2章 なにかいる ①



 友里のメッセージアプリを開いて、彩里は「友だち」の数に驚いた。トーク履歴の割に圧倒的に少なかった。見知った名前はほとんどない。未読の通知が溜まっている相手もいたが、どのやり取りも履歴の日付は一カ月前で、姉の止まった時間を形として残していた。

 未読通知があるものは除外し、一番上から順にメッセージを確認していく。どきどきした。こんなこと、通常であれば許されない行為だ。いくら姉妹でも。

 だが、確認していくごとに心臓が軋んでいった。見なければよかったとも思った。そこには、壊れていく姉の姿が文字になって刻まれているだけだった。自分の身に起こっている「妊娠」への不安、恐怖、対処法、愚痴、SOS、逆上。家族を除いて、なりふり構わず三十人ほどの連絡先のほぼ全てに相談している。そうして、多くが返事もなく、あっても適当なスタンプだけ。

 ――姉が退屈そうに相槌を打っていた姿が重なった。あのとき、スピーカーモードで「ながら」どころか上の空だった姉の姿は、この数多のメッセージの向こう側の人間たちの姿だ。

 彩里は強いショックを覚えた。あの姉が、誰からも愛され、求められ、常に人の中心にいた姉が、ろくに相手にもされず無視されている。

 だが、気が狂ったとしか言いようのない十行を超える怒涛の乱文を見れば、読む気がしないのも分かる。推敲どころか相手のことなど何一つ考えていない駄文だ。誤字脱字も多く、同じ内容を繰り返しているから要領も得ない。恐慌状態というのは文章から嫌でも伝わってきた。読むだけで狂気が伝染しそうだ。

 改めて、尋常でなかった姉の姿を思い返した。妊娠に怯え、中絶させろと母に詰め寄り、「あなたの体は妊娠などしていない」と説明されて冷静さを失うちぐはぐした態度は、不可解以外の何物でもなかった。


「じゃあ、私のお腹にいるのはなんなのよ」


 友里の絶叫と発狂の声が部屋に反響した気がした。

 姉の残した乱文の中に、気になる文を見つけた。尾瀬という人物とのやり取りの中に「あの日何かしたんじゃないか」という旨のメッセージがあったのだ。彩里はその部分をスクリーンショットに残し、自分のスマホに転送した。


 ――【ゆーり】やばい、妊娠したかも、ていうかしてる

 ――【尾瀬】は?やば なんで、てか相手だれ

 ――【ゆーり】わかんないでも妊娠してる 新歓のとき私になんかした?

 ――【尾瀬】まじで何もないから言いがかりやめろ

 ――【ゆーり】それ以外考えられない 怒らないから本当のこと言って

 ――【尾瀬】おまえいい加減にしろよ、さすがに分かるだろ何もしてない


 そのやり取りの後は友里の怒りが込められた長い乱文が続き、尾瀬からは既読もついていなかった。ブロックしたのだろう。

 アイコンは、煙をまとい、長いパイプのようなものを手にしている若い男だった。それが何か分からず、画像を保存して検索する。「シーシャ」というものに類似していて、シーシャバーなる場所で撮影されたものだと理解した。恐らく本人だろう。

 尾瀬と姉の履歴を遡ると、大体の関係は掴めた。学部の同期かつアンバースデーで共に活動していた友人らしい。サークル活動の事務連絡がたまにあるくらいで、あとは履修相談や課題の共有、二人での食事や遊びに行こうという誘いがほとんど。交際関係を如実に示すメッセージはなかった。だが、それなりに親しい間柄だったのだろう、というのは、膨大なやり取りの歴史から察せた。

 メディア欄には二人で出かけたときのアルバムが尾瀬によって作成されていた。大型プール施設や横浜中華街,スノーボードに行ったと思しきものもある。付き合っていたとしても驚きはない。写真を見ると、尾瀬の外見も確認できた。女性にモテそうだな、というのが第一印象だ。人懐っこそうな笑顔、線の細い面、ファッションのアンテナ感度の高さを窺わせる服装。容姿に欠点らしい欠点がない。

 やり取りの中に、尾瀬の住所が記載されていた。友里が旅行中に誤って持ち帰ったらしい尾瀬の荷物を送るために訊いたものだ。調べると神奈川のアパートだと特定できた。姉の通う大学までも不便ない土地だ。一人暮らしだろうか――


 八王子駅前にある塾での夏期講習が終わった後、彩里は町田まで走る横浜線に乗った。その後、乗り慣れぬ小田急線に揺られながら、尾瀬が住むK駅を目指す。グーグルマップを頼りに、駅から二十分ほど歩いた。青々茂った丘を背負ったアパートは外壁の修繕中なのか、足場が組まれていた。


 地図上ではここが尾瀬の住まいだ。この105号室。夕暮れが迫る中、県道を走る車は多いのに人影はまばらだった。思いきって105号室のインターホンを鳴らしてみる。が、返事はなかった。もし引っ越してしまっていたら無駄骨だが、どうにか尾瀬と姉の間に謎めいた「あの日の何か」があったなら話を聞きたい。

 足場が組まれているせいで通路は薄暗かった。他の部屋からは時折物音がして、夕飯に向けての料理の匂いが漂ってくる。だが、105号室は不在なのか気配がない。彩里はアパートから一旦離れた。近隣住民に不審に思われない程度に、駐車場の近くに立てられた「月極駐車場違反金三万円」の看板の後ろに立って、背後のアパートに入って行く人影を待った。

 一時間息を潜めている間に、アパートの住人らしき若い女性が帰ってきた。一応、彼女が入って行く部屋を影からこっそり確認する。二階の住人のようで、彩里はすぐさま元の位置に戻った。丘の向こうに陽が隠れていく。三十分ほど待って、買い物袋を提げた親子を歩道に見たとき、不意に集中が途切れた。帰ろう。そう思って、帰りの電車を調べようとしたとき、アパートに向かってくる人影を見つけて看板の後ろに身を寄せた。男のようだ。コンビニの白いビニール袋を片手に提げながら、スマホをいじっている。

 薄暗いながらに、電灯に照らされた茶髪は、あのアイコンの写真をすぐに想起させた。しかし、黒いマスクで顔の半分を覆い隠していて確信は持てない。速足かつ猫背で歩く姿は神経質さを感じさせた。人懐っこい雰囲気は皆無で、アプリ内に保管されていたアルバムでの印象とはずいぶんかけ離れている。

 若者は、夏場だというのに長袖のスウェットを着ていた。105号室のドアの前で鍵を探す素振りを見せた彼に、彩里は慌てて近寄った。姉の死を漫然と受け入れていた頃の精神構造では、到底できない行為だっただろう。


「あの」と、羞恥を振り切って声をかける。「尾瀬さんですか。柊友里の妹です」

すると、男は恐怖映画の演出もかくやと言わんばかりの反応を見せた。

激しくドアが鳴る。男が大げさに振り向き、背中を張りつかせからだ。伸びた前髪の向こうには、ぎらぎら燃える目があった。その双眸は、何かに怯え、八つ当たりするときの友里の眼差しにそっくりだった。


「ゆ、友里の……、なん、なんだお前、何しに急に」


 尾瀬は声を裏返らせた。姉の名前を口にしたことでこの男が尾瀬だという確信を得られたことに、彩里は見えないところで拳を握る。


「柊彩里です、姉のことで訊きたいことがあって来ました。姉の死はご存知ですよね」

「いや、俺は何も知らない、本当に……」

「なんでもいいんです、少し話を」

「ひっ」


 喉を引きつらせた尾瀬は、逃げるように鍵を挿そうとする。が、震える手はドアノブとキーホールダーを接触させるばかりで、挙句に鍵を落とした。這いつくばるように鍵を手にしたみっともなさより、尋常ではなく怯えた様子に委縮してしまい、彩里は硬直したまま努めて優しい声音を絞り出した。


「姉とお付き合いしていたんですか?」


 体勢を立て直した尾瀬は、唇を震わせた。聞き取れる声量ではない。舌打ちが混じり、悪態をついていることは把握できた。弱っているのに尚、人間を威嚇する野良猫のような攻撃性は尚のこと姉を想起させて、彩里は気が滅入った。


「ここじゃ他の方のご迷惑ですし、駐車場の方でお話できませんか」

「俺は本当に友里とは関係ないから」


 てこでも動かないという態度も想像したが、尾瀬はすんなり移動に応じてくれた。アパートの裏手にある手狭な駐車スペースは空いていた。サザンカの植木に面して向き合うと、尾瀬の覇気のなさが余計に目につく。ビニール袋の中には市販の風邪薬や頭痛薬が大量に入っていて、彩里は飲み合わせが気になった。その視線を厭うように、尾瀬は体の後ろにビニール袋を隠して、陰気な顔で言った。


「友里が死んでから週刊誌の記者だとか、ネットの配信者だとかが大学うろついて、俺らだってまともに大学通えなくなって迷惑してる」

「サークルの人たちですか? アンバースデーというサークルは、本当にスポーツ観戦を目的とした集団だったんですか? 姉とあなたのメッセージのやり取りを見ましたけど、口論していましたよね。新歓の二次会で何かあったんですか?」

「あいつが頭イカれただけだよ、二次会の店で潰れたやつらが雑魚寝するなんて前からあった話で、……やり取り見たなら分かるよな、急に『妊娠した』って騒ぎ始めて、二次会でやられたって言い張って。何もないよ、店でそんなことするわけないだろ」

「プライベートでも、ですか?」


 むっとした顔をされるが、彩里はあくまで毅然とした表情を崩さなかった。


「ないよ、ないない。仲良かったのは事実だし周りからはそういう風に思われてたかもしれないけど、ない。ダサいから黙ってたけど告っても流されてたしそういう雰囲気に持っていっても相手されなかったしそのくせ急に妊娠したとか言い出して俺のせいにして周りの連中にもこのこと相談しまくって、……おい、あんた、お前、友里の妹。あいつがどういうことやってたか当然知ってるんだよな家族なんだから」

「ぐ、具体的には、どんな――」

「ネット見てねえのかよボケ! パパ活だのラウンジだの売女みてぇなことして、あんな緩い女、誰の子供孕んでもおかしくねーって言ってんだよ!」


 怒鳴りつけられて、彩里の心はさすがに大きく震えた。なりふり構わず突撃してきたが、砲撃を目の当たりにして足が竦むのは当然だ。マスク越しの怒鳴り声など、県道を行き交う自動車の排気音に紛れてしまう程度のものなのに、怒気の余韻はいつまでも彩里の耳たぶを引っ張ってくる。

 だが、男を恐れる気持ちはあまり湧かなかった。

 尾瀬が、姉と並んで映っていた写真のように、溌剌としていて大学生にありがちな全能感に漲る顔をしていたら竦んだかもしれない。何があっても彩里が姉を見下げることができないように、姉の傍で笑っている人間には逆らえないように脳味噌ができているからだ。

 しかし、今、年下の少女に向かって肩を怒らせて路端で感情を爆発させる男からは、まるで覇気を感じなかった。死にかけの小さな哺乳類の威嚇にしか見えなかった。

 ――その売女みたいな女に懸想し、相手にされていなかったのだから、それを憐れまずしてどうしよう。

 彩里の不憫な眼差しを真正面に受けて、尾瀬はさらに逆上した。


「俺らに黙って自分だけ稼いでたクソ女のことなんて知るか!」

「……姉は、たぶん、自分で体を売ったことなんて一度もないと思います。そんなことしなくても、稼いでいましたよね、皆さんで」


 ぼそぼそしたその声が、尾瀬に届いたかは確証がなかった。しかし、彼は急にふらつくと、酸性雨を浴びて萎れていく草木のように体が小さくなっていく。ビニール袋から、薬の箱が飛び出た。


「尾瀬さん!」


 彩里は、警戒していた間合いを崩して彼に寄り添った。香水の匂いとは違う、どこか鼻につく甘ったるい匂いが尾瀬の体から放たれていた。


「友里が死んでからずっと体がおかしいんだよ。熱っぽくてダルくて病院も何回も行ってるけどどこも風邪だなんだって相手にしてくれない」


 大声を出すスイッチが壊れてしまったかのように、尾瀬は弱々しくも早口で話した。彩里は転がった市販薬をビニール袋に収めながら、形式的に「大丈夫ですか」と口にする。が、そう言った途端、間近に見えていた尾瀬のくすんだ双眸がこちらを見た。


「友里は本当に自殺したのか? 家のベランダから飛び降りたって、誰かその瞬間を見ていたやつはいんのか?」

「え……み、見た人は……たぶんいないと思いますけど、でも」

「死んだ後にあれはされなかったのか、病院で死んだ理由を確かめる」

「検死、ですか。ええ、されましたけど、死因は頭部外傷性ショックで」

「死んだ理由なんてどうでもいいんだよ! 中! 腹の中! 妊娠してたのか!?」


 再びの大声に、彩里は慌てて首を振った。尾瀬の虚ろな目は焦点を見失いつつあり、マスク越しにも顔色が悪いのが分かった。これ以上興奮させると、本当に貧血で意識を失ってしまうかもしれない。


「姉が正常な判断能力を失ってご迷惑をおかけしたことはお詫びします。でも、柊友里の遺体から妊娠の兆候は確認できませんでした。姉は妊娠、していません」


 科学的には、と言い加えそうになるのを堪えた。

 尾瀬は目を見開いたまま、アスファルトに手をついて、急に震え出す。痙攣発作かとぎょっとするが、微かに笑い声が聞こえてきた。最初は、己の無実を証明できたことへの安堵から笑っているのかと思ったが、ゆっくりと彩里を見上げたその面には恐怖と絶望の色が滲んでいた。

 マスクをずらした尾瀬は、その紫色の唇の端を持ち上げると「話を聞いてくれ」と縋りついてきた。もっと話を聞きたいのは彩里の方だ。だが、明らかに体調に異変を来している尾瀬をこれ以上道端で拘束するのも気が引けた。


「今日のところはやめにしましょう、具合も悪そうですし、また今度――」

「俺の腹の中に何かいるんだ」


 彩里が羽織っていたパーカーを掴んで、尾瀬が呻いた。


「何かって――」彩里は愛想笑いを必死で浮かべた。


 尾瀬の手が彩里の手首を掴んだ。そのまま懐に引きずりこまれそうになり、必死で

抵抗する。悲鳴を上げようとするが、空いている手で口を塞がれた。もがく中で、尾

瀬に掴まれていた右手が何かに触れた。その感触に、彩里の指先は凍った。


「一週間くらい前から膨らみ始めて、俺ぜんぜん太ってなかったのに、腹だけ出てき

て――なあ、友里もこうだったんじゃないのか、友里だけじゃなくて、みんなこのせいで……教えてくれ、どうすればいいんだ、頼む、助けてくれよ」

「何言ってるんですか、あなたは、」

「最初はミカだったんだ、あいつ、別れられそうだからって妊娠したなんて嘘ついて、社会人の彼氏に別れるなら中絶費用出せって迫って、俺たちはやめろって言ったのに、しつこくして、俺らのことまでバレて」

「待ってください、落ち着いて、ひとまず私から離れてくれませんか」

「病院に連れて行かれたんだよ彼氏に! そしたら嘘だってバレてすげー揉めて、なのにミカは妊娠してるって言い張って、彼氏と音信不通になっても意味不明なことばっかり言って撮影に参加もしねーし、それで、友里が、仕事しないなら代わりの女連れて来いって命令したら逆ギレして、友里のこと突き飛ばして、それっきり連絡つかなくなったと思ったら自殺した。そしたら今度は、友里までおかしくなって、友里だけじゃない、俺まで……なんで、俺が、――こいつなんなんだよ、俺の中に何が」


 涙声で訴えてくる尾瀬は、間もなく、縋りついたまま嗚咽を隠さなくなった。

成人男性が公衆の面前で泣く様に圧倒されながらも、彩里はその手を全力で振りほどいた。姉の腹に触らされた手の感触が蘇る。

 妙に膨らんでいて、脂肪とは異なる弾力ある腹――

 力なくアスファルトに泣き崩れた尾瀬を見て、彩里は怯んでしまった。手を差し伸べることが躊躇われる。男なのに。男なのに、男なのに男なのに男なのに。そんな風にお腹が大きくなるわけないのに。

 逃げるようにその場を立ち去った彩里は、二度と尾瀬を見ることがなかった。

 尾瀬が死んだことをニュースで知ったからだ。

彩里と会って二日と経たないうちに関東広域のニュースの一部に彼の名前はあった。夜明けの国道にふらりと侵入して大型トラックにひかれ、即死だったらしい。歯磨きをしながらぼんやり見ていたテレビに尾瀬朋也の名前があり、彩里は頭が真っ白になった。口の中よりもよほど発砲していき、何もかも漂白されていく気がした。

 もはや偶然の類とは思えない。妊娠を苦に自殺したというサークルメンバー、してもいない妊娠を主張して突然飛び降り自殺を図った姉、大きくなる腹の中に何かがいると縋ってきた男――これは全部、繋がっている。

 電車に飛び込んだミカ。姉に電話口ですすり泣き、縋りついていたミカ。

 彼女とはあれきり、一度も会っていないと友里は言っていた。嘘だったのだろうか。そんな嘘をつく必要があるのか、彩里には甚だ疑問だった。連絡をブロックして相手を傷つけ、追いつめた片棒を担いだと白状するようなものだ。会ったけれど自殺は止められなかった、と結ぶならまだしも、真実を言って友里にメリットは何もない。

 そもそも「お気に入り」以外には等しく興味の薄い姉のことだ。どうでもいい相手のためにわざわざ嘘をつくわけがない。

 そうすると、尾瀬が嘘を話したのか? みっともなく女子高生に縋りつき、嗚咽を垂らす間際の切迫した表情を、彩里は嫌でも思い出す。あの状況で、彼に嘘をつく理由がない。友里がミカと死ぬまで一度も会っていないのも、ミカが友里を突き飛ばしたのも、どちらも正しいとしたら。


 突き飛ばされたという友里は、果たして本当に、死んだ柊友里だったのだろうか。

そんな妄想を真剣に考えてしまうほど、壊れてしまった姉と壊れる前の姉のギャップは、いまだ強烈なトラウマとなって彩里を蝕んでいた。自分に姉は友里ただ一人、畏怖と憧憬の対象だった姉はたしかに死んだ。発言の矛盾など今さら考えたところで無駄だ。わけの分からぬことを言った人間は揃って消えた。

 無惨な死体となって、光を映さぬ目玉の色が脳裏をよぎる。

 吐き気がこみ上げ、彩里は台所のシンクに飛びついた。リビングで洗濯物を畳んでいた母が駆け寄ってくる。


「彩里? どうかしたの、大丈夫?」


 幸い、中身をぶちまけることはなかったが、シンクには唾液に希釈された白い泡がカエルの卵のようにのっぺり広がっていた。背中を擦られる熱を感じながらも、彩里の意識は母から乖離していた。

 自分の吐き気すらアレの予兆なのではないかと思うと生きた心地がしなかった。

 こういうときに限って、生理がこない。

 毎日、腹を鏡で確認し、撫で、異常がないことを確信しないと部屋から出られなくなった。夏期講習と家庭教師の授業のときだけは勉強に集中できたが、一人で自室にいるとわけも分からぬ恐怖感が身の内で暴れ回る。発作的に姉のスマホからSNSを漁った。

 ――このスマホを捨ててしまおうとも思った。この端末には、見てはいけない姉の醜悪な姿がそのまま残されていた。表に出してはならない情報の塊だ。姉の「知人」を辿ることで、オカルトめいた話を目の当たりにすることも怖かった。


 だが、不安になると姉のアカウントからSNSを漁り、一時でも没頭することで気を紛らわすことが癖になっていた。この数日、自宅での学習は己に課した目標値にまるで達していない。


「最近、また何かあった?」


 家庭教師の授業がつつがなく終わって見送っていると、先生が靴を履きながら遠慮がちに尋ねてきた。


「何もないよ。少し疲れているのかも」

「たまには息抜きしてもいいんじゃないかな。参考書や問題集以外の本、授業の配信動画以外の映像、最後に触れたのはいつ? 娯楽も大事だよ、受験は長期戦だから」


 姉のスマホでSNSを漁りまくって、他人の投稿を監視しているのだ、とはとても言えない。姉の男友達の腹が姉と同じように大きくなって死んだ、なんて――

 ピンポン、とやけに鮮明なインターホンの音が鳴って、彩里ははっと我に返った。短い時間だったが玄関に立ち尽くしていたようだ。先生はとっくに帰ったあとで、西日が強く差す玄関は全館空調のマイホームであっても、さすがにぬるくなっていた。

 すりガラスの向こうに、いくつもの影が蠢いている。

 彩里は血の気が引いた。後ずさりしたとき、リビングのドアが開く音がした。

 店休日のために在宅していた母が、彩里の横を過ぎた。幽鬼のような白い顔をしていた。何も言わずに、玄関のドアを開けようとする母を、彩里は慌てて止めた。


「だめ! 開けないで!」

「……何言ってるの。そういうわけにいかないわ、こんなところ近所の人に見られたらまた変なこと言われるでしょ、早く家に入れて用事を済ませてもらった方がいい」


 鬱陶しそうに彩里の手を引き払うと、母は鍵を開けた。

 うごめいていた影が一息に、家の中に入ってきた。


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