3章 なにかある ④

『動いてる、動いてるの、どうしよ、きもい、まじできもい、死ね、死んでよ』

「藤崎さん、動いてるって――お腹、が?」

『それ以外ないでしょ何があるの!?』


 金切り声に、彩里はスマホを耳元から遠ざけた。だが、怒鳴ってすぐに藤崎は「ごめん」と泣き出した。その物理法則を無視するような不安定な情緒は、友里が死んでいくまでと全く同じ軌道を描いていた。

 藤崎が落ち着くのを待っていると、恵真が彩里のノートに文字を書いて寄越した。

 ――気休めにしかならないかもしれないけど、お祓いに行ってみたら?

 恵真の文字を、彩里はそのまま読み上げた。

 結局、最後に縋るのは神と仏なのだと彩里は息を呑む。藤崎はすぐに了承し、二日後に出かけることを約束した。藤崎の両親がその日は早朝から婚礼に出席するため、出かけても不審に思われないということらしい。だが、彩里にとってはただの平日なので、その日、彩里は人生で初めて「学校に行く」ふりをした。

 十時半頃に八王子駅で待ち合わせをした。駅のトイレで制服から私服に着替え、駅近くの書店で、オープンから時間を潰した。普段手に取ることのない、オカルトや民俗学に纏わる棚の前に一時間以上いた。


「神様にはそれぞれ逸話と権能がある。祈願と呪詛が表裏一体の存在であるとしたら、行くべき場所は分かるよね」


 恵真の囁きは彩里の行く先を一つに絞ってくれた。

 姉がなぜか訪れていたというK神社――。友里がどんな想いでその場所に赴いたのか知りたいという気持ちに蓋もできず、彩里は藤崎を言葉巧みに誘った。

 改札手前で合流した藤崎は、まだ夏の体感だと言うのに厚着だった。

帽子を深々と被り、マスクで顔を覆い、薄いコートを羽織っている姿は十分不審だ。体型に合わないゆったりしたスカートは恐らく出っ張り始めた腹を隠したいのだろうが、全体的にやり過ぎだと彩里は心の中で嘆息した。だが、この内と外との認識の差を見誤るところも、彼女の心が追い詰められていることの証左だろう。まさになりふり構っていられないありのままの姿なのだ。彩里は祈るように目を伏せた。

 四十分ほど電車を乗り継いで、K神社の最寄り駅に降り立つ。より郊外感が増した街並みに見入る要素もなく、地図アプリで調べながら神社へ向かった。

藤崎とは余計な会話はしなかったが、神社の鳥居が見えてきたあたりで彩里は彼女の異変に気がついた。息が荒く、滝のように汗をかいていた。痛いほどの日差しもない天候だったが、さすがに厚着が祟ったか。


「藤崎さん、何か飲む?」


 参道は目前だ。あと数分もしないうちに鳥居を潜れるだろう。コンビニはないが自販機はある。それを指差すと、藤崎が頷く前にえずいた。覆った手の隙間から黄ばんだ液体が漏れるのを見て、彩里は慌てて駆け寄り、通行人たちから庇うように路地の影へ彼女を隠した。

 路地の排水溝に向かって吐き続けた藤崎の背中を擦る。参拝客か地元民か判別のつかない年配の女性集団が「やぁねえ」と二人の背中に冷罵を投げた。そんな奇異の目にも負けず、彩里は藤崎に声をかけ続ける。「ゆっくりでいいよ」「大丈夫。全部出せば楽になるよ」「もう少し頑張ろう」――どれも、弱り、狂っていく姉にはかけられなかった言葉だった。


「鳥居を見たら急に……やっぱり、の、呪われてるから、コイツが神社に近づけないようにしてるんだ」


 路地の壁に手をつきながら、藤崎が蒼い顔で言った。「今も動いてる」と、彩里の手を自分の腹に触れさせる。彩里はその手を払うこともせず、うん、と頷いて、膨らんだそのお腹を優しく撫でた。労わるように、そっと。

それはこの膨らみの中にいるモノへの慈しみではない。

できることなら、引きずり出して縊ってしまいたい。だけど、実際は何もいない、人の手ではどうすることもできない。

 自販機で水を二本買った。一本は藤崎にそのまま飲ませ、もう一本は彩里のハンドタオルを湿らせて、藤崎の手や顔の汚れを拭うために使った。藤崎は礼を言う気力もないのか口にしなかったが、定型文のありがとうなんて求めていない。ただ、神社に行く意思だけは持っていてもらわねばならない。


「行かなきゃ」


 どちらともなくそう言った。藤崎は相変わらず顔色が悪く、目が虚ろだった。

暗く湿った路地を出て、参道に戻る。藤崎の歩調はゆっくりだったが、確実に神社へ近づいて行く。大きな鳥居の先には階段があった。今の彼女には酷かもしれないが、昇った先に救いがあると信じて進むしかない。

鳥居を潜って、石階段に一歩を踏み出した。藤崎の肩を持つように寄り添い、彼女が躓かないように足下を見ていた彩里「あっ」と目を見開いた。

藤崎の足首に、赤い筋がツーっと伝ったのだ。

 瞬間、藤崎の顔が苦痛に歪み、体勢を崩した。スカートの裾が石階段に広がった。きっとその下には不気味な赤が染みを作っている。ざわめく参拝客たちの反応は様々だ。避ける者、声をかけてくる者、ただ立ち止まっている者。彩里は周囲に気を配れるほど余裕がなかった。脂汗を浮かべて震えている藤崎は、「痛い」と呻き続けていて、その声を聞いていると自分の痛覚まで悲鳴を上げる気がする。


「救急車呼んだ方がいいんじゃないか」


 白髪混じりのシニア男性が彩里の肩をそっと叩いた。救急車。反すうするが、手が動かない。「救急車なんて駄目」と、藤崎が吠えた。「呼んじゃ駄目、親にばれる、そんなこと駄目」うわごとのように繰り返す。その藤崎の背に、人の手が伸びた。


「とりあえず、ここから離れよう。お腹痛むの? 立てるかな、掴まって」


 優しい声音だった。髪を後ろで結った若い女性が、藤崎の脇の下に肩を通す。その姿に、他の人々も手を貸してくれた。「うわ、血だ」という声が背後で聞こえたが、振り返ることはしなかった。

参道の途中にあった公衆トイレの一帯が、休憩スポットとなっていて助かった。藤崎はそのまま彩里と、肩を持ってくれた女性と共にバリアフリートイレに入った。スカートは幸い藍色で血の汚れが目立つものではなかったが、下着は使い物にならなかった。彩里は、女性と目を合わせることを避けていたが、いよいよどうしようもなくなり、彼女に話しかけた。


「……真優ちゃん、いや津村さん。あの……お久しぶり、です。こんなことお願いする立場じゃないんですが」


 人目も憚らずスカートをたくし上げ、トイレットペーパーで血液を拭う藤崎は、彩里のことを気にしている余裕がないようだった。

 津村真優は、畏れからたどたどしく喋る彩里に微笑みかけ、「前みたいに真優でいいよ、なんでもどうぞ」と頷いた。季節感のあるラフな格好の彼女のショルダーバックからは、人形の肌色がわずかにのぞいている。

 真優に頼んで替えの下着や生理用ナプキン、消毒液などを買ってきてもらう間に、藤崎はかなり回復して見えた。痛みも引いたようで顔色も良くなり、何度も拭われた股座からの出血も収まって、足に伸びた血糊も跡すら水で擦れば消えてしまった。


「お腹はどう?」と彩里は尋ねる。厚着の下の膨らみは目視では曖昧だ。

「流れた気がする」


 藤崎が腹を撫でた。どこか安堵しているような顔の彼女に、彩里は顎を引いた。


「……病院、行った方がいいと思うよ。もしかしたら本当に病気かもしれない」

「この腹が元に戻ったらね」


 果たして元に戻るだろうか。口にこそ出さなかったが、「流れた」なんて言い方をする藤崎に同調できなかった。だってそこには何もいないんじゃなかったのか。

 買い物を終えた真優が戻ってきたときも、藤崎は彼女が「おくるみ女」だとは認識できなかったのか、丁寧に礼を言った。彩里も特に何も言わずにいた。

藤崎はその後、身なりを整えてからすぐに帰宅させた。念のためタクシーで直接家まで送ってもらうことにし、何かあればすぐに連絡をするよう念押しした。藤崎は憑き物が落ちたような顔をしていて、それが彩里には不気味に思えた。


「真優ちゃん、ありがとう。これ、もしかしたら足りないかもしれないけど」


 近くのあずまやで二人きりになった直後、彩里は財布からお札を取り出した。真優は首を振ったきり、受け取ってくれなかった。会話はそこで切断され、手の中のお札がひらひら風になびく。受け取ってくれないのは困る。気まずいながらに、この一線は引かねばならぬと押しつけようとしたとき、真優が口を開いた。


「あの子、妊娠してるの?」


 彩里は言い淀む。一目見ただけで分かったのか? ――いや、真優が呪詛をかけている災いの元だとしたら知っていて当然だ。どう答えるのか悩んで、自然と彼女を睨み上げる形になってしまった。途端に、真優は柳眉を下げた。


「ごめん、最初に話すことはこれじゃないよね。……友里のこと、本当に残念に思う。できれば直接、友里のこと見送りたかったし、お線香の一つでもあげたかったんだけど……私って、好かれてないでしょ、そっちのお母さんに。だから行けなくて」

「誰から聞いたの?」

「知り合いからだけど」

「本当に? それ誰?」


 彩里の強い眼差しと口調に、真優は困惑したように首を傾げた。


「本当だよ。なんで? 私だって聞いたときは嘘だって思ったよ。でも本当に連絡つかないし、四十九日の法事やってるの見て、やっと諦めた、友里はもういないって」

「それならなんでうちに寄らなかったの? 逃げたんだよね、うちから」


 なぜそれを、と言わんばかりに真優の顔が歪んだ。


「知らない男に声をかけられて――」

「お姉ちゃんを殺したのは真優ちゃんなんじゃないの?」


 クラクションの音が通りの向こうから聞こえた。


「ずっと抱っこしていた赤ちゃん人形、今日はどうして鞄なんかに入れてるの? 人形って、呪いによく使われるアイテムだよね。もう必要なくなった? ユリちゃんって自分の子供の名前つけるくらい入れ込んでいたのに」

「呪い……? 意味不明なんだけど、何、急に。あー、そ。結局、彩里ちゃんも私のこと馬鹿にしてたんだ、『やばい女』って。どう思われてもいいけど、この子は私にとってお守りなの、変な言いがかりつけないで」


 真優が淡々と言う。剣呑とした顔つきは、高校時代の彼女を彷彿とさせた。


「言いがかりじゃない」


 彩里は怯まずに呟く。真優が眉間に皺を寄せた。

 今、藤崎の身に起こっていること、姉を含め、大学のサークルメンバーの不審死、共通点。ひと思いに全て語ると、真優は「まさか」と冷笑を浮かべた。


「いくらなんでも無理、信じられない。その犯人が私……? 友里の大学の友達なんて名前一つ知らないのに。大体、私が友里を殺すわけない」

「理由ならあるでしょ……お姉ちゃんのせいで、真優ちゃんは」

「たしかに、友里とはいろいろあったよ。でも、お金のために友里の紹介で男に会うことを決めたのは私だし、高校ではぶられるような態度を取っていたのも私。友里は、こんな私に大好きっていつも言ってくれてた親友だったんだよ。友里が死んで悲しいのは私だって一緒、なんでこんなことになったのかずっと辛い」

「じゃあどうしてお姉ちゃんが『妊娠したかも』って相談したとき、ちゃんと話を聞いてあげなかったの。真優ちゃんなら、もしかしたらお姉ちゃんが自殺するのを止められたかもしれないのに」


 いつになく大きく開かれた口の中が塩辛くなった。いつの間にか、彩里は泣いていた。真優の顔が苦痛に歪む。

 姉と真優との過去のやり取りは、他の友人たちとのやり取りと違って、ほぼ全ての会話のメッセージが意図的に削除されていた。あえてそんなことをしていたとなると、残したくないやり取りだったのだろう。警察は削除されたメッセージも復元できたかもしれないが、素人の彩里にそんな真似はできない。

 だが、死ぬ間際、妊娠妄想による不安を、姉はずっと真優に伝えていた。削除されずに残された文面は、姉の心そのものだった。会いにきてほしい、助けてほしいと、プライドをかなぐり捨てて懇願していた。真優からの返事は「今は難しい」だとか「あまり考えすぎない方がいい」だとか無難なものばかりで、最後の方は「親をもっと頼ったら」という、突き放しとも捉えられる言葉だった。そうして日付は友里が死んだ翌日に飛ぶ。「嘘だよね友里、生きてるよね」


「お姉ちゃんは頭がおかしい、きっと本来この世に存在しちゃいけない類の人間だった。真優ちゃんはお姉ちゃんに洗脳されてたんだよ、真優ちゃんが辛い目に遭えば遭うほど、お姉ちゃんは喜んでいた。ずっとそうなの、お姉ちゃんは好きになった可愛い女の子を、自分の手で苦しめて壊していく。昨日まで『ずっと親友だよ』って囁いていた相手を、次の日には他人を使って追い込んでいく。空っぽなの、人として。お姉ちゃんが大学で何をしていたか、真優ちゃんは知ってた?」


 真優が一歩、後退する。それを許さないとばかりに、彩里は詰め寄った。公衆トイレの壁に彼女を追い詰める。真優は、眉尻を下げて首を振った。


「他人を騙して、エロ動画撮影して、売って、お金稼いで。そのくせ自分は身ぎれいでいる。お姉ちゃん処女だったんだよ、あれで。おかしいよね、散々夜遊びして、男はべらせておいて。……だからさ、お姉ちゃんが妊娠なんてしてるわけないんだよ。でもお姉ちゃんのお腹には何かがいた、その何かがお姉ちゃんを殺した。それを仕込んだのは――呪いをかけたのは」

「私じゃない!」


 叫ばれたと同時に、彩里は真優に肩を掴まれ、抱き締められていた。柑橘系の柔軟剤の香りがふわりと漂う。同時に、どこかで嗅いだことのある煙草の残り香を感じた。


「友里がおかしくなってたのは知ってる。でも、信じられるわけないよ、検査薬も陰性、血液検査も陰性、超音波でも何も見えない。それで妊娠してるわけない。私もいろいろあって、ちゃんと話を聞かなかったことは後悔してる。それは謝る、今さら友里に謝っても仕方ないけど、彩里ちゃんが納得してくれるまで何度でも謝る。ごめんなさい。だけど、信じて、私が友里を殺すわけない、私は友里と家族になりたかった――……、お願い、信じて。私は、本当に、それくらい友里が好きだった。大好きな、たった一人の友達だったの」


 頭の上に降ってくる言葉は濡れていた。

 全部、友里にそう思わされているだけだと突き飛ばしてやりたかった。

どこに縋ることもできずにいた彼女の弱みにつけこみ、空っぽになったところで「親友」だと、「好き」だと思いこまされているだけなのだと。

 彩里は、生温い人肌を感じながら目を伏せた。それでも涙が止め処なく溢れ、真優の胸元を湿らせ、染みを作る。嫉妬を感じた。燃え盛るほどの激情ではない。薄く延び続ける飴のような、終わりのない嫉妬心だった。肉親でありながら、彩里では入り込むことのできなかった姉の空虚で底なしの胎内に、選ばれた人間だけが溶けている。彼女たちの言葉なら、もしかしたら友里を踏み止ませることができたかもしれないと思うと、忌まわしい愛着すら羨ましく感じた。

 友里に青春時代をめちゃくちゃにされて尚、彼女を親友と言えるのは、他人の彩里からすれば狂気以外の何物でもない。しかし、家庭環境に恵まれず、苦しい思いを強いられてきた真優にとっては、友里の存在は彼女の言葉通り、たった一人の親友だったのかもしれない。そうやって真優の心を肯定すると、それならばなぜ姉を見殺しにするようなことをしたのだ、と責めたくなる気持ちが燭台の揺らぎのように彩里の胸の内に影を作った。――自分だって同じだ。姉を、最後まで信じてあげられなかった。

 彩里の両肩を持ってゆっくり胸元から引き離した真優は、目元を朱色にしながら口を開いた。


「友里が死んだの、悲しかったよね。たくさん嫌な思いもしたよね。私も子供が死んだとき、これは何かの呪いなんじゃないかとか、生き返らせる方法はないかとか、オカルトめいたことずっと考えていたから分かるよ。そういう風に思っちゃうくらい、友里が死んだのは突然だったし、あの子はたしかにおかしくなってた。大学の人のことは正直よく分からない、だけど薬物中毒だって話もあったんだよね? それなら原因ははっきりしてる……。友里は付き合っちゃいけない人たちとつるんでしまった」


 ――薬物の話なんて、しただろうか。

 我を忘れて激情のまま吠えたせいで余計なことまで話してしまったのか。

 そのことに恥を覚えながらも、彩里は手の甲で最後の涙を拭って、真優を見上げた。


「……真優ちゃんがお姉ちゃんを呪ったわけじゃないとしても、呪いはあると思う。私の頭がおかしいと思われてもいい。お姉ちゃんたちは呪いで死んだ――私の同級生も、このままだときっと死ぬ。なんでもいいの、何か、手がかりを知りたい。今日はK神社にお祓いに来たの。お姉ちゃんはこの神社に来たことがある、あのお姉ちゃんが神社だよ? しかも安産や子宝祈願で有名なこの神社に。何か知らない?」


 真優はうんざりした顔こそ見せなかったが、痛ましそうに下唇を咬んだ。きっと、姉を喪ったショックで病んでいるように見えているのだろう。かつて彩里が彼女に抱いた憐れみと同じだ。だが、今さら構わなかった。


「呪いって、……つまり、妊娠させる呪いってことだよね? そんなの聞いたことないよ。大体、友里は実際には妊娠なんかしていなかったし」

「だけどお姉ちゃんのお腹は膨らんでいた。他の人も同じ、みんな妊娠したって不安をまき散らして、どうしようもなくなって、死んだ。男友達のお腹も丸かった。お腹の中に何かがいるって怖がってた」

「それが一番理解できない、それこそラリっておかしくなってたんじゃないの。お腹の大きさなんて食生活で簡単に変わる。私だって激太りしたときあったし」

「じゃあ真優ちゃんは、お姉ちゃんも麻薬中毒だったって思うの? お姉ちゃんが死ぬ前の姿、一度でも見たことある? ないよね。ガリガリに痩せて、肌も髪もぼろぼろで、でもお腹だけ突き出て――」

「やめて、それ以上聞きたくない」


 彩里を制した真優は、肩を震わせた。彼女の白樺の若木のような細長い指が、祈るように自身の腹を擦った。その仕草が妙に気に障って、彩里は顔を強張らせる。


「真優ちゃんは何しに来たの、この神社に」


 偶然出会うにはあまりに特殊な場所だ。電車で四十分、東京郊外とはいえ、真優にしても彩里にしても広い範囲で言えば「地元」、観光目的でわざわざ来るようなところではない。彩里の尖った視線に、真優は気まずさを隠さなかった。視線が左右をさまよい、薄く色づいた唇は空気を食む。


「こんなタイミングで言うのも気が引けるけど、……私、妊娠してるの」


 カラスの鳴き声がした。参道の端に捨てられたコンビニの袋を、数羽で突いている。


「ちゃんと相手も分かってる。今、五カ月目で、」

「本当に妊娠してるの?」


 彩里は蒼白した顔で真優の腹を見た。

 まるで目立たぬ腹部を、めくりあげてしまいたくなるのを堪えた。


「彼氏? 結婚するの? いつから?」


 尋ねておいて、真優自身の恋愛遍歴に関心などなかった。姉は知っていたのだろうか。五カ月ならば出産予定月は来年二月頃のはず。安産祈願の戌の日参りは一般的に五カ月頃に行われる。雑な計算と知識が駆け巡った。衝動的な言葉が喉を裂く。


「そこにいるのは本当に人間なの? 妄想なんじゃないの?」


 縋りつくように真優の両腕を握ると、彼女の顔が大きく歪んだ。彩里の手を振り払った真優は、双眸に怒りの炎を灯した。


「馬鹿なこと言わないで、変な宗教でもやってるの? 私は友里みたいに妙な妄想に取り憑かれているわけじゃない! 本当に妊娠してるの!」

「いるなら見せてよ! お姉ちゃんはそんなこと一言も言わなかったのに!」

「友里は知ってた! 友里だけには伝えてた! だから私に安産の絵馬を――」

「安産の絵馬……?」


 勢いのままに突き飛ばされる。彩里は尻もちをついた。だがそのくらいで鎮まる気持ちなどなかった。姉が真優の妊娠を知っていたと言う事実は、彩里を一層、頑なにしていく。


「真優ちゃんはお姉ちゃんに洗脳されてる。またお姉ちゃんに何か言われて妊娠したの? 誰との子? 本当に存在してるの?」

「いい加減にしてよ、友里が死んで辛いのは分かるけど、変なものを信じていないで現実見なよ。私は今度こそ、この子と幸せな、ちゃんとした家族を作るの。彩里ちゃんにもいつか分かる、そういう相手が現れたら、」

「違う! 違う、違う! 大好きな真優ちゃんが幸せになることなんてお姉ちゃんが望むわけない!」


 何も知らない人間が聞けば、支離滅裂以外の何物でもない発言だろう。突き飛ばされたお返しにとばかりに、真優の体にぶつかるようにして彩里は逃げ出した。

 狂ったように「違う」「そんなわけない」「おかしい」と呟きながら、棒切れのような足を必死で動かした。

 真優が呪詛の犯人ではないという証拠はどこにもない。口ではいくらでも怪異を嘲笑える。姉の死を悼める。だけど直感が告げている。真優は姉を殺していない。むしろ、全て友里の仕掛けたものだったとしたら――人を呪わば穴二つ、その言葉通り、自分に呪いが跳ね返ったのだとしたら、納得がいく。

 友里のスマホに一枚だけ残されていたお守りコーナーの写真、あれは、自分の目論見通り妊娠したと伝えてきた真優に向けたものか。「無事に産めるようにお祈りするね」「ありがとう」そんな反吐が出る温い会話をアプリ上で重ねていた? わざわざメッセージを削除した理由はなんだ? もし誰かにスマホを見られたときに知られては困るような中身――妊娠の事実そのものより、その相手の情報? 既婚者、不倫? どこぞの有名人かもしれない。産まれてはならない命――昔であれば「カエサレル」はずだった子供であることを伏せたかったに違いない。


「何が、今度こそ幸せな家族なわけ」


 がり、と口の中に砂を噛んだような不快感が広がった。鈍い痛みと鉄の味に、反射的に指先を丸める。右手の親指の爪が大きく欠け、血が滲んでいた。無意識のうちに爪を噛んでいたらしい。帰巣本能のままに自宅の敷居を跨ぐと、母が庭先で花木に水をかけていた。


「あれ、彩里? どうかしたの? なんで私服なの、学校は?」

「帰ってきた」


 母に取り合う余裕が沸かず、彩里はいつになくぶっきらぼうに返した。そのまま玄関のドアを開けて自室に直行しようと思ったのに、母が近寄ってくる。口の中で舌打ちを嚙み殺した。


「もしかしてさぼったの?」

「だったら何、休めって言ったり行かなくていいって言ったりしたのに」

「……別に責めてるわけじゃないけど、もしまた学校で何かされたらちゃんと言ってね。あんたは友里と違って引っ込み思案だから。それから、冷蔵庫のアレ、彩里の?」


 もし友里を相手にしていたらこんな問答すらないのに。そうピリつく彩里に、母も唇を尖らせてきた。冷蔵庫のアレ、などと抽象的なことを言われても分からない。苛立ちを隠しもせず、彩里は母に体を向けた。「なにが?」


「何って、なんかプラスチックカップに入った……腐ってるのか何だか知らないけど、茶色っぽい塊。彩里のじゃないならもう捨てるけど。気持ち悪いし」

「……あとで確認するから。もういい? 部屋に行きたい」


 胡乱な目をして、彩里は話を打ち切った。母親は小言を漏らしているが、聞く気がないので耳に入ってこない。友里には何も口出しできなかった甲斐性なしのくせに、己には平気であれこれ命令し、言うことを聞かせることで躾をしている気でいる母親が堪らなく煩わしい。

 お前がそんな親だからあんな化け物が産まれ、人間の出来損ないとして育ったのだ。そうやって罵ってやったら、母はどんな声で泣いてくれるだろう。父はどんな顔で間抜けな説教をするだろう。母の小言を背中に受けながら、彩里は自室に入った。

きっとこの「妊娠」にまつわる呪わしい事件の発端は、姉の異常性癖によるものだ。「大好きな真優」に再び苦しんでほしくて、友里は子宝の呪いをかけに行った。だが、なんらかの要因で呪いは拡がり、自分どころか周りの人間をも巻き込んで、結果的に姉は自殺せざるを得なくなった。

 拳を握りしめると、ぼろぼろになった指先に痺れるような痛みが広がった。

 からん、と、音がして顔を上げる。カーテンが閉まったままの窓の向こうから、再びからん、と何かがぶつかる音がした。体に入った力が抜けないまま、彩里はブリキ人形のようにベランダに近づく。彩里の部屋からは裏の家との間にある細い路地が見えるのだが、塀の傍に人影があった。

 どうして彼女は、いつも自分が苦しいときに来てくれるのだろうか。


「彩里、どこ行くの」


 玄関を出ると、母はまだ庭木の手入れをしていた。洋裁教室は最近暇なのか、と嫌味を零したくなる。だが憎まれ口を叩く暇すらもったいなく感じ、「自習室」とだけ返して、彩里は恵真の待つ裏路地へ影を伸ばした。

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