4章 なかにいる ①
I大学の都心キャンパスには医療系学部が集中している。緑に囲まれた厳かで理知的な佇まいは、そこだけ体感温度を下げるようだった。しかし、出入りする人間の数は多い、それだけに、誰が学生かなんて誰も気にしていない。学祭に一度来たことがあるが、次にここを訪れるときは入試のときだとばかり思っていた。彩里は、歓びとはかけ離れた気真面目過ぎる顔で大学の門を潜った。
先を行く恵真は彩里を振り返らない。余計な話もしないまま彼女について来た。学生らしき若者たちがたむろするエリアは素通りし、雑木林の影を縫うように歩く。人影がほとんど見えなくなって来た頃、刑務所のような外観の真四角の建物が目についた。恵真がやっと振り返り、彩里が横に並ぶのを待ってから口を開く。
「昔は院生向けの研究棟だったんだ。今は院自体が移転したから、二階と三階は公認サークルや運動部の部室や備品庫として使われてる」
そう説明しながらも、恵真が歩みを進めた先は建物の裏手にある階段だった。どうやら地下へ伸びているらしい。気温が二、三度下がるのを感じた。裏手には背の高い木々が隣接する建物との境界線を主張するように隙間なく生い茂っている。大学の横には、付属の大学病院があるはずだ。階段を降りる手前で背後の木々を見上げた彩里は、微かに聳えるクリーム色の壁に目を細めた。
「病院が気になる? たしか、お姉さんはこの病院で産まれたんだよね」
父がそんな話をしたのだろうか。薄暗い階段の先に立つ恵真は、地下に半身を食われて見えた。その異様な錯視に一瞬心臓が跳ね上がりながらも、彩里は追いかけるように階段を降りた。
「お父さんの意向だったみたい。大学病院の方が安心だって。一人目だったし……何よりお母さん、つわりが重くて、栄養失調気味だったらしいので」
「そう。もしかしたら、お姉さんがI大学病院産科最後の新生児だったかもね」
避難誘導灯の方が目立って見える廊下に、足音が寂しく反響する。ひと気のない施設内は暗さもあって平時なら恐ろしく不気味に感じるだろうが、今の彩里にはそんな臆病風は毛ほども吹いていなかった。恵真の迷いのない足取りのおかげだ。
彼女は廊下の突き当り手前で止まった。部屋の番号は擦れて読めないが、目当てはこの部屋らしかった。促されるまま、彩里は冷たいドアノブを捻る。
壁沿いに手を這わせて、照明のスイッチを押した。蛍光灯特有の明滅が繰り返され、室内にぼんやりした明かりが灯った。埃っぽさはあるが、部屋の中自体は簡素なもので、研究室というよりは誰かの書斎だったという雰囲気だ。置き去りにされたままの大きなデスクに腰を据え、恵真が息を吐いた。
「ここでならゆっくり、二人だけで静かに話せるよ。オカルトめいた話をすると悪目立ちするからね。……K神社には行ったんでしょう? でも、その顔じゃとてもいい結果に恵まれたとは思えないな。何があった?」
恵真に問われて、彩里もやっと呼吸ができた気がした。
藤崎の異変、そして呪詛の犯人だと疑っていた津村真優との遭遇、彼女の「妊娠」という思いがけない告白を受けたことを話すと、恵真は顎に手を伸ばす。
「じゃあ、彩里ちゃんは、津村真優も『呪い』で妊娠を錯覚していると思ってるの?」
「はい、そうすれば姉が神社に行った理由も説明がつきます。姉は絵馬を送ることで真優ちゃんを呪った。絵馬なら処分も簡単ですし」
「絵馬に呪詛を書く人間はまあまあいるからね。言霊や人形はもちろんのこと、ヨモツヘグイや見るなのタブーに代表される行為だって相手に仕掛ければ立派な呪いになるわけだし、祝いに見せかけた呪いもあるかもしれない」
ヨモツヘグイという聞き慣れぬ言葉の意味を尋ねようとしたが、会話の腰を折ることに気が引けた。だが、返答の滞った彩里を見て、デスクに薄く積もった埃を指で掬った恵真が指先にふっと息を吹きかける。
「冥界食とも言うね。黄泉の国、つまりあの世の竈で煮炊きしたものを食べることは、黄泉の国の住人になることを示す。古来日本神道において死は不浄なもの、忌避すべきものとされるからね、逆に言えばそういった忌まわしい食べ物を取り込ませることで、生きた者であっても死と同等の不浄を与えられる、とも考えられる」
「不浄なもの……って例えば、血、とか」
「うん、血液は古くから穢れとして恐れられているね。女性の月経やお産なんてもろに『ケガレ』の象徴だし、日本には『触穢』という思想があって、ケガレに触れた人間も禊を受けなければならない。ケガレは魔を呼ぶんだそうだよ。そう考えると、どうかな、生殖と性は切り離せない概念で、極論じみたことを言えば性交だってケガレの対象だ。西洋悪魔学における魔女集会の儀式でもオルギア――まあ乱交だよね、そういう行為で神の教えに唾を吐く。日本は神のまぐわいでできたとされるし。よその宗教や信仰と違ってそれ自体を禁忌とする文化はないけど、お姉さんたちのしてきたこと自体が穢れ……即ち、魔を呼ぶ儀式になっていたのかもしれない」
その言葉に、どっと心臓が沸いた。生殖を目的としない、愛を育むためでもない、金と快楽のために消費される数多の肉体――人間の欲望の極致が、彩里の脳内で否応なく再生される。大本の投稿が消されたところで、今もなおネット上には姉が関わった動画が転載され続けているだろう。いったいどれほどの数の人間が、姉たちの生み出した「穢れ」を見て劣情を抱いたのか、想像すると口の中が乾いていく。
穢れに触れた人間も穢れる。穢れが増えていく。より多くの魔を呼ぶ――
そうか、と彩里は脱力した。
あの人倫にもとる行いすら、姉の計画の一部に過ぎなかったのだ。全ては津村真優を可愛がるため。そうだとしたら、友里の魔性はもはや魔物そのものだ。姉は人間ではない。彩里は息苦しさを感じた。揺らぎのない室内は現実味を失わせ、視野を狭める。首回りが妙に重く、頭痛がした。「彩里」と、にやにやしながら名前を呼ぶ姉の気配を傍らに覚える。幻影だと振り払うべく、恵真を見つめた。
彼女はデスクに腰を掛けたまま、手のひらを合わせる。乾いた合掌音は柏手のようで、その行為だけで空間が澄んだ気がした。
「ただの仮説だよ。そんなに怖い顔をしないで。お姉さんを乏しめる気はないから」「ううん、きっと恵真さんの言う通り……そうじゃなければあのお姉ちゃんがあんなことするわけない」
張り詰めているはずなのに、彩里の口調はどこか幼く響いた。目の前の女性が友里に見えて仕方なく、奇妙な頭痛と火照りが余計に精神を乱す。
恵真はその不穏な空気を感じ取る気配も見せず、淡々と疑問を吐き出した。
「お姉さんの特殊な心理の背景はさておき、大学の学友以外――つまり、藤崎さんが呪われたのはどう説明する?」
「藤崎さんは真優ちゃんを見て『馬鹿にした』って言ってた。私は、この行為や心の動きが呪いを移すきっかけになるんじゃないかと思う。現に、お姉ちゃんは最初に妊娠妄想を訴えた南美伽を馬鹿にしていたし、お姉ちゃんが妊娠の相談をしていたサークルの人たちはお姉ちゃんを相手にしないで嘘つき呼ばわりしていた」
「……なるほど、ある意味でタブーを犯したわけだね。だけど、そもそも呪いがあるとして、津村真優以外に広まった理由はどう考える?」
「呪詛の実験台として南美伽にまず呪いをかけたんじゃないかな。それがうまくいって、真優ちゃんに……。だけどお姉ちゃんは呪いが連鎖するなんて思わなかった。南美伽を突き放したせいで自分も呪われるなんて思わなかった」
「それだと津村真優が死なない理由が分からない。彼女はどうして無事なのかな」
「精神性の問題とか……。真優ちゃんは子供を失って、新しい家族をほしがっている。つまり妊娠を恐れていない――実際にはいなくても、むしろ喜んで受け容れているから、不安に取り殺されていない」
恵真は静かに彩里を見返していた。
そのあまりに澄んだ眼差しに、彩里は羞恥を感じて怖気づく。まるで見当違いのことを言っているだろうか。何が正しくて何が間違っているかなんて誰にも分からないような話なのに、彼女の瞳は彩里を妙に不安にさせた。薄氷じみた心を見透かすような視線だ。恵真は口元を隠すように両手の指先を絡ませた。
「受け容れる、ね。でもそれだと、津村真優を呪ったことになるのかな」
「それは――お姉ちゃんは死なせることが目的じゃなくて、産んだ後の、」
「うん、それなんだけど。そもそも、彼女のお腹の中にいる何かは産まれるの?」
空気が震えた。どうやらタイマー設定で換気扇が回るようになっているらしい。微かな駆動音がしゃりしゃりと耳に障る。音が気になって集中できないと言い訳をしたい。だが、恵真の視線は彩里を逃してくれない。
「いや、産めるのか、と言った方が正しいのかな」
恵真が独り言のように言い直す。彩里はからからの口内で無理やり唾を飲んだ。
たしかに、恵真の言う通りだ。科学的な検証においては胎内には「何もない」状態なのである。それが実際に産気づき、何かが産まれるなんてことがあるのだろうか。
触れてしまった姉と尾瀬の腹の弾力を思い出すと、背筋が冷えた。
あの腹にいたのは呪いの産物だ。妊娠自体を恐れ、産んではならないと直感する邪悪な存在が潜んでいる。魔性の姉をも阿鼻叫喚の生き地獄に叩き落し、死を選ばせた狂気の卵を、津村真優は平然とした顔で――いや、渇望しているのだ。
「津村真優は子供を産む気でいる。産まれたらどうなるんだろうね。呪いでできた子供に果たして肉と骨があるのか、それはそれで興味深いけれど。産んだら終わり、なんてことにはならないでしょう、普通に考えて。だって、これは津村真優を苦しめるための呪いなんだから。今まで死んでいった人たちも、それを産むより死んだ方がマシだと本能的に理解していたのかもしれない」
「……どうしよう、真優ちゃんを助けないと」
血を分けた人間として、姉の不始末に片をつけないとならない。彩里の中にあった使命感が燃え上がった。とは言え、産むのを止めさせるにも、あの狂信的な我が子の渇望に打ち勝つ言葉が彩里には思いつかない。
お祓いなんて突っぱねられるに決まっている。それが有効かどうかも分からない。
どうやって呪いの誕生を止めるか、助けを乞うように恵真を見つめる。デスクから離れ、彩里を囲うようにゆっくりと歩き始めた彼女は、青白い蛍光灯を見上げた。白い喉は白鯨のブリーチングのごとき神秘さを湛えていた。その湾曲に見惚れてしまう。
「未知に出会ったときは、先人に倣うのがセオリーだよ。呪いを直接、取り除く――」
唐突に発された声に、彩里は肩を小さく震わせた。
「先人に倣う……?」
「そう、前に話したよね。I大学病院から産科がなくなった理由、二十一年前に起きた、女子大学生の殺人事件。女子医学生による、女子大生の殺人がなぜ起きたのか、同性同士の痴話喧嘩では収まらないセンセーショナルな事件の背景には、今回と同じような妊娠にまつわる呪いの連鎖があったんだよ。女子医学生Xが、危険を承知で恋人の腹を裂いたワケは、彼女を呪いから救うためだとしたら」
――産まれてはいけない邪悪を、恋人から取り除きたかった一心だったとしたら。
いつの間にか彩里の背後に立っていた恵真が囁く。耳元に吹き込まれる言葉と吐息は、否応なく彩里の背骨に緊張を強いた。
「で、でも、私、そんなことできない……」
「大丈夫、私がいるよ」
肩に触れた恵真の白い手が骸骨のように見えた。彩里の目が見開かれるも、恵真はもう一度囁く。「彩里ちゃんだって医者を目指しているのなら」――無理だ! 彩里は激しく首を振る。
換気扇が止まった。最初から密室に二人きりだったのに、音がやむとその閉塞感がより寂寞とした気配を室内に漂わせ、恵真との距離感が狂っていく。
「じゃあ、どうするの? このまま津村真優を見殺しにする? 彼女がこれから産もうとしているモノの存在を認識できているのは彩里ちゃんだけ。お姉さんがやったことに対してずっと知らんぷりして生きていくことはできるの? 同級生のことだって何も解決はしていないよね、彼女のお腹に本当に何もいないのか彩里ちゃんに確かめる術はないんだから。でも、もし津村真優から呪いを摘出できたら?」
軽く載せられただけのはずなのに、手が重たい。肩を押さえ込まれているようだ。自分が呼吸できているかどうかも定かでない。彩里の目玉は意味もなく左右を行き交い、不安を露わにしていた。密室で、こんなに密着しているのに、恵真の体温すら分からない。ただ、彼女の声だけが耳元によく通った。
「それとも、自分をいじめてきた相手なんて、やっぱりどうなってもいいかな?」
どうでもいいと思えればよかった。
自分を傷つけてきた相手のことなど虫けら同然に踏みつぶせればよかった。
だけど相手はたしかに自分と同じ肉体の構成を持ち、言葉を話し、呼吸し、苦しみを吐露する熱を持った人間だ。自分は姉とは違う。空っぽながらに人の心がある普通の人間だ。
彩里の視点が定まったとき、肩に置かれていた手が首筋か耳たぶ、こめかみから後頭部へ滑らかに触れた。ぞくぞくする感触と同時に、愛玩人形の髪を梳かすような優しい手つきが己の緊張をほぐしていくのを自覚する。恵真の語る計画はほとんど頭に入ってこなかった。姉の腹に宿った存在そのものへの憎悪が急速に膨らんでいたからだ。全て姉のせいだというのに、この期に及んで姉を切り捨てられないでいる自分の愚かさに、彩里は唇を引き結んだまま、涙を一滴、静かに落とした。
藤崎からの五十件以上に及ぶ着信に気づいたのは、既に大学を出た後だった。地下にいたせいで電波が入らなかったようだ。連絡がつかないことに苛立つ藤崎の姿が目に浮かぶ。だが、申し訳なさより先に、夥しいメッセージの通知にぞっとした。
文章を読むより先に、反射的に通話ボタンを押す。都会の喧騒に負けるように「ただ今電話に出ることができません」という機械音が発信を遮断し、彩里は顔を顰めた。
メッセージアプリを開く。
――早く電話に出ろ。
どこにいるの。何してるの。血が止まらない。うちに来て。動けない。お腹が痛い。体が熱い。苦しい。たすけて。たすけて。悪口言ってごめんなさい。許して。お願い。もうしないから。助けて。痛い。もう無理。おかしいこんなのおかしい。なんで私なの。なんで。死ね。お前が死ね。ごめん嘘だから。こいつ蹴ってくるの。すごい力で蹴ってくる。お腹が痛い。痛い。痛い。痛い。助けて。電話に出て。早く助けて。
――支離滅裂な文章の羅列だった。最後に送られてきたメッセージの時間は十分ほど前だ。ボイスチャットだけが添付されていた。震える指先が再生ボタンをタップする。信号機が青になり、カッコーと人工鳥が鳴いた。彩里だけが、横断歩道の手前で足を止めた。
耳元にスマホを近づける。んぎゃあ
んぎゃあああ あっあっ
あぎゃあん あぎゃあああああ
本能のままに、スマホの電源ボタンを押していた。画面がブラックアウトし、鬼の形相をした彩里自身を映し出す。投げ捨てなかったのはなけなしの理性だった。
汗が噴き出る。体の奥底から震えが走り、手が痙攣して結局スマホが滑り落ちた。拾い上げようにも体が軋み、それどころか膝の裏を折られたように下半身が崩れ落ちる。体感できる温冷が乱高下して、視界が急速に白くなっていった。
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