだいね」

私が微笑むと、メザリアさんはつられて笑った。乙女ゲームの主人公の笑顔には、癒し効果か何かがあるのかもしれない。勿論、私はローズマリーの笑顔の方が何倍も美しいと思うけれど。

 これから、町の子供たちには読み書きを教える。そのために声をかけて回ったのだ。

 町について調べていて、いくつか分かったことがある。

 まず、この町は経済状況がとても悪い。資源が限られた田舎の小さな町が栄えるのは難しいかもしれないが、この町はそのポテンシャルは持っているのだ。この町の山では、淡い紫色の魔法鉱石が採れる。魔法鉱石に関する書物にもあまり記載がなかったので価値は低いのだと思っていたが、どうやらそうではないらしい。古い文献を読み漁っていたときに淡い紫色の魔法鉱石についての記述を偶然見つけたのだが、淡い紫色の魔法鉱石は産出地が限られた貴重なものらしいのだ。しかし、遠方の貴族がどこからかその噂を聞きつけ、町民が何も知らないのをいいことに「この鉱石には価値がない」と安値で買い取り続けていた。交易の世界は弱肉強食だ。領主なのに何も知らなかった父は論外として、私は、その貴族たちだけが悪いとは思わない。情報は武器になる。問題は、町民が情報を得る手段を持っていなかったことだ。

 この町の識字率は他と比べても異様に低い。国民のほぼ全員が字を読めた日本の感覚のまま過ごしていたから、識字率の低さを知ったときには心底驚いた。町に学校がないことがその大きな要因らしい。八歳の私がいきなり学校をつくることはできないので、まずは私が子供たちに字を教える。評判が広がれば、大人たちにも。もう騙されないために、勉強してもらうのだ。

 二つ目に、この町は衛生状態が良くない。なんでもかんでも日本と比べるのはどうかとも思うが、道に落ちているごみや町に漂う臭いがとても気になる。ごみに関しては、私が二年間草むしりやゴミ拾いを続けたおかげで町民の心境が変化したらしくマシになったのだが、その他はどうしようもない。技術がないのだ。

 三つ目に、インフラ整備ができていない。水が濁っていることは死活問題なのに、状況は改善されないらしい。今は魔法を使って解決できているのでそれでいいと思っているのだろうが、それにも課題はある。水を扱える魔法使いが少なく手が回らない地域があることと、その魔法使いたちの負担が大きすぎることだ。魔法以外に綺麗な水を得る手段があるならば、その方がいい。そもそも識字率が低いせいで魔導書が読めず、複雑な魔法を使える人口は年々減っている。

 まだまだ問題点はあるが、とりあえずこの三つの問題を学園入学までに解決したい。ここは辺鄙なところにある小さな田舎町だが、所有権を辿っていけばシュワイバー家に辿り着く。つまり、この町はローズマリーの管轄でもあるのだ。これは、「ミナミ」が彼女へ行った悪行への償いの一つでもある。

まずは子供たちへの教育から。出来ることから、ひとつずつやっていこう。

 「と、いうわけで、皆さま、集まっていいただき感謝いたします」

町のはずれの空き地に、二十人ほどの子供を集めることが出来た。みんな、興味津々といった目でこちらを見ている。

「なにするの? ミナミさま」

「私が、皆様に文字をお教えするのよ」

「文字? どうして?」

「文字は、たくさんの大切なことを私たちに教えてくれるからよ。例えば、この文字が書いてある二つのジュースをもらったら、ミンヘルならどっちを飲む? どちらか片方はとっても美味しいジュースだけど、もう片方には毒が入っているの。――そうよね、分からないわよね。怖いからどちらも飲めないでしょう? けれど、私は文字が読めるからどちらが美味しいジュースなのか分かるわ。こんな風に、文字が読めればいいことも危険なことも分かる。大切な人を守ることもできるかもしれないわ。けれど、この町には学校がないでしょう? だから、私がお教えするの。皆が文字を覚えれば、この町は、きっともっと豊かになるはずよ」

 私の説明に、子供たちは納得してくれたようだった。がんばる! と意気込んでいる。本当に子供って純粋で素直で可愛いなあ、と思っていたとき、一人の少年が声を荒げた。

「くだらねー! おれは、ジュース飲まねえもん!」

立ち上がった少年は、赤い髪の毛の下で反抗的な目つきをしていた。メザリアさんの息子のリーゼだ。彼は悪童として町でもちょっとした有名人になっている。私は転生後も含めるともう子供たちの何倍も生きているのでその反抗もかわいいとしか思わないけれど、子供たちは違うらしい。

「またリーゼかよ」

「悪い子だって、お母さんが言ってたよ」

子供たちの容赦のない言葉に、リーゼは不貞腐れたようにどこかへ行ってしまった。止めようとしたけれど、他の子供たちに制止されて大人しく座っていた場所に腰掛ける。

「ミナミさま、リーゼはほっといていいよ。いつもあんな感じなんだ」

「けれど、昔からずっとではないでしょう? 反抗期かしら」

「五歳のときからだよ。そのときから、一緒に遊んでくれなくなったんだ。僕、それまでは仲良しだったのに……」

おずおずとは話をしてくれたのは、ミンヘルだった。ミンヘルは頬にある火傷の跡が原因で子どもたちに距離を取られていた。火傷跡はなにも怖くないものだと私が子どもたちに話したのは去年のことだ。それから、ミンヘルはミナミに心を開いてくれている。リーゼとは対照的で、ミンヘルは内向的だがとても優しい性格だ。大人数の前で発言をするのは苦手だろうに、ミンヘルはリーゼのことを教えてくれた。

「――そういうことなのね。ありがとう、ミンヘル。おかげで助かったわ」

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