3章 なにかある ③

 実を言えば、彩里が津村真優について知っていることは多くはない。

 高校入学して間もなくリオは不登校となり、学校を辞めたというが、ではいつから友里が真優と親しくなったのかというと、よく分からない。初めて津村真優という人間を認識したのは、彩里が中一の冬だった。年の瀬に、彼女は初めて柊家にやって来た。ぼろぼろのリュックサックに着古したパジャマだけを詰めて、仏頂面に少しの照れを滲ませながら「津村真優です」と名乗った。

 真優は、地域一の初詣客を誇るT神社で、新年の巫女のアルバイトをすると言う。自宅からでも通えるが、柊家からの方がはるかに近い。バイト期間中は泊まればいいと友里が提案したらしかった。両親は「友里のお友達なら大歓迎」と彼女をもてなした。朝五時に家を出る真優のために、早起きしては毎日車で送迎したくらいだ。友里と仲がいい、と認識すると、親の方までその距離感が狂ってしまうのが両親だった。

 友里に誘われて、彼女が奉仕する神社へ初詣に行った。参拝するのに一時間並び、お守りを買うのに三十分かかった。長屋のような社務所にずらっと並ぶ巫女さんたちの中から彼女を捜すのは至難の業に思えたが、友里は的確に彼女を見つけ出した。接客こそ直接してもらうことは叶わなかったが、目配せし合う二人を彩里はどこか不思議と温かな気持ちで見つめていた。同時に、手足に痺れを覚えた。危険を知らせる電磁波を、たしかにキャッチしたのだ。

 怖そうな人だ、と最初に思ったせいでよく認識できていなかったが、津村真優は美人だった。巫女の白装束に負けないどころか緋袴がよく映える白い肌に、きりっとした目つき。結われた長い黒髪は前髪も含めてすとんとしているのに、野暮ったくない。毛先に艶と潤いがあるから、という以上に、フェイスラインがシャープで鼻が高いためだろう。小ぶりな唇は、彼女を余計に人形めかせていた。

 姉好みの美しい少女だった。願わくは、姉と同じ「空っぽ」でいてほしかった。

 彩里が不安をひた隠しにする中、新年以来、真優が再び柊家にやって来ることはなかった。杞憂だと言わんばかりだったが、気にならない方がおかしい。


「津村さん、またうちに遊びに来たりしないの?」


 リビングでスマホをいじっていた友里は、「うーん」と間の抜けた声を出した。


「誘ってはいるんだけど、バイトとか家のことで忙しいんだって」


 バイトは分かるが。「家のことって?」

 なんの気兼ねもなく反射的に口にしていた。「うーん」と再び友里が鳴き声のような声を上げた。一瞬だけ、姉と目が合う。


「親がさ、まあまあやばいっていうか。真優、まだ保育園の弟がいるんだけど、ネグレクトってやつらしいよ。なんかアレなんだって、発達障害? 親が育てにくい子みたいな。それで代わりに保育園の送り迎えしたり、家でも面倒見たり? 親自体もあんま働いてないっていうか、収入不安定なんだって。だから真優、バイト漬けなの」


 何を言っても他人事になってしまうが、返事をしないわけにもいかず、彩里は「大変なんだね」と声を落とした。


「ねー。年誤魔化してガルバとかキャバで働けばいいのに。知り合い紹介したのにさ」

「それは……さすがにダメでしょ」


 苦笑いを浮かべるものの、姉が冗談で口にしているわけではないことは察していた。自分がそういう立場なら間違いなく、友里は効率よく金を稼ぐことを優先する。


「せっかく奇麗な顔で生まれたんだからさ、それ利用しないともったいないじゃん」

「お姉ちゃんはそれでいいかもしれないけど、普通の感覚ならダメだって分かるよ」


 今さら外見のコンプレックスを刺激されたとてどうしようもないことなのに、あからさまに脱法精神を説いた姉に、彩里は久しぶりに嚙みついた。

 友里は彩里に向き直った。美貌には薄笑いが刻まれている。


「でも彩里だって私と同じ顔をしていたらそう考えたんじゃない?」

「なにそれ、さすがに怒るよ」

「でもかわいく思われたいでしょ? 普通の感覚なら。――知ってるよ、私が風呂に入っている間、アイラインの練習、してるでしょ、離れ目、気にしていたもんね。言ってくれれば私がやってあげるのに。人の化粧ポーチわざわざ漁らなくても」

「ご、ごめんなさいそれは」

「私は怒ってないよ。妹のいじらしさがかわいいなぁって思っているだけ。『私は勉強にしか興味ありません』って顔しておいて、ちゃんと他人からの目を気にしているからむしろ安心したし、そっちの方がよほど健全だよ」


 姉の口から「健全」などという言葉が出てきたことに、彩里は慄いた。


「なんでかわいく思われたいかって、それが現代の人間の価値を高めるからだよね。今を生きているのにこの価値を高めようとしないのも、利用しないのも、もったいないことだと思わない? それを否定するのは僻みでしかないよ」


 たしかに美人とは得だな、と、彩里は諦観の念に襲われた。

 美人だからって何をしてもいいと思うな、と咎めれば「僻み」と嘲笑われる。苦言を呈するにも同じ土台にいなければならないのならば、もはや彩里に言葉はない。

そして美しいものには概して価値がある。風景、芸術、宝飾品、ヒトの見た目も同じだ。そういう価値観の元に育った姉に、彩里の善悪論などまるで意味がなかった。

 だが、それはあくまで柊友里の思想だ。

 彩里は諦観の中に必死で義憤の欠片をかき集めた。


「お姉ちゃんがそう思うのは別に止めないよ。でも世の中の全員が、見た目良ければそれでよしと思うわけじゃないし、何をしても許されるわけじゃない」

「まあ、それはそうでしょ」友里が不敵に口端を持ち上げる。

「私もお姉ちゃんも年を取る。いずれ皺くちゃのおばあちゃんになる。見た目なんか誰にも気にされなくなる。だから常に一番若い自分を奇麗に、かわいく見せたいと思うのは普通なことだと思う。でも、それだけで年を取ったら、お姉ちゃんはやっぱり、ずっと空っぽなまんまだよ」


 思えば喧嘩らしい喧嘩をしたことがなかった。友里は基本的に、怒らないからだ。親が滅多に叱らないという環境で反抗する機会もないし、彩里が時折噛みついても「よしよし」と犬を撫でるようにあしらわれてしまう。怒らせたいわけではないが、彩里は緊張の面持ちで友里の反応を待った。姉が本気で怒ったらどうなるのだろう。

 大した時間は流れなかったと思う。当時はまだ元気だった飼い犬の「ぽんず」が昼寝から起き、姉妹の間に割って入ってきた。白いふわふわのポメラニアンだ。

友里はぽんずを抱き上げた。身構える彩里に対して、


「何をそんなにピリピリしてるかと思ったら」と、肩を震わせる。

「彩里の言う通りだよ。私は頭も悪いし何にもやる気がない、将来のことなんて考えられないし、毎日なんとなく生きてるだけ。彩里みたいに夢や目標があって、それを叶えるために努力して、結果を出せる人間が羨ましいよ、すごいよね、彩里は」


 本気で褒めているとしても、話の流れから素直に受け取ることができない。

 ぽんずと鼻先をこすり合わせている姉に、彩里は拳を握った。


「じゃあ今から勉強くらいしたら。お姉ちゃんのことを好きでいてくれる人たちをもっと大事にしてあげたら。津村さんのこと好きなんでしょ、気軽に水商売を唆すようなことせず、真っ当に生きている今の姿を応援してあげればいいじゃん。お姉ちゃんの生き方を他人に押しつけたら、お姉ちゃん、本当にいつか独りになっちゃうよ」

「んー、でも彩里がいるでしょ。なんだかんだ彩里は私のこと助けてくれると思うし」


 傲慢にも程があるだろ、と言い切れないことが歯痒かった。図星だと感じたのだ。彩里は友里の異常性癖とも言える本性を知っていて尚、姉を好きでいる気持ちが薄れたことはない。――きっと、どれだけ苦言を呈しても、自分が姉を見捨てることはできないだろう。これはもう、宗教だ。姉妹としての圧倒的上下関係がある。何しろ、彩里は、友里が親に望んだから産まれてきた。「きょうだいがほしい」と願われなかったら、自分はこの世にいないかもしれない。そんな創造主のような姉と縁を切る未来など、彩里にはあまりに虚構じみている。

 骨と灰と化した姉を見下ろす自分を想像して、彩里は心の中で呟いた。


 ――ならせめて、人の迷惑にならないようにちゃんと死んでいってよ。


 そんな願いに反して、友里の不始末は数限りなく、死ぬ前どころか死んだ後も柊家、いや彩里を振り回したのだが、ともかく津村真優の話題を交えて、そんなやり取りをしたことはよく覚えている。

 肝心の津村真優と姉の関係は、事件が発覚するまで彩里には掴めぬことだった。

 彩里が次に真優を我が家で見たときには、彼女の外見は大きく変貌していた。

 シャープだったフェイスラインには肉がつき、全体的に一回り大きくなっていた。言葉通りの意味だ。彼女は太っていた、あるいはむくんでいた。怒りで鼻の穴が大きく広がり、ふうふう荒い息を吐く様は、神社で巫女のバイトをしていたときからは想像もつかないほど醜悪に見えた。

 姉妹揃って、最終学年の年の夏休み中だった。母方の祖父母に会いに、三日間茨城へ帰省していた。二十三時頃、我が家のガレージに車を収納した直後だ。

運転席側のガラスが強打された。べたりと女の顔が張りついた。

 後部座席にいた彩里はシートベルトをしているのに飛び上がった。両親も悲鳴を上げた。まだエンジンがついていた車では、下手をしたら急発進による事故になっていたかもしれない。ただ、あまりのことに父の手はシフトレバーを握ったまま硬直しており、パーキングに入ったままの車は強打の衝撃に微かな揺れを起こしただけだった。

 血走った目に、ぼさぼさの髪、何度も叩かれる窓と、何を言っているかは分からないがとにかく絶叫している女は、ゾンビ映画の怪物じみていた。


「警察を――」と父がようやく正気に戻る。「待って」と、止めたのは一人冷静なままだった友里だ。彩里は、姉がシートベルトを外す様を見て愕然とした。


「お姉ちゃん、待って」


 そう声をかけたときには、友里は後部座席のドアを開けていた。姉の名を呼んだ、いや呼ぶなんてものではない、名前ごと肉体を引き千切るような叫びがガレージに反響し、女が友里の襟元を掴み上げた。彩里はあまりの恐ろしさに、そのときの二人のやり取りを全く思い出せない。

 怯え、固まる両親をよそに、友里はその怪物を家に上げた。それが津村真優だとは、そのとき認識できなかった。母が「あれって真優ちゃんだよね、巫女のバイトのとき泊りにきた」と彩里に訊いてきて、やっと「そうかもしれない」と思ったくらいだ。姉を八つ裂きにしに来たと言わんばかりの迫力でやって来た相手と二人きりになるなんて正気ではないと思ったが、友里は真優と自室に籠ってしまい、家族の誰も二階に行けなかった。

 それから一時間ほどして、泣きはらした顔の津村真優と、へらへらしている姉という対照的な二人が部屋から出てきた。


「真優を家まで送っていきたいから、パパ、車出して」


 友里は体をくねらせるように父へ近づいた。さすがの父も何かを言いたそうな顔をしていた。だが、よその家のお嬢さんをこれ以上家に置いておくわけにもいかないと判断したのか、父は鍵を持って再び玄関を出た。

 彩里は、真優の背中を擦るようにして寄り添う友里の横顔を見て、呼吸を忘れた。

姉は恍惚に浸る顔をしていた。とても嫌いな人間を見る目ではなかった。だからこそ、やはり姉は再び親友を「壊した」のだと確信した。

 真優が夜中にも関わらず友里に会いに来た理由を、母は静かに語ってくれた。

彩里が記憶を飛ばしている間、両親はまんじりともせずそのやり取りをしっかり見ていたらしかった。

 話を聞いて彩里は言葉を失った。


「友里のせいで妊娠した。友里に騙されて知らない男に乱暴された」


 津村真優は繰り返し主張し、怒りに身を燃やしていた。それが事実なら当然だ、いや両親がこんなに、ともすれば呑気に構えている場合ではない。いやいやいや、両親より姉だ、あんな涼しい顔でいるなんてどうかしている。


「でも友里がそんなことするなんて信じられない、言いがかりじゃないのかな。だって津村さんって家庭が――育ちが悪いと――大体親が――」


 おどおどするばかりのくせに、他人への批判は一丁前だ。なんでも責任転嫁する母に猛烈な苛立ちを覚えて、彩里は後半部分をまともに聞けなかった。

 暗い顔をした父と、飄々としている友里が帰ってきてすぐに家族会議となった。彩里は飼い犬と遊んでいるふりをしながら、しっかり聞き耳を立てていた。額から鼻筋を撫でると、ぽんずは気持ちよさそうに目を細めている。


「津村さんが妊娠しているのは本当なの?」母が問う。

「うん、検査薬陽性だって」

「まさかあの子の言っていることが本当だなんてことないでしょう?」

「私は騙してないよ、ただお金に困っていたみたいだから、支援してくれる人を紹介しただけ。男に変なことされたなんて私は知らない、本人もそのときに気づいていないなら眠剤でも盛られたかもねって話はした」


 支援って。母が絶句する。さすがにぼかした言葉の意味くらいは把握できるか。彩里は少し安心した。そこまで蒙昧だったらどうしようかと思った。


「なんであなたがそんなことするの」

「真優が好きだから。修学旅行もお金ないから行かなかったんだよ、可哀想でしょ。一緒に大学行こうねって話したのに就職するって言うし、弟にご飯食べさせるために自分は電車代ももったいないって――お金さえあればっていつも言ってたから」


 友里は決して同情を誘うような喋り方はしなかった。ただ自分の中で起こった事実をカンペ読みしている、そんな朴訥ぶりだった。だからこそ姉の異常さが際立つ。彩里はぽんずを抱き締め、その温かさだけに救いを求めた。

 自分は悪くないと本気で思っている友里に、両親が追及を強めることはなかった。


「向こうの親御さんはこのこと」

「最近は家に帰ってこないらしくて、一カ月くらい顔も見てないって言ってたよ。だから話してないって」

「当然、中絶するんだよね」


 その問いかけとも懇願ともつかぬ母の言葉に、友里は答えなかった。今まで淀みなくすらすら喋っていたのに。彩里は思わず振り返った。ダイニングテーブルに肘をついて、姉は無表情だった。

 なんとなく、彩里には姉の無言の意味が分かっていた。

 姉の自室に籠った秘めやかな一時間、姉が素直に謝罪し、阿り、慰めたとは考えられない。何か、自分の都合のいい方へ導く甘言を囁き続けていたのではないか。

 津村真優には頼れる親族がいない。ネグレクトされている弟を必死で養い、守り、自分の生活は犠牲になっている。そんな状況で誰とも知れぬ男との間に妊娠したとなれば、その精神状況が著しい異常を来していてもおかしくない。現に、彼女はストレスによる過食と思われるほど太っていた。

 生活困窮に喘いでいたという彼女が、だ。


「大丈夫、なんとかなるよ。産んだらいいよ、真優なら良いお母さんになれるよ。お金なんていくらでも稼ぐ方法があるよ、シングルマザーなんてそこら中にいるよ。中絶だって大変だよ、いつか子供ほしいって言ってたでしょ、今なればいいよ。大丈夫、なんとかなるよ、なんとかなる、私がいるよ、傍にいる」


 無表情の姉は一言も喋らなかったのに、彩里の脳内には軽薄に寄り添う彼女の声が響いていた。悪魔の囁きだ。妄想だ。幻聴だ。だけどたしかに、友里の声だ。

 両親はいつもどこか楽観的だ。だから夏休みが明け、友里に津村真優のことを尋ねても、友里が「大丈夫大丈夫」と適当な返事をするだけで引き下がる。大丈夫なわけがない。彩里は粛々と内部進学に向けて、成績優良者としての地位を守ることに専心した。額縁の外に、見たくない現実を追いやることだけが日常を守る唯一の術だった。

 友里がオープンキャンパスに出かけた日、家には母と彩里だけがいた。

 インターホンも鳴らさず、強引に家の柵を乗り越えて、その人はテラスから家に押し入ってきた。ぽんずが激しく唸り、吠えたてる。それが逆に彼女を刺激した。

哀れ、ぽんずは蹴り飛ばされて家の壁にぶつかり、失神した。彩里は母と昼食の準備をしていて、咄嗟に包丁を構えていた。それを制しながら、母が叫ぶ。


「な、なんですかあなた! 警察、警察呼びますよ!」

「ふざけんな、こっちの台詞なんだよ! てめぇ、後ろのガキ! お前が柊友里か!?」

「違います友里はいません! 近寄らないでっ!」


 母と共にキッチンの隅に後退する。女はテーブルの上の皿を叩き落とし、ぎらぎらした目で家中を見回した。けばけばしい金髪のショートヘアを振り乱し、物色するような卑しい目をしている。無数に空いたピアスの穴は妙に痛々しく、化粧の濃い派手な顔は高圧的だった。が、チークとは明らかに異なる赤い腫れが左頬にあって、そこに視線が集中する。


「うちの娘に妙なこと吹き込みやがって! てめぇんとこのガキに責任取らせてやるから覚悟しろよコラ、おい、アタシの知り合いにプロがいるからよ、てめぇら全員どうなるか分かってんだろうなおい、落とし前つけろや!」


 こんな口調の女性が――いや人間が実在するのかと、彩里は身震いした。脅迫による単純な恐怖もあったが、それ以上に未知の怪物に遭遇したような怖気ゆえだった。

 津村アユカと名乗った女性は、アルコールと煙草の臭いを巻き散らし、「慰謝料を払え!」と怒鳴り、暴れた。首筋に伸びた蛇のタトゥーは、紅潮した皮膚のせいで一段と凄みを感じる。近所の人が悲鳴と怒声に緊急通報してくれたおかげで五分と経たないうちに警察が家に来て膠着状態は終わったが、母は警察に同行し、父が帰ってくるまで彩里はお隣の家で泡を吹いているぽんずを布で拭うことしかできなかった。

 その後、父が家に戻り、ぽんずを動物病院へ運んだ。蹴られた衝撃で内臓が傷ついたようで、即手術、入院となった。慌ただしく彩里を自宅に戻した父は、母が聴取を受けている警察署へ向かい、彩里は再び孤独になった。友里はちっとも帰ってこないし、連絡もつかなかった。どうせオープンキャンパスなんてそこそこに都内のどこかで遊んでいるのだろう。

 直接会話することは難しいとのことで、両親は警察から間接的に情報を教えられた。

 津村アユカは自称フリーターで生活保護を受給している。アルコール依存症で、柊家に激情のまま押し寄せたのも酔った勢いだったという。

 ――まだ三六歳ということに驚いた。彩里の担任の先生より若い。

 長女の妊娠に気づき中絶させようとしたが既に可能期間を過ぎており、なぜ相談しなかったのだと問い詰めたところ逆上され、殴られた。左頬の腫れはそのせいだ。娘と喧嘩になり、柊友里の名前が出たので学校に問い合わせた。そうしたら娘は夏休み明けから不登校気味で、担任が言うには夏休み前から柊友里のグループからハブられていたらしい! 真面目だった娘がそんなことになったのは全部柊友里のせいだ!


「じ、自殺……?」

「未遂だ。母親と喧嘩して、衝動的に――ベランダから飛び降りたらしいけど、下の住人が部屋の前の植え込みの上に敷布団を何枚も干していて、それがクッションになって助かったみたいだ。大きな怪我もないが妊娠中期ということで入院している」


 また聞きのまた聞き、という形でも、ショックが和らぐことはなかった。

 中三の多感な次女に対して言葉を選ぼうとした姿はあったが、父は警察から話されたことを恐らくそのままに伝えてきた。ネクタイを緩めて苛立たしげにソファへ座り、着信のないスマホを睨んで溜息をつく。


「友里はどこで何をしているんだ。返事もろくにしないで。もう八時だぞ」

「あの子まで何かに巻き込まれていたらどうしよう、もう一回警察に、」

「これ以上恥をかくのはごめんだ。店に影響が出たら困る」

「そうだけど、このまま帰ってこなかったら……」


 今さら姉の夜遊び程度に右往左往しているのかと冷ややかな気持ちになりつつ、彩里は「ねえ」と遠慮がちに声をかけた。両親の目が彩里に向く。


「津村さんの赤ちゃんは大丈夫なのかな……?」


 尋ねた瞬間、ぴりぴりしていた空気が澱んだのが分かった。果実が目の目で腐り落ち、その飛沫が顔にかかったような不快感が彩里を襲う。


「何を言い出すかと思えば」

「そんなことか」


 両親は一言も喋らなかったのに、彩里の耳の中に彼らの心の声が反響する。

 知りたいことや確認しなければならないことは山ほどある。津村アユカとこれからどう対峙していくのかとか、友里がいじめに加担していたことの事実調査だとか、ぽんずの容態についても話したいし、自分の内部進学に影響があるのかとかも知りたいし、――でも、姉のせいで妊娠したと訴えてきた少女が自殺未遂をして、なぜこんなに他人事でいるのか、その理由を一番知りたい。彼女の体にはたしかに命が宿っていて、まずはそこを真っ先に案じるべきではないのか。


「私、何か変なこと言ってる? 心配するのがそんなにおかしい?」


 無言の両親を無意識のうちに睨んでいた。彩里がそんな顔を向けてくるとは思わなかったらしい母が「そうじゃないけど、ねえ?」とその場しのぎの声を出す。目配せされた父は「こればかりはよその家のことだしなんとも」と曖昧に濁した。


「子供を育てるって大変なんだよ、分かるだろう? お金がかかるし、自分の時間もなくなる。彼女の親はアレだって彩里もよく分かっただろ、ああいう親じゃまともな助けにもならないし、産んだところで」


 正論と疑わぬ澄ました顔をした父にカッとした。視界が赤く染まった気がした。だが彩里の舌が烈火のごとくうねる前に、「ただいまー」という声が玄関から響いた。家族全員が玄関へ飛び出る様は滑稽だっただろう。

 諸悪の根源は、髪を明るく染めて帰ってきた。


「見てよこれ、自由が丘でカラーモデル頼まれてさ、タダでやってもらった」

「友里! なんで連絡してこない! どこにいるかくらい返事をしろ!」


 父が声を荒げた。

 定型文以下の説教になんの意味もないが、苛々していることは伝わってきた。


「えー、だってオープンキャンパスで模擬授業とかサークル活動体験とかあって忙しかったし。美容室でも電車でも爆睡してたし」


 悪びれもせずに友里は家族の横を通り過ぎていく。さすがにそのまま自室に行かせることはなく、姉はリビングに押し込められた。今日一日の騒動に加えて、なぜ津村真優がいまだ妊娠していることを教えてこなかったのか、彼女をグループから疎外していたのは事実なのかと追及の矢は鋭かったが、姉がまともに反応したのは津村真優の自殺未遂に関してだけだった。


「え、子供死んだ?」


 真顔の姉は妙な迫力があった。両親は押し黙る。


「いーや、本人に訊く。スマホくらい病院で使えるでしょ。あ、でもワイファイないと使えないか。病院ってワイファイ通ってるのかな、なんてとこ?」

「なんでワイファイ……」父が困惑する。

「真優、自分のスマホ持ってないから。高一のときに私のお古あげた」

「ちょっと待って、あげたって――」母も困惑する。

「いや、なんで、みんなおかしいよ、そうじゃなくて……そんなこと本人に訊く?」


 彩里のたれ目に涙がたまる。今日は昼間から散々だ。わけのわからぬ言葉を吐き出す怪物が家の柵を飛び越えて我が家に土足で入り込み、愛犬は蹴り飛ばされて泡を吹いた。両親は相変わらず姉の無罪だけを妄信しているし、姉は呑気に髪を染めて帰ってきて、我が腹の中でたゆたう命を失ったかもしれない親友にその結果を尋ねようとしている。みんなおかしい。おかしくなっている。元からおかしい――


「あ、返事きたわ、早、暇じゃん。……なんか大丈夫みたいだよ、ヒツジミズのおかげだって、てかヒツジミズって何?」


 あははは、と一人笑い出す友里を、家族全員が呆然と見ていた。

 本当にもう、散々だ。

 結局、ぽんずは予後が悪くて死んだ。

 そのあと、津村アユカが高校に乗り込んで、騒ぎになった。


「津村真優が不登校になったのは友里たちのせいである」と喚きたて、学校側が調査しないならマスコミに自殺未遂のことを告発すると脅したという。

 自殺未遂に至ったのは学校と無関係ではないかと彩里の両親は冷笑していたが、

「柊友里から謝罪がなければY女子学園に連絡する」と津村アユカから電話があった。Y女子学園は彩里の通う私立校だ。彩里の成績と内申なら内部進学に陰りがあるとは思えなかったが、余計なトラブルを持ち込まれるのは困る。彩里を含め、両親も泡を食う有様だった。

 代理人を通して津村アユカに接触し、友里の非を全面的に認めた上で謝罪した。どうやら津村真優は母親に妊娠の真相を明らかにしていないようだった。それならばあえて口にする必要もないと、両親はそのことには一切触れず、「いじめのような行為があってお嬢さんの心を傷つけたことを詫びる」と伝えた。


「いじめのようなじゃなくていじめなんですよ。家庭の事情で修学旅行に参加できなかった津村真優さんのことを裏で『ボンビー』呼ばわりして、彼女と話すと貧乏神が移るとか、アルバイトが多く友人と交友関係をなかなか持てないでいた彼女に、援助交際や裏バイトの噂を流すだとか、これは人権侵害なんですよ分かりますか?」


 ――母が録音してきた相手方の弁護士とのやり取りを、彩里は数回聞いた。姉の口から発せられる「申し訳ありませんでした」を聞くためだ。あの姉が謝った。演技だったとしても、本当に申し訳なさそうな声音で謝った。


「彩里のためなら別に大したことじゃないよ。二週間くらいの謹慎なら卒業にも影響出ないって先生も言ってたし。出席日数守っててよかったぁ」


 後日、感じる必要もないはずの自責の念に駆られていた彩里に対し、友里はあっけらかんと言った。

 友里以下四名の少年少女が二週間の謹慎処分となった。津村アユカは退学を求めたようだが、津村真優が断固としていじめの被害を認めなかったことから、それ以上の罰則に至らなかった。これ以上揉める前にと、両親が和解金という名の口封じで三百万円も払ったのが一番効いただろう。

 彩里の進路、将来、そんないまだ形のないもののために姉は謝罪し、両親はお金を渡した。その事実は、「これで万事解決だ」と思えない彩里を余計に苦しめた。

内部進学に問題が生じることはたしかに恐ろしかったが、一人の人間を傷つけ、苦しめ、その身に宿る命のことすら軽視していた家族が、甘やかしてきた友里を説得してまで「謝罪」と「和解」を選んだ理由が自分の未来だと思うと、その肩にかかる重みが増した。

 医者になりたいと志し、勉強をしてきたのは自分だ。そのために両親は惜しみなく支援をしてきてくれた。感謝している。だけど、人間として守るべき倫理観からではなく、その選択をしたことには言いようのない絶望を覚えた。両親が見ているのは、今の彩里ではない。医者になった彩里の幻影だ。もし医者になれなかったら――そう思うと、頭痛が増した。


「大丈夫だよ彩里ぃ、もう解決したんだからそんな顔しなくていいんだよ」


 二週間の謹慎なんて友里には痛くも痒くもないことだった。暗い顔で学校へ向かう彩里の肩を叩き、寝間着姿の友里が息を吹きかけてくる。


「彩里はほんとに自慢の妹だなぁ。妹がほしいってお願いしてよかった」


 ――それから間もなく、津村真優は退学し、子供を産んだという。

 だが、その子供も生後四カ月頃に亡くなった。理由は知らない。虐待や事故の類ではないらしい。「乳幼児がなんの前触れもなく亡くなることは昔からよくあること」だ。津村真優の子供にもなんら異常は見つからず、死因の特定はできていない。

ちょうど同じタイミングで、津村アユカは保護責任者遺棄罪で逮捕された。津村真優の弟――つまり自身の息子を、意図的に夜中の線路へ置き去りにしたのだという。少年は架線点検の作業員に保護され事なきを得たが、貨物列車に轢断されていたら肉片と化していただろう。


 恒常的なネグレクトも認められたことで、息子は保護施設に引き取られた。


「どうせ反社との付き合いだってでまかせでしょう。そういう脅しで金を得た経験でもあったのかもしれませんね。あの手の輩は一度でも縁ができると延々と金を毟りに来ますから、捕まってよかったじゃないですか」


 父の高校時代の部活の後輩だったという弁護士がビールを飲みながら哄笑したのを、彩里はよく覚えていた。津村アユカの一件での労いをかねて柊家に招いたときだ。両親の同調と安堵は、これでもう悩まなくていいのだと高らかに謳うようだった。母親が刑務所に入るだけではなく、津村真優の子供は死に、娘の犯罪加担の事実は有耶無耶になって、誰の追及を受けることもない。

 真優と友里の奇妙な友情とも、依存とも言える関係は出産後も続いていた。両親はいい顔をしなかったが、友里がアユカ不在のアパートを訪れていたことは事実だ。真優はたった一人で、自身の子と、小学生になったものの学校に馴染めない弟の世話をしていたのだろう――それを思うと、不憫でならなかった。

 同時に、あんな姉でも心の支えになっていたのではないかと肯定的にすら捉えたくなった。そもそもの元凶は姉であるのに、そんなことを思ってしまうほど津村真優は気の毒な身の上だった。


 我が子を失い、庇護していた弟も養護施設に引き取られて以来、彼女は赤子を模した人形を抱くことで精神安定を図るようになった。初めてその姿を目の当たりにしたときは、さすがの彩里も気味悪がってしまった。だけど、彼女を家に連れてきた友里はまるで平気な顔をしていて、彩里同様、顔を強張らせていた母親にティーセットを要求し、自室へ入っていった。

 友里は既に大学生活をスタートさせてしばらく経っていた。「まだあんな子と付き合ってるの?」と母は嫌悪を丸出しにしていたが、さすがに本人の前では露骨な態度は出さなかった。むしろ、そのときは彩里の方が冷静でいられず、「久しぶりだね」と話しかけられたのに「ですね」と冷たく返してしまったくらいだった。

 あんなことがあって親しくし続けられる方が異常だ。


 友里のせいで妊娠した。はぶられた。子供を産むことになった。親と揉めた。子供が死んだ。親が逮捕された。弟は施設に入った。自分はいまだ、柊友里と共にいる。周りから見れば筋が通らぬ関係性だ。

 だけど、彩里には全ての糸が繋がって見えた。

 津村真優は、姉の理想の姿に達したのだ。空っぽになったのだ。

 死んだ赤ん坊の代わりに、純白のおくるみに包まれた人形を抱いて微笑む彼女を見て理解してしまった。柊家のガレージを襲撃したときの醜悪さは、まるでなかった。憑き物が落ちたと言うほかない。元の彼女に戻った――あるいはそれ以上に、奇麗だった。剥き出しの氷柱のようだった美貌は、儚げな雰囲気によって彫刻され、その透明度が増して見えたし、行き場のない母性本能が溢れているのか、周囲に対しても実に和やかな態度が強調される。そんな彼女を、友里がとろけるような目で見ている。

姉の人形が、人形を愛でていた。


「ちゃんと心療内科? には通っているみたいだから大丈夫でしょ。鬱っぽいけど、子供が死んだことは理解してるし。あの人形は精神安定剤みたいな感じなんだって。そんな化け物見るような顔しなくても、私に何か害があるわけじゃないから安心して」


 真優が帰ったあと、友里は母と彩里にそう説明した。

 母は彼女と縁を切ってほしそうだったが、言ったところで姉が恭順するわけがない。真優とは生活圏が被ることはなかったが、姉と出かけた先でばったり出くわしたことが何度かあった。そのときも人形を抱いていた。周りからは変な目で見られていたが、友里と真優だけは気にしていないようだった。

忌避か、受容か。どちらが正しい選択か、普遍的な思考か。

迷う必要もない中で、彩里は努めて平静に真優と話をした。真優は嬉しそうにしていた。「一緒に出かけられてよかったね、ユリちゃん」と、人形を撫でながら。

 もはや本当に我が子が死んでいることを理解しているのか、人形自身を本当の我が子として扱うことで心のバランスを保っているのか、彩里には踏みこめない。

 踏みこめないながらに、確信していることもある。

 姉にとっての歓びは「大好きな可愛い女の子が辛い目に遭うこと」だ。

 それが性的興奮材料であるのか、ただの嗜好であるのかなんてどうでもいい。

 津村真優の子供が生存していたとしても、きっと彼女は苦しんだはずだ。

 言葉では如何様にでも優しくできるが、父親不明の子供を未成年の少女が育てていくことは容易ではない。ましてや、真優は家族関係に問題のある少女だった。もしかしたら、精神的疲労から我が子を手にかけてしまったかもしれない。どうにか持ち堪えたとしても、先行きは不透明、細い糸を手繰る人生ではないか。その不安に打ち勝てるだけの希望を、真優は抱けただろうか。

 姉に目をつけられた時点で、彼女はこうなる運命だったのかもしれない。

 今までの「親友」とは違った点はきっと、真優がとりわけ家族に献身的で、友里に依存しなかったことだろう。友里を優先しすぎることも、過度な接点を求めることもなく、彼女はフラットだった。究極の秘密を明かす過ちも犯さなければ、志望校のランクを落とすなんて愚かな真似もしない。


「バイトあるから」「お金ないから」「弟の面倒見るから」


 真優はそうやって、友人たちの誘いをあっさり断ってきたのだろう。

 焦らされたあとの食事がおいしいように、友里は舌なめずりをして待っていた。津村真優が自分と同じ空っぽになって落ちてくるのを待望していた。

 ――だけど、もし、津村真優がなんらかの理由で姉の本性を知ってしまったとしたら。自分が、いや、自分の子供すら、姉の欲望を満たすための存在だったと知ったら、あのガレージで目撃した激情が甦ったとしてもおかしくない。

 藤崎が「馬鹿にした」という「おくるみ女」はきっと真優だ。そして彼女は、友里の死から何度か柊家周辺を探りに来ている。なんのために?

 友里の死は両親の意向で真優には伝えていないはずだが、もし呪いの実行犯が彼女であるなら死んでいることを知っていてもおかしくはない。


「彩里ちゃん。スマホ、見て。電話きてるよ」


 無意識のうちにノートに思考を出力していたらしい。彩里は恵真に肩を揺さぶられ、慌てて床に置いてあったスマホを手にした。藤崎からだ。


「出なよ。私は事情も知っているし」


 恵真は真剣な顔で頷いた。彩里はジェスチャーで礼を言う。

 電話口の藤崎は開口一番に「動いてるの」と叫んだ。


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