3章 なにかある ①

 八月の盆前、蝉しぐれに打たれながら友里の四十九日法要に訪れた先生は、どこか疲れて見えた。目元は薄ら晴れていて、落ちた肩は気安く声をかけられる雰囲気ではなかった。法要が終わり、身内で固められた参列者にお茶を振る舞っている間、庭木の影に隠れて、先生は煙草を吸っていた。その横で、父もまた電子煙草をふかす。

 一年ほど前から、父は母に隠れて煙草を吸うようになっていた。が、友里の死から、もはや隠す気もなく臭いをつけて帰ってくる。母は何も言わない。


「――そんなことなら、うちにわざわざ顔を出してくれなくてもよかったのに」

「いえ、いいんです。父の葬儀はちゃんと済ませましたから。養育費も払わなかった人に今さら恩義もないんですが、それでも、父親だったときの記憶がある以上は見送るのがせめてもの務めなので。無縁仏にならずによかったです」

「そうか……きみと知り合ったのも縁だ。何か助けが必要になることがあれば言ってくれ。僕にできることがあればいくらでも協力するよ」


 ぼそぼそした会話だったが、部分的に聞こえたやり取りだけで状況は察せられた。彩里は踵を返す。サンシェードがかけられたテラス席では、年下の従兄弟たちがゲームに興じていた。彼らにスイカを切ってあげていると、先生が傍に来た。


「彩里ちゃん、お疲れ様。次の授業は盆明けになるけど、ごめん。帰省しろって母がうるさくて」


 メンソールの香りを纏った先生が目尻を下げる。彩里は静かに首を振った。


「大丈夫ですよ。お盆ですもん、親御さんのところに帰ってあげてください」

「何か分からないところとか訊きたいことがあれば連絡して。ビデオ通話とか……あ、いや、ごめん、直接連絡し合いたいとかそういうことじゃなくて」


 慌てて彩里の母親の姿を目で捜す先生に、彩里は思わず笑いを零した。

 先生と直接連絡先を交換することは母から禁止されていた。授業の日時変更や内容についてリクエストがあるときは、父を経由して先生にコンタクトを取ってもらっている。母曰く――受験生が易々と外部の人間と知り合うことは勉強に障る、らしい。


「いえ、お盆の間くらい授業のことは忘れてください」

「そう……? まあ、彩里ちゃんにも息抜きは必要だしね。――それじゃあ、今日はこれで失礼するよ」


 先生は軽く頭を下げると、テラス席に出てきた母に声をかけた。もう一年の付き合いだというのに、母から未だ品定めされるように接せられるのは窮屈だろうに、先生は嫌な顔は絶対に見せない。大人だな、と思う。――両親より、よほど。


「彩里、スイカ、まだ残っていたでしょ、先生に差し上げたら」


 母が思いがけず発した言葉に、彩里は目を丸くしながらも調子よく返事をした。冷蔵庫にラップがけされていた大玉スイカの三分の一大の三日月を保冷バッグに詰めた。保冷剤も数個添え、サンダルを引っかけて家を飛び出る。

 先生の姿は、家から数メートルも離れていない電柱の影に埋もれていた。


「先生」背後から声をかける。先生はびくっと肩を竦めた。


「これ、母が先生にって……どうしたんですか、こんなところに立って」


 日向はアスファルトの照り返しも相俟って強烈な暑さだった。無意識に目を細める彩里に、先生は歯切れが悪い。差し出した保冷バッグを持たせても、どこか反応が薄く、いつも礼儀正しい先生にしては随分と感じが悪かった。


「ここに女の……子、人……、彩里ちゃんより少し上かな……電柱の影に隠れるように立っていて。どうかしたんですかって声をかけたら、走って逃げて行った」


 先生の視線は、恐らく逃げて行った方向であろう住宅街の北側を向いた。

 葉脈のように伸びる住宅地が途切れた先は霊園を囲むための森林だ。柊家が居を構える東京郊外の町の閑静な住宅街は、都市開発の喧噪からいまだ置いていけぼりにされているから、カエルが鳴き、コウモリが飛び、タヌキが走って、得体の知れない何かが電柱の影に潜んでいる。


「彩里ちゃん、彩里ちゃん、大丈夫? 顔色が……」

「あ、すみません……。姉の件で、面白半分に覗きに来た人かもですね。暇だなぁ」

「長い黒髪だった。おくるみを抱えていて」

「おくるみ」

「あの、赤ちゃんを包む布っていうか」


 それは分かる。彩里は、その女が逃げて行ったという北側を振り返った。青々した森林は遠くにあるようで、歩いて三十分もしないところにある。逃げた人物の素性が分かった。よかった、とは口にできないが、ほっとしたのは事実だった。


「たぶん、姉の――友達、です。もし見かけても問い詰めないであげてください」


 先生はどこか腑に落ちない顔をしていたが、それ以上の詮索はしてこなかった。

 この炎天下、おくるみを抱えたまま走り去るなんて、転んだらどうするのだろう。彩里は駅に向かって南下していく先生を見送った後、逃げた影が戻ってこないかしばらくその場に立っていた。じじじ、と、電柱から落ちてきた蝉が、彩里の影の中で息を引き取るまで。

 

 ■ ■ ■ ■


 夏休みが明けると、「陰湿」という名の生き物たちは「大胆」という別の何かに進化してしまった。彩里の机には油性マジックで「アバズレの妹」「淫乱遺伝子」「勘違いブス」など、普通に生きていればまず使わない汚い言葉が書かされていた。醜悪な意味の割に字体は奇麗で、そのギャップが滑稽だった。こういうのはグーの手でペンを握り、力任せに書き殴ってこそ迫力があるのではないか。

 ホームルーム直前、クスクス笑うクラスメイトたちは、彩里の反応をつぶさに観察している。彩里はスクールバッグをおろして、「ダサ」と一言だけ唇を弾いた。隣の席の少女が、驚いたように彩里を見上げる。彼女を見下ろし、彩里は飛び出そうになった言葉を呑みこんで、席に着いた。

 教室内は静まり返っていた。予鈴がいつまでも余韻を残すほどだった。

 みんな、彩里が困った顔で周囲を見渡し、泣くか逃げるかすると思っていたのだろう。彩里はホームルームが終わってからすぐに担任の元へ行き、「机がいたずらされているのでエタノールがほしい」と要望した。まだ女の担任は机の落書きに分かりやすく慄くと、己のスマホでそれを撮影し、職員会議で報告すると怒った素振りを見せた。その日のうちに彩里の机の罵詈雑言は黒く滲んで消え去った。が、嫌がらせの事実は消えない。

 担任から報告を受けた両親が学校に乗り込んだのは翌日のことだった。

 ――名門進学校だから安心して娘を送り出したのに、こんな低俗なことをする生徒がいるのか。今すぐ特定し謝罪させろ。親を出せ、どういう教育をしている。寄付金だって毎年かなりの額を納めているのに。

 校長と担任が平身低頭で謝っている。彩里も同席しているが、二人の怒りは彩里を介在しているようで、まるで彼女をないものにしていた。


「娘は中等部のときからトップクラスの成績ですよね。医学部現役合格は学校の名誉にもなるのにこんなことで娘が躓くことがあったらあなた方は責任が取れるのですか」

「いえ、そのう、おっしゃる通りでして、えー、三年三組の生徒には道徳指導を」

「大体あの机の落書き! うちの長女の根も葉もない噂をあんな風に書く程度の低い生徒は貴校の恥でしかないので即刻特定して退学にするべきです!」


 昏々と説教を垂れるように語る父と、唾を飛ばす母の取り合わせは緩急ついていて理想的な組み合わせに思えた。脳内に皮肉の花を咲かせること一時間あまり、彩里は時間を無駄にした。


「もう学校は行かなくていい」


 両親は車の中でもそうやって過激な発言をした。彩里は頷かなかった。次の日も普通に登校し、担任からは姉の死の直後以上に腫物扱いされた。道徳教育なんて意味がないから、影でいじめは続いた。もはや意地の張り合いだった。

 さすがに弁当の中身にいたずらされたときは吐き気を催したが、受験に特化した授業編成に変わっていくにつれてクラスメイトとの接点も減っていくので我慢した。ただ、同じ国立理系狙いのコースに主犯と呼べる少女がいることは憂鬱だった。同時に、この女には絶対に負けてなるものかと奥歯を噛んだ。

 残暑が厳しい土曜日の昼間、両親不在を狙うように恵真はやって来た。今日の差し入れはアイスだった。食べ終わってすぐに共通試験の過去問の続きに取りかかる。だが、恵真は邪魔を承知の上で話しかけてきた。


「聞いたよ。いじめのこと」


 がりがりと黒い丸を塗りつぶしていた彩里は、問題を睨みながら舌打ちを殺した。口の軽い親だ。


「酷いことするね、高校生にもなって」

「年齢は関係ないんですよ。大人でもいじめはあるでしょう」

「うーん、それはたしかにね。悲しいことだけど」

「ストレスなんですよ、みんな、受験が。ちょうどいいはけ口に私がはまっただけ」

「お姉さんのことがなければこんなことなかったと思う?」


 恵真の言葉に、彩里は手を止めた。小指から手首にかけての側面が黒ずんでいる。それを左手で擦りながら「そうだね」と頷いた。


「でも、お姉ちゃんが原因で人からこんなに攻撃されるってことは、結局、私自身が何も積み上げられてなかったんだなって思います。もともと人付き合いとか苦手で、中等部の頃から遊びに誘われてもうまく話せないし、笑えないし、そのうち誘われることも、事務連絡以外メッセージがくることも電 話されることもなくなって……それじゃ駄目だったのに、何もしなかった。昔からそう、私ができるのは勉強だけ」


 ――空っぽだ。自分も、根本的に姉と同じ。己の中の空白を満たすための手段が、彩里にとっては勉強で、姉にとっては好きな人を絶望させることだった。自ら他者を満たしてあげようという心のない者が、本当の意味で人に好かれるわけがない。

 見た目がいい。頭がいい。運動ができる。

 そんなことより大事なことが、人の世にはたくさんある。彩里は自然と思っていた。


「そう、彩里ちゃんは優しいね」


 彩里の熱弁に恵真は微笑んだ。優しい、という言葉に引っかかりながらも、彩里は自分に伸びてきた彼女の手を甘んじて受け入れた。頭を撫でられる感触はくすぐったく、本来熱を持たないはずの髪が燃え上がった気がした。だけどその熱すら心地よくて、彩里は本音を零した。


「でも、まあ、こんなことする馬鹿なんていない方がいいって思うこともあります」


 本音ではあったが本気ではない、ただ会話の隙間を埋めるための戯れ言だった。

現に、数日後、藤崎(ふじさき)が教室で嘔吐した瞬間ですら思い出さなかった。その程度の、ちょっとした悪意だ。本気でいなくなれと思ったわけではない。


「おえええええ」


 ツンとした臭いが嗅覚を刺激するより先に、悲鳴と嗚咽が聴覚を殴りつけた。

 昼休み、弁当にいたずらをされて以来、購買でパンやおにぎりを買うようになった彩里が空き教室で食事を済ませてクラスに戻ったときだった。

ドアを開けた正面で、藤崎が吐しゃ物を巻き散らした。反射的に飛び退く。おかげで、上履きは飛沫を免れた。悲鳴を上げた生徒たちは一斉に彼女から逃げ、壁や窓際に集まった。すぐさま換気のため、窓を開けた生徒がいた。

 藤崎の吐き気は止まらず、その後もしばらく吐き続けた。貰いゲロで教室を出て行く生徒が何人かいた。彩里は廊下から、黄色い胃液が広がる教室の床を茫然と見ていた。藤崎はショートカットの髪を頬に貼りつけていた。口の周りはぬらぬら光っている。己の吐しゃ物にあてられて、駄目押しするかのようにまた液体を出した。

 異変を感じた他クラスからも悲鳴が上がり、職員室から先生たちが駆けてきた。男の教師が怯むことなく藤崎を連れ出すのに、担任の女教師ときたら口元を押さえて「うっぷ」とたじろぐばかりだった。


 感染症の恐れもあるとのことで、養護教諭が薄めた塩素系漂白剤を周囲に噴霧し、用務員や他の教師たちが念入りに掃除をしていってくれた。しかし、その日の午後は三年三組の教室を授業で使うことは中止となった。藤崎は保健室で休んだ後に早退したが、彼女だけでなく、「気分が悪い」と何人もの少女が帰宅を選んだ。

 次にクラス全員がホームルームで顔を合わせたのは三日後だ。藤崎は友人たちから体調を気遣われながらも元気よく登校してきたが、昼休みになると「気分が悪い」と教室を出て行ってしまった。そんなことが一週間続いた。藤崎の周辺はみな心配していたが、おかげというか、喜んではいけないかもしれないが、彩里にとっては静かで心地のいい一週間だった。


 藤崎は中等部からの同級生だ。中等部時代は同じクラスになったことがなかったが、試験の度に張り出される上位成績者の中にはいつも名前があった。特に、理系科目では彩里とトップを競い合う存在で、意識しない方がおかしい同級生であった。彩里に嫌がらせをしている主犯は、彼女だ。机の上の達筆は藤崎の筆跡と同じだったし、彼女がトイレで彩里の悪口を言っているところを何度も聞いている。彩里が塾ではなく家庭教師を雇っていることを揶揄し、先生のことまで侮辱する発言を聞いたときは怒りに体が震えた。トイレで独り、拳を握る虚しさを彩里は忘れないだろう。藤崎を憎たらしいと思った。だが、どうこうしてやるだとか、やり返したいだとか、そういう気持ちはなかった。ただ絶対に負けないと決めた。

 藤崎も医学部進学を希望しているらしい、というのは高一のときに噂で聞いた。あのときは「自分と同じ目標を持っている人がいて嬉しい」と呑気に思っていたが、相手は違ったらしい、とは姉の死によって知ったことだ。きっと中等部の頃から彩里の存在は心のどこかでは目障りだったのだろう。

 報復意思こそなかったが、胃腸炎なら学校に来るな、と心の中で何度も詰った。藤崎の制服がやけに突っ張って見えるまでは。


「ねえ、なんかフジちゃん太ったくない?」「ねー。お腹のとこきつそうだよね」


 そんなやり取りを密やかにしている少女たちがいた。その一言を聞いたとき、彩里の心臓が何かに捕まれた。爪を立てられ、息を吹きかけられている。どっどっどと心拍が急上昇して、眩暈がした。

 藤崎は間もなく、学校に来なくなった。


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