2章 なにかいる ②

「どうも、柊さん。H署刑事課の官野(かんの)と申します。任意調査へのご協力ありがとうございます」


 スーツ姿の男が印籠のように見せつけてきたのは警察手帳だった。他数名の署員も順に名乗り、彼らを迎え入れた母は素早く玄関を閉めた。


「妹さんですね。Y女子学園高等部三年三組、柊彩里さん」

「次女が何か関係あるんですか? 友里のことで話があると聞いたので家に上げただけで、私たちに本来協力する筋合いはないんですよ。娘が死んだときには取り合ってくれなかったのに」

「その節はお力になれず申し訳ありませんでした」


 官野は、にこやかに言った。三〇半ばといった風体で、スーツはピンと張り、青髭もなく小奇麗だ。刑事というより銀行員のような雰囲気で、これから融資の説明でもしますと言われても違和感がない。


「彩里、部屋にいなさい」母が言う。が、「いえ」と官野がすかさず口をはさんだ。

「ぜひ、妹さんにもお話を聞かせてほしい。お姉さんとはとても仲の良い姉妹だったとうかがっていますから」

「娘は受験でセンシティブな時期なんです。友里が死んだことでただでさえ心に傷を負っているのに、警察の取り調べなんて」

「取り調べではありません、任意でお話を聞かせてほしいだけです。答えたくなければ結構ですから。それとも、妹さんを同席させたくない理由が他に?」

「いいです、はい、分かりました。答えられることなら……」


 剣呑とした母を庇うように、彩里は大げさに頷いた。

 母はリビングではなく和室に刑事たちを通した。欠かさず供えられた線香の伽羅の香りが、人の出入りで一瞬ぼやける。形式的に仏壇へ手を合わせた刑事たちは、これまた形式的に出された麦茶に口をつけ、黒革の手帳を取り出してペンを執った。

 柊友里の大学生活や交友関係、自殺までの一連の出来事を、母は問われるまますらすら語った。警察や弁護士に相談するために、きっと何度も話してきたのだろう。病院で想像妊娠の類と診断されたことも口にしたが、「でも性的暴行被害に遭ったからそうなったのではないか」とすぐに主観でものを言った。

 自殺までの経緯を聞いた後、官野はこれまで聞いてきた内容と齟齬がないことを確認して、本題に入った。


「友里さんの所属していたサークル内で、今年に入ってから四名の自殺者が出ています。友里さんを含めると五名です。つい先日も交通事故で亡くなった男子学生がいましたが、調べたところ彼もJ大学、アンバースデーというサークルのメンバーでした。周辺の防犯カメラや事故車両のドラレコから、彼が自らの意思で走行してきたトラックに飛び込んだことが確認されています」


 ――尾瀬のことだ。彩里は刑事から目を逸らしてしまう。


「最近もね、一人、遺体で発見されまして。近江仁香おうみにかさんという方です、お名前ご存知ではありませんか。友里さんと親しくしていたそうですが」


 ――知っている。彩里は知っている。死んだのか、本当に? たしかにこの数日ポエムちっくなSNSの投稿が途絶えてはいたが、死んだのか。


「いえ私は知りません。友里はあまり大学のことを口にしなかったので」

「では妹さんはどうですか?」


 彩里は肩を震わせた。官野たち刑事の視線を一身に浴びる。彩里が答えに躊躇している間に、官野は続けた。


「近江仁香の遺体からは違法薬物の成分が検出されました。自宅からは大量の睡眠薬や抗うつ薬が見つかっています。近江仁香の死因は窒息です、吐しゃ物が喉に詰まっていて。薬物の大量摂取による中毒症状でしょう」

 

 ――そうだ。近江仁香のSNSには薬の画像がたくさん載せられていた。一日経てば消えてしまう投稿だ。尾瀬のように風邪薬を買い込んでいた。


「友里さんも、死の間際までずいぶんと錯乱状態にあったようですね」

「何を言いたいんですかっ」


 母が語気を強めた。官野は柔和な態度を崩さなかった。


「相次ぐ自殺、薬物中毒による不審死。サークル内で違法薬物が広まっていた可能性があります。今日、サークル関係者には軒並み警察が事情を聞いて回っている最中です。把握できている人間だけでも二十名……いえね、薬物だけではなく、娘さんが所属していたサークルにはわいせつ電磁的記録媒体陳列罪の疑いもかけられていて、代表者の家には今、この瞬間に家宅捜索が入っています」


 ――終わった。全部ばれてしまう。もしまた名前が広まったら。それこそ親族一同末代までの恥だ。


「妹さん、すごい汗ですよ。大丈夫ですか」


 官野の言葉に、彩里はさらに汗が噴き出るのを感じた。


「娘さんのスマホ、たしかロックが解除できないとかで相談に来ていましたよね。捜査資料の一つとして我々で解析させてもらえないですか。ご提供してほしいんです」


 ジャージのポケットに入っている姉のスマホが、ありもしないはずなのに振動した気がした。彩里はそっと、そのスマホを卓に差し出す。どうして彩里が友里のスマホを持っているのか、母は驚いた様子だった。


「もしかしてロック解除できました?」官野が囁くように笑った。

「はい」と、彩里は汗を拭う。なぜこんなに発汗するのか分からないが、とにかく体の内側が火照る。


「じゃあ、妹さんはご存知ですよね、いろいろ」


 その含みを持たせた言い方にはさすがに「はい」とは言えなかったが、そのだんまりはもはや肯定だ。

 母が茫然としながらも何かを言い返しているが、声が遠く感じる。だが、「友里の部屋をこれから検めさせてほしい」という旨は理解できた。母がそれに激しく抵抗したのも空気の振動で感じた。しかし結局、言いくるめられて諦めたようだ。


「娘さんを信じているなら見させてほしい」と官野たちが立ち上がる。

 彩里は和室から出られなかった。


 姉の所属していたサークル「アンバースデー」は、表向きは「スポーツ観戦」を愛好する者たちの集まりだが、その実態は「動画配信サークル」だった。動画の中身は、一時の快楽のために消費される、肉欲にまみれた男女を鮮明に映していた。


「お姉さんの部屋から薬物の類は見つからなかったけど、柊彩里さん、お話聞かせてもらえますか?」


 和室に官野たちが戻ってきたとき、母は怒りとも悲しみともつかぬ顔をしていた。彩里を庇う仕草を見せたのも一瞬で、力なく手を下げると、面を下げて泣き始める。めそめそ、さめざめ、しくしく、母の泣き声は柳の下の幽霊を思わせる。


「尾瀬朋也さんと会ったのはなぜですか?」


 ――やはり調べられていたか。

 彩里は素直に答えた。スマホのロックを解除して以来、姉の死の手がかりを求めてSNSを漁り、知己の人物たちの動向を探っていたこと。メッセージのやり取りから尾瀬と姉の間に肉体関係があり、そのせいで姉が想像妊娠という不安障害を発症したのではないかと思ったこと。


「どうしてスマホのロックが解除できたことをご両親に相談しなかったんですか」

「言えるわけありません……分かりますよね。姉がしてきたこと」


 言わせようとするのはセクハラにならないのか。彩里は官野を睨んだ。

 姉は、サークル内でわいせつ動画を撮影し、それを有料サイトで売っていた。サークルはあくまで人を集めるための形式的なものにすぎず、学外学内を問わず自分が知り合った女性たちを甘い言葉で引きこんではサークル内の男たちと行為をさせていた。


「動画を撮られた女性たちには同意書も書かせていたそうですね。出演料として金銭も支払っていたし、撮影場所には友里さんが同行し、安全に――まあ犯罪行為に安全も何もないですが――ことが終わるのを監督していたとか。収益金はサークル内で分配されていたようですが、だいぶ売れていたみたいですね。いわゆる『裏アカ』界隈でも相当人気の『動画配信集団』で」

「官野さん、喋りすぎですよ」右にいた刑事が弁舌ぶりをたしなめる。


 彩里の横で、母は震えていた。涙を流しながら激怒していた。彩里は母にそっと視線を這わせてから、「姉自身が動画に映っていたわけではないですよね」と釘を刺す。

 官野は肯定も否定もしなかったが、彩里には確証があった。その言葉に、母が少しでも救われてくれたらと思っての発言だったが、母の様子は変わらなかった。愛娘が他人の情事を撮影して金を得ていたなんて飲み込める話ではないだろう。

 官野が続きの言葉を発する前に、彩里は「姉は」と切り出した。


「たしかに、世間的にはまともじゃないやり方でお金を稼いでいました。でも薬物なんて……絶対にやっていません。スマホはいくら調べてもらってもいいです、姉が死んだときから何か削除したり編集したりもしていませんから。これだけはせめてもの姉の名誉のために断言します」


 警察相手に毅然と言ってのけた彩里に、やっと母が身じろぎで反応を示した。いつも姉の影に隠れ、人に意見することを避けてきた次女像とはかけ離れた姿に驚いたのだろう。だが、強気に出たのは態度だけで、彩里の内心は乱杭歯のごとく咬み合わせが悪くなっていた。「あの異常行動も体の奇妙な症状も、全てクスリのせいであればいいのに」。肩を落としてそうぼやく自分の姿を心の中に俯瞰しながら、彩里は手放した姉のスマホにさよならを告げた。

 警察が帰った後に仕事を早退してきた父が母を慰めた。母の憤りを受け止め、共感し、友里がその動画サイトに映っていたわけではないのだろうと互いに都合のいい解釈をすることで理性を保っている。


「きっと無理やりやらされていたんだ。代表者とやらがいるのなら」

「そんな気色の悪いことをしていたサークルにいたから友里もおかしくなったのよ」


 いまだ真正面から友里を見ようとしない両親に、彩里は歯痒い思いを隠せなかった。いっそ、「なぜスマホのロックを解除していたのに言わなかった」と怒られた方がマシだ。が、思えば両親は昔から子供を叱ることが滅多になかった。溺愛の対象であった友里は無論のこと、勉強以外に褒めるところのない自分に対しても。彼らは根本的に我が子を過信している。都合よく脳内で「良い子」に仕立て上げている。

 だから、彩里は自分のスマホで姉のSNSが見られるようにしたことも、データの一切を抽出して保存したことも言わなかった。

 どうせ警察が全てを明らかにするだろう。撮影に関わっていたサークル員二十名の中でも、主要メンバーの一人だった友里の責任は重い。死んでいても立件されるかもしれない。そのときも両親は「娘はやらされていただけ」と訴えるだろうか。姉に騙されてあられもない姿の動画を撮影され、金銭の授受で共犯にされた女性たちの前で、あるいはその親たちに向かって。


「お姉ちゃん……なんでこんなことしたの、何がしたかったの」


 ――楽にお金稼げるんだからやるしかないでしょ。

 幻想の姉が耳元で笑った。「私って空っぽだからさ」

 自室のベッドに横たわりながら、彩里は姉と共に映っているテーマパークでの写真を見つめた。去年の今頃、「来年は受験で大変だろうから」と姉から誘われて人生初の姉妹だけでの一泊二日を満喫した。


「成人すると外泊も文句言われなくて最高だね」


 そう言って友里は彩里の肩を抱き寄せ、姉妹で自撮りした。未成年のうちに散々補導されてきた姉ならではの発想に思えて、笑ってはいけないことなのに笑ってしまった。友里はいつも、良い匂いがした。

 姉はなんでも買ってくれた。お小遣いとは明らかに原資が異なるだろうという気はしていたが、何をして稼いだ金なのか訊くのが怖くて目を瞑っていた。あのとき食べたレストランのコースも、キャラクターの形をしたワッフルも、キャラメル味のポップコーンも、誰かの裸の対価かと思うと頭痛がする。


 アンバースデーがサブスクリプション制のアダルト動画サイトで稼ぐようになったのは、二年前――姉がまだ大学一年生の頃だ。それより以前の活動を遡っても、何をしているのかよく分からないオールラウンドサークルで、内情としてはいわゆる「飲みサー」だったのだろうということだけが分かった。

 ただ、悪巧みをするOBや上級生がサークル内のかわいいどころの女子学生に手を出し、揉めたことは事実としてあった。友里の過去のメッセージ履歴やSNSでのやり取りに、それらしき話があった。姉もきっとターゲットにされたはずだ――しかしそれをいなし、寧ろ利用する術として姉が「アダルト動画の撮影と収益化」を持ちかけたとしたら。

 彩里は布団を引っかぶって、やめよう、と耳をつねった。

 考えても仕方がない。警察が全てを明らかにしてくれる。

 だけど警察が明らかにできないこともある。連鎖する想像妊娠による自殺――

 現時点で彩里が死亡を確認しているアンバースデーのメンバーは四人。官野の話だとあと一人いるはずだ。近江仁香もSNSには妊娠を匂わせる発言を残していた。彼女には交際相手がいるが、その人物はサークルとは無関係のようだった。

 ――南美伽、柊友里、尾瀬朋也、近江仁香。いずれも原因不明の体調不良に悩まされ、自分の体の中に何かがいるという不安を口にしていた。


 気のせいではない頭痛と火照りを感じながらも、彩里はスマホを凝視し続けた。死んだもう一人が誰なのか知りたい。どうして死んだのか確かめたい。死ぬ前がどうだったのか明らかにしたい。その人物すらも同じように死んでいたとしたら、これはもう疑いようもなく怪談の類だ。

 そう言えば、と彩里は保存していた姉のメッセージアプリのバックアップデータを開いた。死んだ四人は、姉とよくやり取りをしていた面子だ。なぜ気づかなかったのだろう。南美伽には妊娠の相談をされ、尾瀬明也には強制性交の疑いをかけ、近江仁香にはずっと妊娠の相談をしていた。もう一人、熱心に助けを乞うていた相手がいる。相手からは既読がついていない、尾瀬同様途中でブロックされたのだろう――


「大月亜衣子(おおつきあいこ)……」


――【ゆーり】ねえ待ってお願い あいこの親医者でしょ

――【あいちゃそ】いやいやwむりむり歯医者だしふつうにむり 産婦人科行け

――【ゆーり】もう行った!でも妊娠してないって言われる

――【あいちゃそ】wwwwww嘘かよwwwwwww

――【ゆーり】嘘じゃないのほんとにいるの

――あいちゃそ】まじでやめなよそゆの ミカと同じでメンヘラキャラ狙ってんの?

        そゆこと言ってるとガチで病むよ 


 この返信のあと、友里は暴言を吐き、ブロックされている。

 大月亜衣子らしき人物のSNSアカウントは、六月末から何も投稿がない。それまでは欠かさず「夜はどこどこで何を食べた」「好きぴと出かけた」と充実の生活風景を上げていたのに。

 その頻繁で分かりやすい投稿内容から生活圏内を割り出すことなど容易かった。所沢の「クリーンデンタルクリニック大月」のホームページのお知らせ欄に「一週間の臨時休診」があった。七月の頭だ。


 SNSの投稿からは体調不良を読み取れない。普段の投稿内容からしてプライドが高そうな人だから、弱っているところや充実していない生活の類を公開することがなかったのだろう。だが、結局死んだのだ。大月亜衣子も、きっと、膨れていく腹に怯えながら死んだのだ。

 死んだのはいずれも、姉が「妊娠妄想」に関して熱心にメッセージを送っていた学生たちだった。それだけが共通点ではない。尾瀬も含め、彼女たちが動画撮影に加担していたのはメッセージの履歴から見ても確実だ。


 友里に騙されたという感じではない。お金を稼げるなら協力する、という安易な考えがメッセージの端々に浮いていた。それを悪いこととも思っていない、むしろ見知らぬ人間よりもサークル内の男が相手なら、と。

 顔を隠していても、加工されていても、金のためにネットで己の痴態を晒すなんて彩里には理解できない。だけど、それをまとめ、仕切っていた姉の手前、自分もまるで無関係とは言えないことが単純に彩里を追い詰めていた。

 加えて、姉を含めてその浅ましいサークルの面々の不審死が続いている。

 ――「妊娠した」という恐怖に追い詰められて。

 もちろん、そういう行為をしている以上、可能性は否定できない。だが、姉や尾瀬の身に起きたことは、本人たちの性質上、とてもではないが自業自得で済む話ではない。姉は自認している限り性交渉の経験がなく、尾瀬に至っては男だ。

彩里は警察が来てから数日、寝込んだ。火照りが収まらず、吐き気と頭痛で布団から起き上がることもしんどい。まるで姉と……、そう言語化しかけては処方された漢方薬を飲み、寝ることに集中した。


 かかりつけの内科医からは「夏バテ」「ストレス」と診断されていた。その後、すぐに月のものがきた。鮮血のついたトイレットペーパーを見て、初めて安堵した。

ようやく体調に回復の兆しが見え始めた頃、恵真がやって来た。手土産にフルーツの籠をぶら下げていた。わざわざいいのに、と言いながらも、彩里はその気遣いが嬉しかった。


「授業はもう少しお休み?」

「うん、いろいろあってストレスだろうってお父さんが。今詰め込んでも身にならないから、来週から仕切り直そうって言ってくれて」

「柊さんは本当にいいお父さんだね」

「……そうかな……」


 素直に頷けなくて、彩里は曖昧に笑った。

 人からは昔から羨まれる。彩里の父は薬剤師で、祖父の代から続く調剤薬局の二代目だ。総合病院の真横にあり、需要が多い分、収入も多い。ジム通いをしているためか五十手前にしては見た目も若々しく、俳優の誰それに似ていると友里が褒めていた。彩里が医学部を目指すことにも一番に賛成してくれたし、勉強にかかる費用は惜しみなく出してくれる。確かに、これをいい父親と言わずしてどのような親を敬えというのだろうか。

 だけど素直に受け取れないのは、友里の死を通して両親の思考や振る舞いに共感できないことが如実に増えたからだ。他人のせいにしたい両親が、彩里が怯えるオカルトめいた恐怖に寄り添ってくれるとは到底思えない。


「まあ、親だから言えないことはあるよね。何か話したいことがあるなら聞くよ」


 彩里の代わりにセラミックのペティナイフで器用にリンゴをむき始めた恵真は、淡々とした口調で言った。その気取らなさが彩里の心の角を取る。

 姉のサークルの悪行も含めて、警察に話したことと同一の話をした。それに加えて、不審死している人間の身に起こっていた現象についても。これは警察に話したところで取り合ってもらえない、あるいは姉のように薬物を疑われての錯乱だと哂われて終わるだろうと踏んで秘していたことだった。


「なるほど、お姉さん以外も同じように『妊娠した』と不安妄想に取り憑かれている人がいたんだね。しかも男性まで……でも、クヴァード症候群という医学的な症例もあるからね」

「クヴァード症候群……」

「日本でも昔からあるよ。民俗学者の柳田国男が著作で『病んで助けるものはクセヤミばかり』なんて諺を紹介している。クセヤミ、というのがクヴァード症候群の症状だね。つまり、悪阻(おそ)……つわりだよ。妻やパートナーが妊娠・出産するときに、男側が同時に病むんだ。胃部不快感、悪心、嘔吐、腹部膨満、発汗過多、頭痛、しびれ――動けなくなる場合もある。長野県南部のとある地域では『アクソノトモヤミ』として伝承されてきたそうだよ。これは風土病や都市伝説の類ではなくて、心因性の病なんだ。面白いことに、この病を発症した男性のホルモン状態を調べるとテストステロンの値が低く、逆にプロラクチンの増加が見られる。プロラクチンは母乳分泌ホルモンね。男性側の想像妊娠と言い換えた方が分かりやすいかな」

「じゃあ、尾瀬さんもその病気だったかも……」


 と言いながらも、彩里は納得できなかった。

 やはり恵真もこんな与太話は信じてくれないか。

 落胆した矢先、切り分けられたリンゴが小皿で提供された。やけに熟れて見えた。 一口かじったリンゴは酸っぱいような渋いような、妙な味がした。

 それでも手土産に失礼な姿は見せられない。そう思ったのに、


「これはI大学医学部で何十年も前からまことしやかに語られてきた怪談なんだけど」


 恵真の唐突な切り口に、彩里はむせた。


「実はね、I大学病院には産婦人科がないんだ。あ、正確には『産科』がない。つまり分娩の受け入れをやめた。『医師の人手不足』を理由にね。だけどその本当の理由は、分娩にまつわる暗い出来事や怪談のせいだと言われている」


 I大学は、父の母校であり先生の通う国立大学だ。そして彩里自身の志望校でもある。生唾を飲み込む彩里に、恵真は続けた。リンゴの嫌な後味が舌に障る。


「いわゆる『野良妊婦』、健診を受けないどころか母子手帳すら持っていない若い女性が産気づき、I大学病院に緊急搬送されてきた。医者も助産師も命を助けるために野良妊婦を受け入れ、女性は元気な女の子を産んだ。女性は素性を一切語らず、子供にも会おうとしない。それでも母乳を欲する赤子に会えば母性も育まれるはずだと、看護師たちは病室へ赤子を連れて行くが、母親は正気を失ったように叫んだ。

『この子は私の子じゃない!』

 そんなわけがない。取り違えの対策は万全だった。だが、赤子を見て怯え、狂乱状態に陥った母親と赤子を同室させることなどできない。身元も不明でわけありと思しき野良妊婦ということもあり、マタニティブルー、産後鬱の傾向があるとみなされ、メンタルケアが急務となった。精神科の医師や産後相談を受け持つ看護師との面談の中、母親は頑なに院内に我が子はいないと言い張る。その理由をゆっくり尋ねていくと、彼女は『自分が子供を殺したからだ』と答えた。たしかに、子供を産んだ翌日、世話に向かうふりをして新生児室で寝ていた子供を縊り殺したはずだという。だが子供は生きているし、誰かよその子が死んだ記録もない。母親へのケアは続き、警察や自治体の協力を得てやっと母親の親族に辿り着き、母子ともに身内に引き取られることで退院の手筈が整った。

 けど、帰路で母親は子供を抱いたままホームから飛び降りた。その姿は防犯カメラや多くの人の目に記録されていた。でも、死体が見つかったのは母親だけ。彼女が抱いていたはずの赤子はどこにも見つからないままだった。彼女は退院してもなお、『この子は本当に私の子供じゃない』『これは人間ではないのではないか』と口にしていたという。――じゃあ、彼女のお腹にいたのはなんだったんだろうね。

 この野良妊婦の出産と自殺以来、I大学病院では飛び込み出産は全面取扱拒否となった。けど、代わりに奇妙な患者が時折やって来るようになった。『想像妊娠』としか言いようのない状態の女性たちが、中絶を求めてやって来るのだ。どうしてこの病院を選んだのかと尋ねると、彼女たちは決まってこう言った。『E子さんに紹介された』。E子は、自殺したあの野良妊婦の名前だった――」

「それは、ただの怪談、なんだよね。病院に伝わる……」


 そうだよ、と恵真は微笑んだ。だが、作り話とも噂とも言わなかった。


「他にも色々あるよ。S先生という産婦人科医が死産の手術をすることになったけれど、確かに死んでいたはずの子供が泣き出して生き返っただとか、存在しないはずの双子が産まれてきただとか、そのS先生自身が大学内で不審死して、死後にS先生から怪文書が大学病院の関係者にメールされてきたとか、……安産祈願を装った不気味な絵馬が病室に吊るされていた、とかね」


 気味の悪い話を面白がるように伝えてくる恵真の姿は、今までの「先生」像から乖離して見えた。どことなく友里を彷彿とさせる口の端の歪みを見て、彩里は足が竦むのを実感する。怯えの色を滲ませた彩里に手加減するわけでもなく、恵真は緩んでいた顔を締めて、声を潜めた。


「でも、これから話すのはただの事実だよ」


 ■ ■ ■ ■

 

 激録 2000年代衝撃の「闇事件50連発」より


「彼女は妊娠を恐れていた」

~「悪魔の子」は実在したか?

I大学医学部エリート学生による殺人事件はなぜ起きたのか~ 

 

 200×年、被告人XはI大学医学部に入学した。四代続く医者の家系で、小学生時分から神童と謳われ、品行方正にして成績優秀な子供だったという。

 そんなXが、なぜ殺人に手を染めたのか。

 事件は200×年2月に起きた。

 当時、M女子大学の四年生だったAは学内でも有名な美人学生で、某キー局アナの内定が決まっていた。Aと恋人同士だったのが、I大学医学部の五年生だったXだ。Aとは中学時代の部活の先輩後輩で、交際自体はAが大学生になってから始まったという。Aは度々、医学部に通う恋人の自慢をするなど、二人の関係は良好だった。

 Xは厳格な家庭に育ち、国家試験に合格するまで恋愛沙汰を禁止されていた。そのため、両者の関係は秘密であり、Aの学友たちは名前も顔も知らなかった。Xの友人たちに至っては、Xに恋人がいることなど知りもしなかったという。

 ~中略~

 だが、大学生最後の夏休みが終わったとき、Aの体型に変化が生じ始める。

「食べ過ぎた」と誤魔化していたが、腹が突き出て、尻が大きくなった。身なりに厳しかった彼女が突然太ったなんて考えられない。周囲はすぐさま妊娠を疑った。

 だが、Aは周囲の心配に憤るばかりで耳を貸さず、ぱたりと大学に来なくなった。

実はAの近辺では、夏休み前に一人、夏休み中に一人、自死と事故死の両方で片づけられた人間が二人いた。M女子大の同級生と語学サークルの後輩だ。家族によれば、Aは親しかった二人の死にひどくショックを受け、数日部屋に閉じこもっていたという。亡くなった二人とも、妊娠を苦にしていたという周囲の証言があるが、実際に妊娠の確認は取れていない。

 同様に、Aもまた複数の産婦人科を受診していた記録があるが、いずれも「妊娠」は確認できず、単なる想像妊娠、不安障害だとあしらわられていた。Aの家族も、度重なる知人の死のショックから精神的に弱っているものだと考えていた。

 大学に行かなくなったAは、このままでは自分の妊娠が将来に悪影響をもたらすと考えたのか、恋人Xに自身の中絶を懇願する。相談されたXはAの妊娠という裏切りに動揺と怒りを隠せなかった。久々に会えたと思った彼女の腹は膨らみ、妊娠していると言う。絶対に自分の子供ではないという確証のあったXはAの不義理を罵って破局を言い渡すが、AはXにその後もしつこく連絡をし続け、己の潔白を訴え続けた。  

妊娠検査薬はもちろん陰性、病院に行っても異常はない、では自分の腹にいるこれはいったいなんなのか――(中略)

 Aの怯えと恐怖に、彼女を救えるのは自分しかいないとXは思い至った。

ついにAに禁断の処置を施した。大学から持ち出した麻酔薬を彼女に投与し、開腹による中絶を実行する。Aが二度と子供を望めないとしても合意の上だったという。Xは「こうすることでAが自分から離れることがないと思った」とも供述している。

 しかし、手術は失敗してAは死亡し、Xは血だらけの格好で警察に出頭する。

Xの親が保有する別荘の風呂場からは、ブルーシートで作られた簡易テントの中で腹を縫い合わされた状態のAの遺体が発見された。傍らには摘出された子宮らしき臓器があるのみだった。赤子などどこにもいなかった。

 Xは殺人と遺体損壊の容疑で逮捕され、精神鑑定を受けたが責任能力に問題なしと認められた。だが、その言動は不可解なままで、Aへの殺意は最後まで否認し続け、存在しない赤ん坊のこと口にしていた。

 Xは公判中に留置場で変死した。自身の服をほつれさせて縄を作り、自殺を図った。

 Xもまた、腹の膨らみで何度か警察病院で検査を受けていたというが、彼女は最後まで妊娠の可能性を認めず、事実として妊娠は認められなかった。


■ ■ ■ ■


 十年以上昔のムック本の記事を丸々転載していたブログサイトに時代を感じながら、彩里は首を竦めた。エリート医大生の凶行、しかも同性同士の痴情の縺れというセンセーショナルな事件背景のせいか、調べるといくつもこの事件をまとめたサイトが見つかった。志望大学の黒歴史とも言える事件を知らないことが恥に思えたが、事件発生時、彩里はまだ産まれてすらいない。だが、友里が産まれた年だ。しかも、姉はI大病院で産まれている。姉が大学の健康診断に必要な母子手帳のコピーを忘れ、母が届けに行ったことがあった。彩里が帰宅したとき、普段は親が厳重に管理しているその手帳を興味本位で覗いたのだ。姉が産まれてから数カ月後に、産科は閉じた。

 ほんのり甘い煙草の残滓を纏わせて、父は九時過ぎに帰宅した。母が夕食を温め直す間にシャワーへ向かう父を呼び止めると、柳眉が歪んだ。


「お父さん、あの、訊きたいことがあって」

「今すぐ必要なことなのか」

「その……お母さんには聞かれたくなくて」


 父の渋面に臆しながらも意思を譲らなかった彩里は、父の顔にあからさまな動揺が広がったのを見逃さなかった。予想外の反応に困惑しながらも、彼女は父の二の句を遮るように尋ねる。


「お姉ちゃんが産まれた年に、医学部の学生が殺人事件で捕まったよね。その事件の前にも、I大病院の産婦人科でトラブルがあったり、学生の間で妙な噂が広がったりしたって聞いて。……お姉ちゃんの言動に似ている気がするの。存在しない子供の話」


 父の視線が、リビングへ続く摺りガラスの引き戸へ向く。漏れ出る部屋の明るさに反して、その顔色は妙に暗く見えた。


「……椎名しいなくんから何か聞いたのか。事件はきちんと決着しているし、あの事件が起きる前から産婦人科の縮小は決まっていた。友里の妄想症自体は珍しいものじゃないのだから、こじつけるのはよせ。存在しないのならいないんだ、最初から」


 それきり、父は彩里の問いかけに答えなかった。

 怪談とは、こじつけから始まる。彩里は静かに父の背を睨んだ。



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