1章 なにもいない ④

 同じ胎から生まれ出でながらに、乳幼児のときから顔立ちが違った。友里は一歳前には父親そっくりの奇麗な平行二重と、母を凌駕する大きな目を有していた。赤子といえども、その笑顔は周囲を和ませるというより魅了したことだろう。彩里も二重にはなったが、離れ目で、たれ目で、どこか間の抜けた顔立ちだった。赤子のときはそれでも愛嬌があって可愛く思えたが、成長していくにつれてその差は如実になっていった。それを残酷と思ったこともある。

 しゅっとした面立ちに加えて、友里は背が高く、筋肉がつきやすい体質のためかメリハリのある体つきをしていた。彩里は友里ほど背が伸びず、また、日常的な猫背のせいで貧相な雰囲気をそのまま肉体が反映していた。

 友里は語るまでもなく美人で、彩里の同級生たちも小学校の時分は随分と姉を神格化していた。幸いにして、それを理由に彩里が貶されることも馬鹿にされることもなかった。圧倒的な美は、他者を引き合いに出して嘲笑する種にもならないのだ、と幼いながらに彩里は姉に平伏する気持ちを抱いた。


 一方で、寧ろ彩里が抜きん出て、「彩里ちゃんに比べて友里ちゃんは」と言われることが勉学だった。父のように医療関係の仕事がしたいと幼少時から漠然と願い、まずは父と同じ薬剤師を夢見、次は看護師に憧れ、小学校高学年のときには医師になることを志していた。きっかけは友里の怪我だ。彩里が小学三年生のときだった。

 体育の授業で高鉄棒から落下し、友里は手首を骨折した。ついでに顔面を殴打して、額が割れた。病院に搬送され、彩里も両親とともに慌てて早退したが、周囲の心配に対して、だいぶ痛むだろうに姉はけろりとしていた。治療を受け、一日検査入院した後、手首に頑丈なギプスを嵌めて帰ってきた。


「見て彩里、カニ。めっちゃ身が詰まってそうでしょ」


 白いギプスに赤い布切れを巻きつけ、ふざけて笑いあったとき、姉の頭にはまだ包帯が巻かれていた。傷一つついてはいけない美貌の肌が――割れた額がどうなったのか、彩里は想像した。興味と恐怖が入り混じり、目立つ傷が残ったとき姉は柊友里であり続けられるのかと、いらぬ心配をしていた。

 結果的に、縫合の跡はわずかに残った。定期的に形成外科へ通って傷跡を目立たなくする処置をし、化粧を施せば完全に分からなくなるくらいになった。骨が繋がり、傷が癒え、消えていくまでの過程を間近に見て、人体の不思議と強度に感動した。同時に、人体治癒の手助けする医者の在り方に将来を見た。自分のような人間でも、姉とは違った形で人々の心に残れるかもしれない。

 勉強は苦ではなかった。進学校で有名な中高一貫の女子校に合格したとき、誰よりも喜んでくれたのは友里だった。「将来はお医者さんだね」と、彩里ですら軽々しく口にできなかったことを平気で言い、それも茶化す空気は一切なくて、わしゃわしゃと頭を撫でられた。彩里は、友里と姉妹でいられてよかった、と心底思った。きっと他人同士だったら話しかけることすらできない。その視界に入ることすらなかったかもしれない。友里はそういう人間だから。

 姉の異常を感じたのは、鉄棒落下事件から二カ月ほど経った夏休み明けだった。

友里のクラスに、札幌から転入生がやって来た。親の転勤に伴って首都圏に越してきたと言う彼女は、色白で友里より背が高い美人だった。ヨリちゃん、と友里は呼んでいた。新参者ながらに友里と並んでクラス内ヒエラルキーのツートップになった彼女は、学校に来なくなるまでの数カ月の間に何度も柊家に遊びに来ていた。閉め切られた姉の部屋、ドアの向こうから絶え間なく聞こえる笑い声と、不意に訪れる静けさ――二人だけの世界で、友里とヨリちゃんは親友になった。はずだった。


 ヨリちゃんが不登校になったと噂で聞いたのは冬休みの目前だった。思い返せば、木枯らしが吹くようになってからヨリちゃんは家に遊びに来ていなかった。単純に日が短いからだと思っていたが、実際は、ヨリちゃんがクラスでいじめに遭っていて学校に来なくなっていたのだ。


「お姉ちゃん、ヨリちゃんと何かあったの?」


 勇気を出して、姉に尋ねた。ヨリちゃんは彩里にも優しくしてくれて、一人っ子だから妹ができたみたいで嬉しい、とまで言ってくれた。そんな彼女がクラスでいじめられているなんて、原因は友里以外に考えられなかった。喧嘩でもしていじめをけしかけたのなら、いくら姉でも許せないと、幼いながらに言葉にできない憤懣が胸の内にガスとなって充満していた。

 中高生向けのファッション誌のページをめくりながら、友里は「なんで」と口を開いた。こちらを見ない姉の前に回りこむ。それでも、友里は彩里を見なかった。


「ヨリちゃんのこといじめてるの?」

「私はいじめてないよ」

「あんなに仲良くしていたのに、どうしてやめさせないの? みんなお姉ちゃんの言うことなら聞くよ」

「だってヨリちゃんから頼まれてないもん」

「いじめを見て見ぬふりするのもいじめているのと同じなんだよ」


 担任が言っていた言葉を一言一句間違えずに引用する。はは、と必死な様相の彩里がおかしかったのか、それとも雑誌の中身にくすぐられたのか分別がつかなかったが、とにかく友里は乾いた笑い声を出した。


「ヨリちゃんのことが嫌いになっちゃったの?」

「ううん、好きだよ。顔が可愛いし、髪も奇麗だし、肌は白いし、足が長いし、話も面白いし、ピアノができて勉強もできて」

「じゃあどうして助けてあげないの、頼まれなくても助けてあげるのが友達だよ」

「そうかな、ヨリちゃんが私のところに来るのを待ってるんだけど。友達だっていうなら頼ってほしいよね、学校来なくなっちゃう前にさ」


 友里の口調は淡々としていて、それだけに、からかう意図も馬鹿にする意思もないことを感じさせた。それが余計に気味悪くて、彩里は生唾を飲んだ。小学三年生の倫理観で考えても、姉の言動は支離滅裂に思えて、言葉が詰まった。


「もういじめられないよって言ったら学校来てくれるかな、ヨリちゃん」

「……なんで急に、ヨリちゃんはいじめられるようになったの?」


 言外に姉を責めたつもりだった。私はいじめていないなんて言葉を鵜呑みにするわけもない。友里は雑誌を閉じて「嫉妬されちゃったんじゃない、かわいいから」とまるで取り合おうとしなかった。


「私と釣り合うには、ヨリちゃんは何でもできすぎなんだよ。もっと空っぽになってほしいんだ、そうじゃないと私たち、釣り合わないから」


 友里はそう言って、前髪を掻き上げた。小学生らしからぬ妖艶な仕草だった。その形のいい額の端には、変色し、ぷくりと盛り上がった傷跡がある。その周辺に、ニキビができていた。姉は少女から女性に向かって着実に成長していた。だが、その言動はとても大人とは言えず、幼稚ゆえの無垢な邪悪が悪臭を放っていた。


「ヨリちゃんのことすごく好きになっちゃったから、クラスの子たちに自慢しちゃった。ヨリちゃんが引っ越してきた本当の理由。ヨリちゃんね、札幌で担任の先生と仲良し、してたんだって。好きになっちゃったんだって。それがバレて、大問題になって、それでこっちに来たんだって。秘密だよって言われたけど、秘密を私にだけ教えてくれたのが嬉しくてみんなに自慢したら、みんな、ヨリちゃんのこと悪く言うようになったの」


 ――あのときは、担任の先生に贔屓にされていて学校で浮き、今と同じようにいじめに遭っていたのだと解釈したと思う。年を経て、姉の発した隠語の意味を悟って怖気が走った。

 友里は笑っていた。悪意を感じさせない、悪意に塗れた笑顔だった。きっと本人は「悪」など自覚していない。病院で一人、痛みなどないかのようにけろりとしていた姿がフラッシュバックした。姉は、そういう人間なのだ、痛みを感じない人間なのだ。あるいは、高鉄棒から落ちて額が割れたときに、欲望の蓋が開いてしまったのかもしれない。本来、表に出してはいけない心の暗黒が。


「あーあ、ヨリちゃん、すごく可愛いから大好きなのに。もう学校来ないのかな」


 他人事のように呟いて、姉は再び雑誌を読み始めた。

 彩里は迷った末に「校長先生へのお手紙箱」へ匿名で投書した。

 六年四組のミヨシヨリコさんはいじめにあって不登校になっています。

 いじめはよくないことです。

 ヒイラギさんが――この部分は結局、塗りつぶした。


 彩里の投書は後日、全校集会で取り上げられた。クラスとヨリちゃんの実名こそ挙げられなかったものの、実際に不登校となっているヨリちゃんのことで六年四組は「特別授業」と銘打たれた人権教育が放課後行われたらしい。そこでどういう話があったのかを彩里は知らないが、母親が学校に呼ばれたのは知っている。

 結局のところヨリちゃんは卒業式にも来なかったし、中学校は全く別の学区にあるところに進学したようだった。

 友里は家の近くの公立中学に入学し、そこでもやはり人気者だった。小学校からの持ち上がりがほとんどの地域だから、それも当然と言えた。

 彩里は今までより目を凝らして姉の生態を解剖しようとした。姉が再びいじめのきっかけを作ることがあれば、許せないと思ったからだ。しかしむしろ姉の周辺の方がよほど他人に酷薄で、男女関係なく人の見た目や仕草をあからさまに馬鹿にしている姿を下校中に目撃しては、嫌な思いをした。小学生のときより成長しているはずなのに、彼ら彼女らは悪辣に、大胆に、人を笑いものにすることを楽しんで見えた。

 生物を観察する目で姉の動向を見ていると、気づくことがあった。友里は進んで喋ろうとしないのだ。友達の輪の中にいるというより、同級生たちが友里を囲んでいる状態に近い。友里が歩く方向についていく雛鳥たち――いや、もはや彼女の服についている綿毛や毛玉だ。何しろ友里が率先して引っ張っているわけではないからだ。

 友里は分け隔てなく周囲に接して話を合わせる反面、誰かの悪口や噂に対しては含み笑いを返すばかりで、軽率な発言を一切しないのも意外だった。「私はいじめていない」という主張は、彼女の中では正当性を持っていたのかもしれない。それどころか、「貧乏人」「汚い」と小学生のときからからかわれていた同級生の男子にもフラットで、友里がそうするなら、と言わんばかりに周囲は彼に対して非道な言動をやめたくらいだ。そんなことができるならなぜヨリちゃんを追い詰めるようなことをしたのか。

 ――やはり姉は異常者だ。 

 彩里にとって友里はよき姉、愛すべき家族、憧れる女性であったが、決して理解できない、どこか巨大で暗澹とした森の向こうにいる怪物のように思えてならなかった。

 姉が再び怪物の顔をして人の世に降りてきたのは、中学三年生のときだった。

 その頃、彩里は中学受験の追い込みのために、塾で遅くまで勉強漬けだった。だから友里の監視が疎かになっていたし、中三ともなると姉は無断外泊や都の条例に引っかかる時間まで遊んでいたせいで行動が追えなくなっていたから、異変に気付くのが遅くなってしまった。同じ受験生とは思えない。夏休みの間だけ塾に行って何になるのか、彩里には甚だ疑問だった。だが、姉は姉、自分は自分、領分が違うと思って彩里は一人勉強に打ち込んでいた。その矢先に、ある少女と相対した。

 リオ、と姉はその少女を呼び捨てにしていた。塾の迎えに来てくれた母の車には、珍しいことに姉と見知らぬ女の子が乗っていた。ボブヘアで、円らな瞳が印象的な可愛い顔立ちの少女だ。他人が乗車していることにぎょっとしながら、彩里は仕方なく助手席に乗った。訊いてもいないのに母が説明してくれた。


「リオちゃんって言って、友里と同じ中学三年生。西中だけどね。友里とは夏期講習で仲良くなったみたい。彩里が塾のときたまに遊びに来ていて。今日はご飯も一緒に食べてね。うちは泊まっていってもいいんだけど、さすがにって親御さんに断られたからこれから送っていくところ。ちょっと家に帰るの遅くなるけど、いいよね」


 初めまして、の一言もろくに言えなかった。リオは中三ながらにあどけなさが残る、可憐な少女だった。ヨリちゃんとはだいぶ雰囲気が違ったが、彼女もまた、姉の琴線に触れる存在だったのだろう。現に、友里が彼氏ではなく「友人」を家に招くのはヨリちゃん以来だった。そうなるのが他所の学校の子なんてそれこそ予想外だった。

 リオは姉と親しくするうちに志望校のランクまで落とした。友里と同じ高校に行くことを優先したらしい。彩里は無事に志望校だった中高一貫の女子校へ合格し、その一カ月後に姉は定員割れするような公立高校に合格した。

 念願叶って友里と同じ高校に通い出したリオは、数カ月後に苛烈ないじめの対象となり、学校から消えた。姉と同じ高校なんか行かなければよかったのに。「私はいじめなんかしてないんだけど」と、親友が消えたことを嘆きながらも、隠しきれない歓びを口元に浮かべていた姉を見て、彩里は心底、リオを憐れんだ。


「空っぽになってほしい」「そうじゃないと釣り合わないから」


 かつての友里の告白は、彩里の心の澱となっていた。姉の言動に心が乱されると、沈殿していた告白が「私を解って」と言わんばかりに攪拌され、濁った。

 誰にでも笑顔で、人々の中心にいて、敬遠されている人間にも平気で接する。それでいて、親友のような密な関係を作った人間の窮地はただ見ているだけ。その歪な姿勢を間近で見つめた彩里が出した結論は、姉は異常性癖なのだということだった。

 友里は、自分と同等と認めた相手だけが「好き」なのだ。厄介なことに、友里は嫌いという感情を他人に持たない。嫌いだから陥れたい、貶めたいという攻撃性から他者に毒の化合に勤しむわけではなく、好きな人には自分と同列の存在になってほしいという欲望が怪物を呼び覚ます。

 自己への圧倒的な自信とプライドが、友里から見た他人へのハードルを高くしている。愛玩の対象か、自分と並ぶ人間たりえるか――そして友里の「好き」は、友里の身勝手な欲望の末に、容赦なく対象を地獄へ叩き落とす。

 容姿が優れていることは絶対条件だった。姉はかわいい女の子、が好きだ。芸能人のような手の届かぬ存在ではなく、身近にいる「自分と同じくらいかわいい女の子」を愛でたがる。ライバル意識から、あるいは同族嫌悪から相手を追い詰めるのではない。好きな相手にこそ空っぽになってほしいと思うのは、今思えば、姉自身が空虚な人間だったからなのだろう。

 蝶よ花よと育てられ、外見のことだけを昔から褒められ、周りの大人たちもそれこそが素晴らしいことであると合掌する。勉強ができなくてもいい。可愛いから。体育が苦手でもいい。美人だから。喋らなくても周りが勝手に話してくれるし、大袈裟に主張しなくても友里の一言は何より優先される。みんな、可愛くて奇麗でそれだけで価値のある友里と友達でいられる自分にも価値があると思いたいから。

 ――彩里だって同じだ。友里の妹というだけで羨ましがられる時代が、たしかに存在した。内気で、臆病な自分がいじめられなかったのは友里の存在があったから。その恩恵を自覚していたから、姉が間違ったことをしていても何も言わなかった。

 宿題を自分でやらなくても、母の手伝いをしなくても、こっそり父の財布からお金を盗んでいても。家族みんなそれを黙認していた。当たり前の顔をして姉は生きていた。姉自身が、そんな己を「空っぽ」と自覚していたことが彩里には驚きだ。そう思うなら変わればいい。そうすれば、柊友里はより完璧な人間になる。

 だけど姉はそうしなかった。

 なぜか? 異常だからだ、彩里にはそうとしか思えない。

 彩里が知る限り、近所にも小学校にも、友里と匹敵する容姿というギフトを享受する子供は周りにいなかった。ヨリちゃんが引っ越してくるまで――将来は女優さん、モデルさん、アイドル、芸能界に興味ないですか――そんな甘い賞賛と期待の言葉なんてきっと友里の心には何一つ引っかからないで、姉は自分の隣に立つ誰かを待ちわびていた。ヨリちゃんは姉の御眼鏡に適った、初めての同級生で友達だった。

そんな人を平気で壊してしまう。壊してしまうほど「可愛がる」。これを異常と言わずして、どんな人間の心理に眉を顰めるというのか。


 誰にも媚びないが誰とでも親しくできる。何が好きかは分からないが尽くしたくなる。そういう底知れぬ魔性が、姉の魅力をより倍増させて、数多の人を寄せつけたと思う。一方で、人に好かれたくてそういう振る舞いをしていたわけではない友里には、友人を名乗る人々からの好意や相談は時に鬱陶しく感じることもあっただろう。

彩里が思い出すのは数カ月前の春先。桜の開花宣言がされた前後。春休みも終わりかけの夜。彩里は、珍しく姉が長電話している場面に遭遇したことがあった。

 先生の授業が終わったあと、和室の座布団を片づけていると無骨な黒財布が出てきた。先生が忘れて行ったのだ。慌てて先生に連絡してもらい、近くのコンビニで待っていてもらった。先生は家まで取りに来ると言ってくれたが、往復させるより自分が自転車で向かった方が時間の節約になる。先生は家庭教師の前に、多忙な学生だ。

自転車を取りに家の裏手に回った。物置小屋の上には姉の部屋のベランダがあって、気だるげな相槌が聞こえてきて思わず顔を上げた。友里がベランダに出ていて、彩里と目が合う。スピーカー状態で話しているようだが、相手の声はうまく聞き取れなかった。恐らく泣いていたのだと思う。


「ごめんちょっと妹。彩里、どこか行くの」と、姉が相手に断りを入れてから話しかけてきた。

「コンビニ行ってくる、交差点のところのファミマ」

「アイス買ってきて」――まだ肌寒いのに、よく食べる気になる。


 しかし言われるがまま、彩里はアイスを買って家に帰った。実際は、先生が買ってくれたのだけど。結局コンビニで先生と少し雑談をしてしまって、すぐ戻るつもりが三十分も外出してしまっていた。自転車を物置小屋の横へ置いたとき、姉はまだ誰かと話しているようだった。長電話というより、電話自体をあまり好まない友里にしては珍しいことだと思いながら、アイスを届けるべきかしまうべきか悩みながら家に入った。そのとき、友里からラインがきた。アイスを部屋に届けるようにと。

 友里はベランダの引き戸を閉めて、人を駄目にするクッションに身を預けた。


「誰と電話してたの?」


 カップタイプのアイスを好む彩里に対して、友里はバータイプのものを好んでいた。包装ビニールを破いてやり、チョコレートのアイスを渡すと、友里はスマホをベッドに投げ捨ててから手を伸ばしてくる。


「サークルの子。なんか妊娠したかもってちょっと前から騒いでて、その相談っていうか愚痴っていうか、ただ泣いているのを聞いていただけというか」


 アイスを食みながら平然とセンシティブな話題を打ち明けてきた友里に、彩里は「妊娠」と一言反芻することしかできなかった。サークルの子ということはまだ大学生、同じ女として深刻な問題だ。まるで赤の他人の彩里がショックを受けているというのに、顔も名前も知っているはずの友里の方がよほど他人事のような顔をしていた。


「解決できそうなの……?」

「さあ、無理じゃない? 私に相談されても困るし」

「それはそうかもしれないけど、でももしお姉ちゃんが同じことになったら」

「え、ないない、それはない。したことないもん、セックス。したいとも思わないし」

「セ、……え……そう、そうなんだ……」

「なんで? 彩里はあるの?」


 あるわけがない。彩里は首が千切れるのではないかと錯覚するほど激しく頭を振っていた。耳がやけに熱く、胸焼けを感じた。意外。その言葉を必死で呑みこむ。そんな彼女の反応を、友里は不思議そうに見ていた。

 友里は何人かとの交際経験がある。歴代彼氏のタイプはまばらだ。彫りの深い野性味ある顔立ちの人もいれば、色の白い俳優じみたスマートな人もいた。共通するのは姉と同じ学校、同じクラスくらいのものだ。

 いくら「友情」の角度が人より鋭利すぎる友里とはいえ、恋愛はまた別の嗜好かもしれないと思っていた。だが、実際は恋愛なんてつもりは姉にはなかったのかもしれない。彼氏彼女という文化に乗っかって、最初に告白してきたのがたまたまその男たちだっただけ。そう推測すれば、姉が体の関係を断っていたとしても変な話ではない。別に姉は彼らのことなどどうでもいいのだから、断って拗れたところで別れればいいだけだ。とは言え、夜遊びが日常茶飯事だった姉がそういった点でクリーンなのはやはり、意外だった。

 妊娠を相談してきた友人が自殺したのも、姉から聞いた。「そう言えばこの前の電話の人どうしてるの」と、洗面所で鉢合わせしたときに興味半分で尋ねたのだ。


「あぁ、電話してから一度も会ってないし連絡も取ってないけど」


 歯ブラシに歯磨き粉をにゅうと出しながら、友里は言った。


「線路に飛び降りちゃったらしいよ」

「えっ……」

「先月の、えーと、まあしょっちゅう人身事故あるから調べてもきりないか」


 彩里の歯ブラシにも同じように歯磨き粉をつけてくれた友里は、悲痛さの欠片もなかった。あれきり、友里は電話に出るどころか、メッセージの受信自体をブロックしており、まともに相談に乗ることはしなかったという。大学は春休み中、顔を合わすのは唯一サークル活動くらいだったが、そこにも彼女は現れなかったらしい。

その薄情さに、彩里は無意識に蒼い顔をしていたのだろう。まるで慰めるように、友里は彩里の口に咥えられた歯ブラシを代わりに動かした。


「だって妊娠したなんて思いこみだし」


 歯ブラシを咥えながら、友里が言った。それはどういう意味なのか聞き出そうにも、姉妹の口は泡だらけだった。姉がおかしくなったのはそのあとだ。

 ――その友人も、妊娠したと言い張るだけで証拠はどこにもなかったということではないか。だから誰も相手にしなかった。

 友里の部屋の真ん中でビーズクッションに埋もれながら、彩里は瞬き一つしないまま天井のLEDライトを見つめていた。姉以前に妊娠したと言い張って自殺していた人間がいる、という怪情報は、あながち適当を並べたものではないのかもしれない。

彩里が姉の部屋で手がかりを探す数日の間に、柊家には雑誌の記者が何人か取材の申し込みに訪れた。父の知人の弁護士が版元に抗議文を送り、それから押しかけはなかったが、世間から奇異の目で見られていることは嫌でも感じた。

アンバースデーというサークルの実態は未だ噂の域を出ず、メンバーとの接触もできていない。母が茨城の実家から戻ってきても、家の中や自分を取り巻く陰湿な空気は何一つ変わらなかった。


 そんな中で、彩里の救いは先生だけだった。学校には行かなくてもいいと言われたが、彩里は意地で通い続けていた。とげとげした心を持て余しながら家に帰り、苛々をぶつけるように問題を解いた。先生はそんな彩里に近づきすぎることも離れることもなく、ただ職務を全うすることで寄り添いを見せてくれた。

 だから、先生が休日の昼間にケーキの箱を持って家にやって来たことに狼狽した。


「先生。今日授業だったっけ」


 両親が弁護士の元へ相談に行っている間にやって来た先生は、驚く彩里に歯を見せて笑った。背中にかかる長い黒髪は無造作なのに、きっちり分けられた前髪の間には形のいい額が見えていた。彼女を前にして、一瞬、彩里は混乱した。


「なんか先生……雰囲気変わった?」

「分かる? 美容師さんに勧められて髪型変えたんだ」


 そうか、そうだよな。一瞬でも、姉が帰ってきたように思った自分の動揺を彩里は嗤った。友里が死んで間もなく一カ月が経つというのに、柊家は停滞したままだ。姉への誹謗中傷は大学自体にも及び、アンバースデーというサークルは雲隠れしたまま実態が掴めない。姉の他に自殺した学生に関する情報は「個人情報」だとして開示されないままだ。


「ごめん、先生、せっかく来てくれたのにこんな話して」


 リビングに通して、冷蔵庫から水出しのアイスティーを取り出した。先生はケーキを箱から取り出しながら「エマでいいよ」と薄ら笑った。


「今日は先生をしに来たんじゃないから」


 エマ――恵真。彼女の名前を口の中で転がすと、なんだか懐かしい味がした。

 最初の暴露ポストから三週間が経過して、世間は柊友里という「悪」に飽きてくれた。本人だけでなく家族や住所の素性もでたらめな情報としてネットに出回っているが、きっともうわざわざ検索する人間もいない。

 世の中は激流のようなスピードで善と悪が拡散され、昨日言った悪口や批判を簡単に忘れてしまう。だけど、激流の中でどうにか岩場に縋り、立ち尽くす人の姿がある。両親は友里の自殺の真相を調査することより、死後の誹謗中傷への報復に忙しくしていた。放置されるようになった友里の白いスマホは、今、彩里の手中にあった。


「さっき、この家をじっと見てる人がいたよ。女の子だったかな。警察の巡回はまだしてもらっているの?」


 黒いケーキが載った皿を前に、彩里は口の端を引きつらせた。恵真は心配そうに見つめてくる。最近は見ないが、ネットでのバッシングが過熱していた一週間、自宅ポストには「出て行け」だの「キエロ」だの暴言が書かれたチラシやゴミが詰め込まれることがあり、防犯カメラの映像を警察に渡して捜査してもらっていた。警察の巡回をしてもらうようになってから被害らしい被害はないが、物見遊山で見に来る輩がまだいるのか、と彩里はアイスティーを口に含んで気分を変えた。


「もう話題も薄れてきた頃なのに、暇な人はいるんだね」

「強がらなくてもいいよ彩里ちゃん。怖いよね。無理して学校も行ってるんでしょう?」

「……もう、夏休み入るから」


 憮然とした表情になってしまったが、それも仕方がないと甘んじた。

 ネット民の興味関心が薄れたからと言って、彩里の実生活が浸食を免れることはなかった。今まで卒なく、目立たず、物静かに過ごしてきたというのに、まるでもぐらを待ち構えていたかのように、クラスメイトたちはさりげなく、確実に、集団で彩里に嫌がらせをした。陰湿という文字が擬人化したらこういう顔をしているのだろう。教室や廊下で足を引っかけるだとか、出席番号ごとに割り振られた清掃場所に誰も来ないことで掃除を押しつけるだとか、机の引き出しに使用済みの生理用品が詰められるだとか、低俗な嫌がらせが続いている。


「学校の先生には相談しないの?」

「余計なトラブルは起こしたくないんです。どうせ秋からは受験に特化した授業編成に変わりますし、冬には自由登校ですから」

「だけど、彩里ちゃんがそんなことされる謂れはないのに」

「姉に向けられた幾千幾万の、知らない人たちからのヘイトに比べれば全然大したことないです。元々、友達もあまりいませんでしたし」


 自嘲が零れると、外気を思わせるじっとりした熱を孕んだ沈黙が広がった。それを誤魔化すように、行儀悪く、かちゃかちゃ音を立てながらケーキにフォークを突き刺して食べ進める。無性に苦くて、顔が歪む。


「今さらだけど、お姉さんの記事は事実なの?」

「……いじめは、……たしかにありましたが、相手が自殺したかは……」

「妊娠、してたの?」

「――分からないんです。こんなこと言うと、気持ち悪がられるかもしれないですが。死ぬ前、姉は妊娠したと言い張っていました。だけど、何回検査してもそういった証拠は見られなかったし、そもそも姉は、そういうことをしたことがないと言っていました。なのに、死ぬ前にはお腹がはっきりと膨れていて、つわりのような症状があって――だけど、何もいなかったんです、お腹の中には、何もいなかった」


 恵真は理知を感じさせる涼やかな目元をぴくりとも動かさなかった。かさの減らないグラスに伝う水滴を指先に吸わせ、「まるで神話みたいだ」と言った。


「でも産まないと処女受胎神話にはならないね。本人は妊娠を主張して、実際に体にも異変があった……自殺の原因もそれ?」

「たぶん……でもそれ以外に何かあったんじゃないかって、両親は躍起になってました。強度の妊娠不安症を発症するような出来事があって、姉は心を病んでいた。そう考えたくなる気持ちは分かります、わけもなく想像妊娠して死を選ぶなんて。そちらの方が、理解が追いつきませんから。大学側にも話を聞いていて、その矢先に、姉の個人情報が晒されて炎上したんです」


 既に彩里の分のケーキは欠片を残すのみだった。対して、恵真はアイスティーにすら口をつけておらず、彩里の話に耳を傾けているようだった。こんな不気味な、ともすれば作り話のような告白にも関わらず、否定や茶化しを口にしない恵真の態度に感謝しながら、彩里は「姉のサークルで同じような自死があった」ことを敢えて口にするか悩んだ。まごついた唇の動きを、恵真は見逃さなかった。


「何か打ち明けたいことがあるなら言ってごらん。抱え込むのはよくないよ」

「……いえ、もう、どうしようもないことですから。どうあれ、お姉ちゃんは死んでしまった。私ができるのは、きちんと夢を叶えて、しっかり生きていくことです」


 きれいごとに聞こえるかもしれないが、恵真は「そうだね」と柔和な表情で頷き、彩里を応援してくれた。彼女が手をつけなかったケーキは結局彩里が食べた。ケーキはやはりほろ苦く、彩里の口元を黒く染めた。

 彩里は宣言通り、夏休みまで意地で学校に通い続けた。対抗するかのように、飽きもせず同級生からの嫌がらせや冷ややかな眼差しはやまなかったが、気にしないふりを続けた。夏期講習の傍ら、家庭教師の授業を受け、夏の暑さを受験への熱に必死で変換し続けた。


 友里のスマホのロックが解除できたのは、その休息中だった。


 両親が滾る関心をネット民への開示請求に移したときから、姉のスマホは彩里が密かに持っていた。自分のスマホと間違えてパスコードを入力して、あまりにすんなり画面が開いたものだから、彩里は自分のスマホではないということにすら即座に気づかないほどだった。アプリアイコンの類をほとんど画面に置かない自分に対して、そのスマホは有名どころのSNSアイコンがずらっと並び、目が滑る。

 彩里は、アドレナリンが噴出されるのをたしかに感じた。

 その真意はもはや藪の中だが、3012で開いたスマホに、運命的なものを感じずにはいられなかった。三月十二日は彩里の誕生日だ。0312ではなく3012としたのは、安直なロックの中にせめてもの変則性を付与したかったからだった。まさか、姉が自分と同じ数字をロックコードにしているなんて思いもしなかった。


「彩里、誕生日おめでと」


 姉妹間でプレゼントのやり取りはなかったが、その言葉は欠かさずもらっていた。


「彩里が産まれてきてくれてほんとに嬉しい」


 たとえ方便でも、姉はそう慈しんてくれた。

 姉のスマホを両手で握りしめたまま、彩里は俯く。こめかみから下瞼にかけて強い力がかかっていく。痛みとなった熱が鼻の奥から込みあげる。


「お姉ちゃん……」


 彩里は、震える指先でSNSのアイコンをタップした。ただの好奇心であれば開かない方がいいに決まっている。もう過ぎたことだと目を伏せた方が健全だ。だが、たった四桁の数字が彩里の心を今一度、姉に向き合わせていた。

 友里が死んだ理由が、知りたい。



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