3章 なにかある ②

 呪いは実在する。

 人の体に何かを宿す呪い。クセヤミを引き起こる呪い。

 藤崎が理由も説明されないまま学校に来なくなった途端、奇異の対象は彩里から彼女に移った。


「連絡がつかない」

「ゲロってるんでしょ」

「あのお腹やばいよね」

「吐いていたのってもしかしてさ」

「彼氏とかいたの?」

「知らない」

「Pとかやってたりして」


「あの見た目で?」


 くすくすと棘のある笑いが広がっていく教室内はおぞましい。

 学校の外でも彩里の心が安らぐことはなかった。

 アンバースデーの代表はわいせつ物頒布等罪で逮捕され、友里は立件こそされなかったものの、友里に騙されてわいせつ動画を撮ることを同意してしまったと訴えてきた女性が和解金を求めてきたのだ。両親は女性を「嘘つき」呼ばわりしていたが、警察と弁護士の双方から促され、和解金を払うことで決着した。友里の悪行を裏付ける調書は彩里の国語の教科書より分厚かった。その中身は見ていないが、両親を屈伏させるには十分なものだったのだろう。

 今は、その調書よりも藤崎のことが何より気がかりだった。


「これで虐められなくなった」とほっとするどころか、一層の胸糞悪さを覚えられた自分に安堵した。まだ、自分には人の心がある。

 これが呪いであれば行く先は彼女の死だ。いもしない「我が子」に怯え、こんなわけのわからぬ存在を産むくらいなら死んだ方がマシだと心が擦り切れる。姉のように。いや、野良妊婦Eのように、殺された女子大生Aのように。この恐怖に取り憑かれた、何人もの人間と同じように。

 高一で同じクラスになったとき、事務的に一度だけ交換した年賀状を引き出しの奥から引っ張り出して、藤崎の住所を確認した。近隣市だ、すぐ行ける。

 彩里は学校からそのまま、彼女の家へと向かった。電車に揺られながら、胸に燃えるのは使命感だった。これ以上、周りで人が死んでいくのは嫌だ。

駅から歩くが、藤崎の家は彩里の家よりも大きく、立派な邸宅だった。「藤崎税理士事務所」の看板が掲げられている。自宅兼事務所というわけか。

指先に必死で力をこめ、震えを殺した。インターホンを鳴らすと、犬の鳴き声が近づいてくる。庭先を駆けてきたのは白い大型犬だった。犬の鳴き声に混じって、「どちら様ですか」とドアホンから女性の声が聞こえてくる。


「あの、私、藤崎さんと同じクラスの柊彩里と言います。クラスの代表として藤崎さんのお見舞いに来ました」

『そうですか、ありがとう。犬がうるさいでしょう、ごめんなさい、どうしてか最近気が立っていて。迎えに行きますからお待ちくださいな』


 間もなく、小走りで玄関柵まで女性やって来た。眼鏡姿の小太りな体型だが、走る仕草や表情は愛嬌があって、一目で穏やかな気風が伝わってきた。犬にハンドサインを出して落ち着かせると、藤崎の母親は改めて名乗り、彩里を邸宅に招き入れた。


「藤崎さんの具合はどうですか」

「それがよく分からないのよね、ゲーゲー吐いたかと思ったら微熱が続いていて、この数日は部屋にこもりっぱなし。でもご飯は食べられるみたい。むしろ前より食欲旺盛というか。まあ、受験のことでけっこう神経質になっていたから、ストレスでしょうね。あなたもあまり根を詰めたらいけないわ、どの大学に行くかよりも大学でどう過ごすかの方が大事なんだからね」


 おおらかな意見に愛想笑いで返事をする。生活臭のある邸宅内は、テレビの音が大きく聞こえた。庭からは、また犬の吠える声がする。藤崎の部屋へ近づいていくにつれ、心拍が上昇する。汗が噴き出てくる。湿った手の中には、便箋を忍ばせていた。

 母親が藤崎の部屋のドアを叩く。彼女に客人が来ていることを告げると、名前を問われた。――私は柊彩里、お前にいじめられていた人間だ。心の中で名乗るのと、母親が代弁してくれるのは同時だった。彩里の名前を聞いた瞬間、ドアが内側で激しく打たれた。何かを投げつけられたらしい。


「顔なんて見たくない! 帰れ!」


 奇声じみた怒鳴り声が吹き抜けの階段を抜けていく。

 彩里はその声に驚いたふりをして、咄嗟に鞄を落とした。鞄を拾うふりをして、そのまま膝を床につけ、母親の足下からドアの隙間に向かって便箋を滑り込ませる。部屋の向こうからは藤崎の癇癪が響き、彩里は困惑している母親に申し訳なさを覚えつつ、逃げるように藤崎邸を後にした。

 便箋には、自分の携帯番号と藤崎の身に今起こっていることを肯定し、助けになりたいという旨を書き記してある。もしかしたら電話が鳴るかもしれない、と思うとそわそわし、自宅の最寄りより手前で降りて、線路沿いを歩いた。汗で制服が張りつく。二十分ほど歩くと最寄り駅の風景が見えてきて、鳴動しないスマホに焦れた。駅前の小さな緑地公園で涼みながら、スクールバッグから水筒を取り出す。口をつけて空であることに気づいた。

 その直後、真横から手が伸びてきた。体が竦んだ。


「はい、どうぞ」


 恵真が立っていた。

 差し出されたペットボトルを受け取りながら、彩里は目を白黒させる。


「恵真さん、なんでここに」

「ちょっとね。彩里ちゃんこそどうしたの、家に帰らないの? 体調でも悪い?」


 恵真が座れるように、ベンチの端に寄る。


「……呪いの話、恵真さんは信じてくれるんですよね」

「科学で説明できない現象が起こっているならね」

「私の同級生が、呪われたかもしれない――いえ、呪われました」


 そう呟いた瞬間、公園の端で談笑していた婦人たちが何かの話でどっと沸いた。

 だが、恵真はにこりともしなかった。

 引き結ばれた唇は音を発しない代わりに、眼差しだけは彩里を射抜いた。

 藤崎の一件を語る口は重かったが、恵真ならば受け止めてくれる。

 その一心で話をした。

 どこかで赤子の泣き声がする。無意識にその姿を探していた。特徴的なだみ声は耳に障る。だけど必死で何かを訴える意志を感じさせる。善悪を超越した生命力の塊だ、だから赤子は尊ばれ、尊ぶべきなのだ。彩里の中で、思想が蠢く。


「でも、よかったね」


 赤子の声に気を取られていた彩里は、何が「でも」なのか要領を得ずに「ん?」と小首を傾げた。恵真は涼しげな顔をしながらささやかに笑った。


「いじめられなくなったのならよかったよ」


 彩里は声を詰まらせた。たしかに、事実として静かな学校生活は戻ってきた。だが、「よかった」の一言でほっとできるならこんな風に話やしない。本気で言っているのか。彩里は恵真をまじまじ見つめてしまった。


「あれ、何か変なこと言った?」


 恵真がきょとんとする。その瞬間、彩里は姉の面影を彼女に見出し、臓腑が冷えた。

 本気で自分の身を案じてくれているが故の発言だとしても、彩里は価値観の相違に眩暈を覚えた。このままでは、藤崎は呪いで死ぬのだ。よかったとは言えない。


「汗かいてるよ。飲みなよ、それ」


 恵真に促され、彩里は冷えたペットボトルを口に含む。思えば、授業以外で会うとき、恵真はいつも差し入れをくれる。


「なんで恵真さんは私に優しくしてくれるんですか?」


 赤子の泣き声はもう聞こえなかった。恵真が困惑したように微苦笑を浮かべた。


「なんでって、彩里ちゃんが好きだからだよ」


 嬉しい言葉のはずなのに、姉がちらつくせいでちっとも気持ちは浮つかなかった。

 恵真とはぼんやり別れ、彩里は電話を待つのを諦めて家に帰った。既に母が夕食を作り終えていて、「今日もお父さん遅いらしいから先に食べて」と指示される。言われるがまま食べ、食器を片付け、風呂に入った。脱衣所で己の腹の皮下脂肪を摘まんだ。毎日確認している。特別、変化のない平坦な腹に安堵した。

 死んでいった人間たちの腹の中には、何がいたというのだろう。

ドライヤーで髪を乾かしていると、衣類棚に立てかけていたスマホにメッセージがきた。彩里は髪が濡れているにも関わらずスマホ握りしめて自室へ走った。

 藤崎からのショートメッセージだった。


【藤崎だけど。なんで知ってるの】


 そのぶっきらぼうな短文に、彩里は慌てて返事を書いた。すぐの電話より文面の方が伝えやすいこともある。


「自分の姉もそうなって自死を選んだ」そう打ち込んでから「妊娠症状があって怖いんだよね」と追撃し、「一緒に解決策を考えたい、助けたい」とダメ押しした。

恐らく誰にも共有できない恐怖だっただろう。いじめていた彩里相手でも返事をしてくるあたり、藤崎の精神の摩耗は簡単に想像できた。

 既読のマークがつく。一分、二分、返事が途絶える。それでも彩里は待った。

 スマホが震えた。登録のない携帯番号から着信があった。


「――もしもし」


 硬い声で電話に出る。「藤崎さん」と名を呼ぶと、嗚咽を押し殺しながら「助けて」と一言返ってきた。


「症状が出始めたのはいつから?」


 彩里も声を潜めながら尋ねた。


『なんとなく具合が悪い気がしたのは、コース別授業が始まったとき。ちょっとお腹が痛いとか、その程度。そのあと段々、昼休みのお弁当とか、おにぎりの湿った海苔のにおいとかが気になるようになった。教室で吐いたとき、一緒に食べてた子のお弁当に麻婆豆腐があってその臭いがとにかく不快で』

「うん、つらかったね。体調が悪くなる前に、何か変化はなかった? 誰かと会ったとか、どこかに行ったとか、普段とは違う行動を何かしなかったかな」

『わ、私、彼氏とかいたこともないのに、そんなことしたことないのにっ』

「うん、藤崎さん、落ち着いて、私はあなたがそんな軽はずみなことをする人だとは思っていない。なんでもいいから、話してみて」

『お前ら姉妹みたいに平気で男と二人きりでいるようなビッチとは違う、私はそういう人間じゃなくてまともで』

「……そうだね、分かるよ。だから知りたいんだ、何か、こうなる前になかったかな」

『馬鹿にしたから……きっとそれで』

「え?」


 急に感情だけ抜け落ちたようだった。ぼんやりとした口調の藤崎に、彩里は困惑する。「私のこと?」と慎重に確認するが、返ってきたのは「おくるみ女を見たから」という奇妙な一言だった。


『知らないの、SNSでたまに流れてくるのに。H市の公園にいるやばい女のこと。一日中公園にいて、白い布で包まれた何かを抱っこしてる。最近は見なかったのに、塾の帰り道に見かけたの。公園じゃなくて、商店街で――普通に買い物していて、なんだコイツもただの人間なんだなって思って』

「馬鹿にしたの? 声をかけたってこと?」

『さすがに声なんてかけてない。でも、やっぱり何かを横抱きしていて、近くで見たら思っていたよりずっと若くて、化粧も派手で、やっぱりこういう『顔』の女は先のことをまともに考えられない馬鹿なんだって思った』


 彩里は声音に感情が混ざらないよう自制しながら頷いた。

 藤崎の中にあった差別意識が言語化されて、鼓膜を犯していく。「男に依存しないと生きられない」「後先考えないからすぐ子供を作る」「若さと見た目以外に何も持たない空っぽな存在」――藤崎の攻撃的な思想が、再び彼女の語気を荒くしていく。


「藤崎さんは、それでどうしたの?」


 彩里は思い切って腰を折った。藤崎が胡乱な声を出す。が、「それで」と促されたことに対して答えようとした彼女は、あからさまに声のトーンを落とした。


『こんな馬鹿女の子供はどんな顔をしているんだろうって、見たくなって。後をつけた。歩道橋を上っていくのを追い越して、そのときに見た。人間じゃなかった』


 父親が帰宅する音が薄ら聞こえてきた。

 彩里は息を飲んで、すっかり熱の籠ったスマホを持ち変える。


「赤ちゃんの人形じゃなかった? 目も、唇も、褪せてのっぺらぼうみたいになっている人形」


 彩里が思ったことをそのまま口にすると、藤崎が悲鳴じみた喘鳴を出した。


『や、やっぱりあれは……あの女は、』

「落ち着いて、ゆっくり息をして。その女の人に何かしたわけじゃないんでしょう」

『でもでも、そのあとからどんどん私おかしくなってる、今だって、うぅ……お腹、膨らんできて、太ったって親には誤魔化してるけど、絶対ないって、ありえないって分かってるのに、私の腹に何かがいる』


 見てはいけないものを見たのだと、藤崎が泣き出した。

 彼女が落ち着くまで彩里は通話を切らず、話をしてくれた礼を伝え、決して自暴自棄にならないでほしいと念押しした。きっと誰にも信じてもらえず、頭がおかしくなったと困惑されるかもしれないが、自分だけは味方だと訴えた。

 一時間も通話していたせいで熱を持ったスマホを机の上に置く。エアコンが効いた室内から、ベランダに出た。彩里の部屋は玄関の真上に位置する。九月も下旬に入ったが、いまだぬるい風が季節感を荒らしていた。

 おくるみ女、なんて妖怪のように語られているとは知らなかった。

 彩里には、藤崎が目にした茫洋とした若い女の正体が分かっていた。そんな人物が他にもいるなら、それこそ怪談じみている。だからこそ、嚥下できない奇妙な感覚が脳内にガスを充満させていた。

 ――まさか彼女が。

 家族が寝静まったあと、彩里は友里の部屋へ向かった。

 もう散々、手がかりは探し尽くし、ろくに行動歴を辿れなかった事実があったが、それでも一縷の望みに縋った。姉の部屋にいることで、少しでも彼女のトレースができれば、と思ったのだ。そんな神秘的なことが起こるわけもないのに、3012にいまだ意味を見出そうとしている。

 押収されていたスケジュール帳や写真アルバム、友里のスマホは返却され、一式揃って段ボールに入っていた。それを引っ張り出して、スマホと見比べながら、今一度、姉の人間関係や行動履歴を洗い出す。

 スマホのアルバムをスクロールしていたとき、テイストの違う一枚の写真に気づいた。神社のお守り販売コーナーの写真だ。今まで人と一緒に映る写真ばかり注視していたので見落としていたが、思えば変な写真だと彩里は目を細めた。

 友里は友人たちと写真を撮ることはあっても、行った場所の風景やお店、飲み食いしたものの写真をほとんど残していなかった。究極的に、モノにもヒトにも興味がない友里らしい行いだが、そうするとこの一枚の写真は、映し方も被写体も妙だ。

 写真に紐づけられたGPSから、その場所が関東近郊では有名な「子宝・安産祈願」の神社だったことが、一層のこと不気味だった。


 翌日、寝不足もあったが、姉のスマホに記録されていた神社の写真が頭から離れず、彩里は集中を欠いた状態で午前中の授業を漫然と終えてしまった。昼休みの教室は藤崎のウワサで盛り上がっていた。

 その声も聞くに堪えず、彩里は体調不良を訴えて早退した。担任はびくびくしながら「お大事に」と言う。藤崎のことよりも、彩里の両親からまた何か言われるのではないか、ということを彼女はずっと気にしているようだった。

 蝉しぐれを聞きながら帰路に着く。なんとなく、恵真が家に来る気がした。

その予想は当たり、午後四時過ぎにインターホンが鳴った。


「柊さんから聞いたよ、早退したって言うから心配した。昨日もなんか変だったし」


 恵真が持ってきたぜんざいを冷蔵庫にしまう。「食べないの?」と恵真に覗かれるが、彩里は首を振った。四九日を過ぎてからも、恵真と話をするのは専ら自室だ。二階に彼女を入れてすぐ、彩里は自分のスマホに取り込んだ友里の写真データの一つとして、深夜に見つけた例の神社の写真を見せた。


「安産祈願で有名な神社に四月の半ば頃に行っているみたいで。誰かと一緒だったなら一枚くらいはその人と映っている写真があると思うんですが、その日付で撮られたのはこれだけ。このときにはたぶん、南ミカっていうお姉ちゃんの知り合いは死んでしまっていたはず。……お姉ちゃんが安産祈願の神社なんて行くとは思えないんです」

「ああ、K神社ね。子宝神社でも有名なところだ。平安時代から続く由緒ある神社だし、単なる観光の一環じゃないのかな」

「お守り販売のコーナーをわざわざピックアップして一枚だけ撮るでしょうか」

「他にも何枚か撮ったけど何かの理由で削除したのかも。喧嘩して顔も見たくない人と一緒にいたとか、自分の写りが気に入らなかったとか」

「いやでも、それまでの写真には揉めた人でもちゃんと写っていたのに」

「なら、写ってはいけないものが写っていた、とかね」


 その一言で、彩里は鳥肌が立った。部屋の気温がぐっと冷え込んだ気がする。


「……神社なのに」

「お寺や神社はセーフゾーンだっていうのはフィクションのすり込みなんじゃない? そもそも此岸と彼岸が混じり、神と仏っていうこの世ならざる者を祀る場所は魔境とも言える気がするけど。ただ、祀る側の心意気、信心一つで白黒が分かれるだけで」

「そういうことは、よく分からないですけど……」

「人を妊娠させたように錯覚させて死なせる呪いがあるって言ったのは彩里ちゃんなのに、他の怪奇現象は信じられない?」


 そう言われると、もはや言い返す気も沸かなかった。


「よく言われることだけど、祈りと呪いは紙一重で、個人にとっての祝福が他人にとっては呪詛であるかもしれない。こと、妊娠・出産っていうのは、特に」

「姉がこの神社に行った理由は、祈願じゃなくて呪詛のためだと?」

「誰が、何のために、はこの際、置いておこうよ。ただ、子宝祈願がある一方で古くから堕胎行為は容認されてきた。文書としての堕胎記録は平安時代からあるし、世界的に見ても生存不適合環境での堕胎や嬰児殺しは社会基盤の根底にあって、必要なことだと思われていた。新しい命をヒトとして生かすか殺すかは、その土地の風習、信仰、時代背景や環境に左右されることだったと言えるね」


 彩里とて民俗学の詳しい知識があるわけではないか、思いつくことはいくつかあった。例えば、食糧問題で食い扶持が増えることを厭う。さる身分の人間との間に身ごもってしまったが、不義の関係、身分差ゆえに、世に出ると問題になる。社会道義、宗教思想上、未婚女性や未亡人の妊娠が不道徳と見なされたなどだ。

 堕胎を容認する理由は様々あるし、嬰児殺しの話など前時代どころか今を生きる彩里の耳にも日々聞こえてくる話だ。産んだはいいが育てられない、どうしていいか分からない、自分の生活の邪魔――

 彩里の肩に手を置き、椅子に座らせて、恵真は続けた。


「藤原氏が栄華を極めた平安時代、女が子を為すことで身内の出世や寵愛の対象となってきた歴史が物語るように、『子供』に純粋な市場価値があったからこそ、子授け祈願は熱心に行われた。子供は授かりもの、という概念が今に残るくらいに、当たり前のことだった。そして純粋に夫婦の子が欲しいと願う女性もいれば、権力や保身のために子を欲する男もいる。強すぎる祈りは欲望と願望に侵食されて、あるいは」

「あるいは――」

「妊娠してしまえばいいのに、という呪いの念が生まれることだってあったかもね」

「そんな……。祝われるべきことなのに」

「そう、その通り。だけど医療技術が未発達の時代においては妊娠が須らく祝福されたわけじゃない。人口調整やトラブル回避、世間体といったもののために神や自然に『カエサレル』命があった。――これは、今もそうだね。出産自体も命がけだ、一九五〇年代の妊産婦死亡率ですら10万例あたり176.1だというデータもあるのに、はるか昔の死亡率はどれほどだっただろうね。新しい命を育み、産みだすというのは、同時にその母体の命を奪うことでもあった。ある意味で妊娠とは、その人間に対する足枷、罰、呪いそのものとも考えられる」

「そうしてしまうのも、人の心次第」

「そうだよ、怖いね。だけど、彩里ちゃんが思うよりずっとありふれている呪いなんじゃないかな。若い女の子が妊娠を機に結婚したら『デキ婚』って叩かれるでしょ、みんな妊娠するような行為を軽々しくすることを正義面で『ふしだらだ』って言いたいんだよね。後先考えない馬鹿女のレッテルを貼って、あわよくば不幸になってほしいと期待してる。ほら、やっぱりそんな年で妊娠なんかするやつは駄目なんだよって。高齢で妊娠する人も今はたくさんいるよね。そういう人のことも『無計画』だとか『子供のことを考えていない』とか酷いことを言う人がいる。なんで妊娠したんだとか、妻を一方的に責める夫がいて、子だくさんの家で『またできたのか』なんて下世話な妄想をする人もいる。有象無象の勘繰り自体が呪いだよ」

「だけど、それは本当に妊娠している場合で……」

「死んでいった人たちは、本当に妊娠していると思っていたんでしょう?」


 彩里の首に、ぬるりとした熱がまとわりついた。恵真に後ろから抱きしめられている。昔――お互い小学生だった頃、夏の心霊特番を見ているときに、友里はぬいぐるみに癒しを求めるように、こうして自分にバックハグしてきた。ぬるい体温が記憶を掘り返し、己の背後にいるのが誰なのか分からなくなる。


 今、自分は誰と話しているのだろう。


「子供が欲しい――という純粋な願いではなく、あんな人間、妊娠してしまえばいいって憎悪が呪いとなったとしたら、どう? 柊友里は――それだけじゃない、死んでいった人間たちは、絶対に誰からもそんな風に思われないと言える人たちだった?」


 まるでその声に操られるように、彩里の白い手が目の前のテーブルに伸びた。高校時代の姉のアルバムをめくる。姉は奇しくも彩里と同じ三年三組だった。そのクラス写真を開く。知らない顔が微笑んでいる中、仏頂面の少女と目が合った。

 彩里が思うに、姉が――柊友里が最も執着し、壊し尽くした人間は彼女だ。

 最初に壊されたヨリちゃんでも、中学時代に見つかってしまったリオでもない。


「……彼女、すごく美人だね。こんな表情なんてもったいない」


 校舎を背景に写る三十四名。その中央にいるのは姉、右にいるのが、彼女だ。

 一緒に写る桜の木は青々としていて、撮影時期が初夏であることは察せられた。彼女が学校を退学したのは、このあとだ。全体写真の修正が難しかったのだろう、そのまま残された彼女は、表情もさることながら妙に浮いて見えた。


「見たことありますよね。四十九日法要のとき、電柱の影からうちを見ていた人はこの人だったんじゃないですか」


 恵真は何も答えなかった。ゆっくりと、首に回されていた腕が解けていく。だが、熱は遠ざかるどころか、彩里の体内に火を灯していったようだった。


「この子の名前は?」

「津村真優(つむらまゆ)。姉の高校時代の親友で――お姉ちゃんに、壊された人」


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る