1章 なにもいない ②

「妊娠したかもしれない」


 その一言から、姉は上昇を知らないジェットコースターと化してあっという間におかしくなっていった。美貌はくすみ、言動は手負いの獣じみた攻撃性をはらんで「事実」を「事実」として受け止めぬ病的な意固地で周りを混乱させている。

 まず、姉の告白を受けて青ざめた母がやったことは、夕飯の準備を放り出してドラッグストアに走ることだった。彩里は母が落とした皿を片付けていたが、友里はその姿をただ茫然と見ていた。まるで魂が抜けたようだ。直立不動でリビングとダイニングの狭間にそびえる姉の影は、自分を飲み込んでしまう気がした。彩里は一刻も早く母が、父が、この家に帰ってきてくれることを祈っていた。


「本当に?」とも、「相手は?」とも、安易に訊ける空気ではなかった。


 割れた皿の破片を、ことさらゆっくり拾い上げて紙袋に入れる。金平糖を瓶詰するように、丁寧に。姉は一言も発さなかった。呼吸の気配すらなかった。

 一流とは言えない大学の三年生だった友里は、控えめに言って素行不良だった。

 小学校のときから社交的で輪の中心にいつもいる存在ではあったが、中学時代から遊び方の度が過ぎて、何度か補導もされている。クラスメイトたちとの交流すら細々している彩里に対して、姉はクラス外どころか学年、はたまた学校すら飛び越えたところに無数の友人がいて、その交友関係はもはや家族の誰も把握できていない。

 大学に入ってから朝帰りなど当たり前のことで、「今日は帰ってきたんだ」と嫌味もなく母が口にするほどには外泊も多かった。友里の放蕩ぶりは近所でも口さがなく、あの姉に比べて彩里ちゃんのなんて育ちがいいことか、などとあまり嬉しくもない褒められ方をされたことも少なくない。

 両親は確かに姉の無謀ともつかぬ大胆な性格に手を焼いてきただろうが、彼らにとって友里は何より自慢の娘だったことは疑いようもない。「柊さんのところの上の女の子はとにかくかわいい」と有名で、存在するだけちやほやされていた。親のフィルターを外してもたしかに友里は抜群のルックスを持ち、それを損なうどころかさらに華やかに育った。我が子の美しさを誇らぬ親の方が嘘だ。謙遜は建前、内心は傲慢。その躾は、表面的なものに過ぎなかった。

 だから友里が、学生の身で妊娠という前後不覚に陥る一大事に見舞われたとしても、それは青天の霹靂ではなかったはずだ。そうなるべくしてなる人間というものが世の中には往々にして存在し、友里は少なくとも世間的には「そういう類」だったから。

 ――いくら姉の本質を彩里が知っていたとしても、周囲の先入観をひっくり返すにはあまりに非力だった。それを覆すには強権が必要なのだと彩里は知っている。


「友里、これ使って、すぐに」


 結局、母が帰宅するまで姉は石像のままだった。彩里は居心地が悪いと思いながらも、自室に逃げ込む不義理な己に耐えきれずその場に残って全てを見ていた。母が差し出した妊娠検査薬、箱をじっと見つめる姉、トイレに促す母、幼児のように連れられる姉。紙袋をテーブルの端に置いてしばらく、廊下が突然騒がしくなった。


「だから! いるんだよここに!」


 聞いたこともない姉の怒声は全く耳に馴染まなかった。次いで、何かを激しく投げつける音と母の悲鳴がして、彩里は慌てて廊下に出る。突き当りのトイレのドアは開いたまま、廊下で母に馬乗りになっている姉がいて、彩里はたまらず姉に飛びついた。


「お姉ちゃんどうしたの、やめて、やめてよ」


 彩里の声に正気を取り戻したのか、友里は母の胸倉を掴んでいた手を放す。母は怯えた顔を隠しもしないで娘の体の下から這い出て、壁に身を寄せた。その近くには、割れたプラスチックの縦長の棒らしきものが落ちていた。


「お姉ちゃん……」と、彩里が二の句に尻込みしている間に、友里は再び魂をなくしたような真顔で階段へと向かって行く。間もなく部屋のドアが閉まる音が聞こえてきて、不穏な空気だけが階下に留まっていた。


 姉が家族に暴力をふるったことは過去一度もなく、それだけに姉の豹変が堪えたのか、母はチアノーゼでも起こっているのではないかというほど青ざめていた。どうにか母をリビングまで連れて行く。父はまだ帰ってこなかった。

 落ちていた棒切れは、破片ごと回収した。妊娠検査薬の見方がよく分からないが、青い線が一本だけ浮かんでいる。「陰性ってこと」母が額に手をやりながら言う。


「妊娠していないってこと?」

「そう。だから大丈夫って言ったら、友里が突然……」

「生理が遅れてるとか……で、勘違いしたのかな」

「それならいいんだけど」と母が吐息を漏らした。


 そこから父が帰宅したのは一時間後のことだった。声を弾ませて夕食という気分でもなく、彩里と母だけ先に済ませた物寂しい食卓で、父が事務的に皿を空にしていく。普段なら父の晩酌につまみの一品でも出すところだが、きれいに片づけられたダイニングテーブルに三つの影が落ちた。


「とりあえず明日、婦人科に連絡してみようと思うけど」

「ああ、俺たちじゃ分からないからな。だけど検査薬が陰性なら今のところは何もないんじゃないか。なぜ友里は突然怒ったんだ、陰性なら問題ないだろうに」

「本人にしか分からないこともあるから……」

「そういう相手がいるならきちんと話をしないと」


 彩里は聞いていていいものか悩みながらも、やはり自発的に部屋を出て行くことの薄情さを感じて、黙って両親の会話を聞いていた。「二人で話したいから」と言ってくれればすぐ出て行くのに、両親は彩里が同席していることになんの疑問も持たないどころか、あまつさえ「彩里は何か知ってる?」と尋ねてきた。


「友里ちゃんの彼氏とか、話だけでも。あの子、私たちにそういう話しないから」


 母親は夕食も残していたが、血色を取り戻し、見た目にも平常の様子だった。彩里は首を振る。「聞いたことない」

 とにかく病院できちんと診てもらえば、友里の不安も解消されるだろう。その家族会議では、誰もがそう思っていた。

 大人しく母に連れられて産婦人科を受診した姉は、血液検査でもエコー検査でも妊娠の兆候は認められなかったという。彩里が高校から帰宅したとき、友里は風呂に入っていた。母親は彩里の勉強時間を確保するために、夕食を先に準備し始めた。自発的に手伝っていると、「あの、彩里、変な話をするんだけど」と妙に硬い表情で皿を渡してくる。


「こんなこと親が口を挟むことじゃないのだけど、友里って、中学のときも高校の時も、お付き合いしていた男の子がいたよね? うちにも何度か遊びに来たことあるでしょ、ほら、高校では……山口くんだっけ、サッカーが上手で、推薦で大学に入った」

「……いたけど、もしかしてその人が相手だと思ってるの?」

「ううん、そういうことじゃなくて。産婦人科の初診で、アンケートを書くんだけど、――あの、内診っていって、その……まあ、体の中を実際に診るための医療行為が」

「お姉ちゃんが処女かどうかってことを言いたいの?」


 娘にこんな話をしておいて、いざ直截に言われると気恥ずかしさが勝ったのか、おっとりとぼかすような言い回しをしていた母は顔をさっと赤らめ、早口になった。


「それでね友里が『なし』に丸をつけていたの、だって変でしょ妊娠したって言い出した人間が経験なしなんて。それで友里に『間違ってるよ』って言ったら『間違ってない、経験はない』って真面目に言うのよ。妊娠検査で病院に行っているのに看護師さんもお医者様も困っていて」


 母の当惑と、病院で経験した羞恥は容易く想像できた。母ではなく自分が付き添っていればそうはならなかっただろうな、と彩里はもくもくと生姜焼きを口に運んだ。食べているうちに髪を濡らしたままの友里がリビングに現れる。彩里と目が合うと、姉はにこりとはしなかったが、「お帰り」と穏やかに言った。いつもの姉だった。


「友里ちゃん、ご飯は?」

「いらない、食欲ない。なんかだるいからもう寝る」


 まだ七時前だ。首にかけたタオルをわしゃわしゃと長い髪に擦りつけながら、友里は部屋を出て行った。母が心配そうにその姿を見送るのを、彩里は静かに見つめた。


「お姉ちゃんが処女だって嘘をついていると思ってる?」


 彩里に図星を突かれた母は「そういうわけじゃ」と反射的な否定の句を述べる。が、その先は言葉を持たず、何もなかったと言わんばかりに彩里に背を向けた。

 だが、実際、この状況では姉が意味のない嘘をついていると思われても仕方がない。いやそもそも、現実に妊娠していないと断定されているのに言い張ること自体が嘘だ。妊娠を歓ぶ素振りは全くなく、かと言って否定されると理不尽に怒る様は既に目撃している。姉の身に――いや、姉の内面に何が起こっているのか、家族の誰もが掌握しかねていた。

 だが、彩里はこれだけは断言できた。姉の丸つけに恐らく誤りはない。少なくとも、本人が自認できる範囲では。

 数日で姉のメンタルも整うだろうとどこかで高を括っていた面もある。あれだけ活発に遊び回っていた姉が、大学すら行かず部屋にこもる毎日を送れるわけがないと彩里ですら思っていたからだ。だが、事態はたった数日でもっと酷くなっていた。

 食卓にいると「気持ち悪い」と何度も口にし、ここにはいられないとばかりに自室へ籠ってしまう。それでもあまりの空腹に耐えきれず、冷蔵庫を漁って食べられそうなものを食べては、急に気持ち悪くなって戻す。母は胃腸炎の類を疑ったが、処方された薬を飲んでもなんら症状は変わらなかった。両親は現実逃避のように口にしなかったが、彩里はさすがに姉を気味悪がった。これは典型的な「つわり」の症状だ。

 今まで気にしたこともなかったのに、姉の入ったあとの湯船はなんだか生理的に受けつけなくて、彩里はシャワーだけ浴びた。浴室を出ると、そこに友里が立っていて、彩里は腰を抜かしかけた。さすがに「お姉ちゃんっ」と声を荒げる。だが、友里は妹の怒りなど露ほど気にしないようで、唐突に話しかけてきた。


「……腹が出てきた気がする。見てよ」


 言うなり、もこもこしたブランドもののパジャマの裾を捲る。

 すっと縦に薄ら入った腹筋が芸術的だ。美しいラインが臍に向かって微かに伸びている。彩里はタオルで貧相な己の体を隠しながら、その白く輝く腹部を睨んだ。


「別にそんなことないと思うけど。最近食べてないんだし、むしろ痩せたんじゃない」

「じゃあ横から見て」


 刺々しい彩里の言葉を受けても、感情の揺れ一つ見えなかった。友里が体を横に向けてくる。よりはっきりと、姉の体のラインが浮き出た。たしかに、言われれば臍の下あたりがほんの僅か膨らんでいるように思えた。だが太ったとまでは到底言えない。これで腹が出たなんて嫌味――と顔を顰めていた彩里は、はっと我に返る。


「やっぱりいるんだよ、ここに。どうしよう、どうすればいいんだろう、早くどうにかしないと……」


 彩里の言葉は待たず、友里はふらふらした足取りで脱衣所を出て行った。

 まさか、そんなはずない、ありえない。彩里自身そう思いながらも、母に相談せずにはいられなかった。つわりに似た症状、食べていないのに膨らみを持った腹、改善を見せぬ姉の言動。もう一度、別の産婦人科に行った。結果は同じだった。姉は妊娠などしていない。だが、その事実を友里は受け容れず、「何も異常はない」と丁寧に説明してくれる医者に「今すぐ中絶手術を受けさせろ」と掴みかかって出禁になった。納得してくれない姉は三軒目の産婦人科の受診を希望し、母が密かにこれまでの経緯を伝えた上で診察が始まり、形式的な血液検査とエコー検査が行われた。


「妊娠を強く希望する女性や、逆にひどく恐れる女性は、心理的要因で妊娠に似た生理症状を要する場合があります、『想像妊娠』というものでよく犬や猫なんかが母乳を出し続けて治療が必要になる場合がありますが人間でも同じ症状を発現することがあってこれは精神医学の分野ですが身体症状症及び関連症群というカテゴリーで病気不安症や虚偽性障害といった病気と同じ分類となり」「虚偽? 嘘だって言うの?」


 三軒目の病院でも結局揉めて、何も解決しないまま一週間、二週間と過ぎた。

 友里の腹は少しずつ膨れていき、頻尿や貧血(これは食事を摂らないせいもあっただろうが)といったマイナートラブルの他、引き続きの吐き気、原因不明の倦怠感、微熱、動悸、「妊娠しているのに誰も助けてくれない」という状況への不満が、姉の精神をひたすら食い漁っていった。何より彼女を苦しめたのは、全身を襲う痒みだったのだろう。腕、足、腹、首元――薄い肌は赤く染まり、掻き毟られることで簡単に裂けた。不眠症状も強く出始め、姉は奇声を上げてものに八つ当たりした。

妊娠性掻痒という症状に似ていた。スマホから目を逸らしても、部屋の外からは母と言い合う姉の怒鳴り声がして、彩里の関心を失わせてくれない。


「みんなヤブ医者だ! ちゃんとした医者のところに連れて行って早く中絶させて!」

「だから友里ちゃん、あなたはなんともないの、妊娠なんてしていないから」

「うるさいうるさいうるさい! 私に触るな! どっか行け!」


 いつも悠々としていて、不敵で、高飛車とも言える態度すら魅力的に見えていた姉の地団駄は、それまでの柊友里像を悉く破壊していく。想像妊娠とは、時に、乳房を張らせ、母乳をも生み、何もいない腹をも膨らませるという。人間の心理状態が生み出す生理現象の極致、人体の不思議そのものだ。同じ人間の体に起こっていることとは、彩里には到底思えなかった。輪をかけて不可解なのは、本人が「想像」であることを認めない現状だ。もはや家族の手には負えなかった。

 両親は友里を騙すような形で精神科に連れて行った。が、そこでも姉は「自分は絶対に妊娠している」と言い張り、「早く堕ろさないと」と何度も口にしたという。

 痒くて眠れないという姉は、クリニックで処方された睡眠薬を昼から飲んでは、深夜や明け方に目を覚まして奇声を上げて騒いだ。日に日に腹だけ膨らんでいき、それを隠すように父親の古びたスウェットを着込んでせめてもの誤魔化しにしている。恐らく近所にも姉の異常は知られていることだろう。変な時間に目が覚めて眠れないせいでもあるが、最近の彩里は六時前には家を出て、近所の人と接触することを意図的に避けていた。電車で一時間かけて通う高校は、幸いにして七時には自習室が開く。

 よその内科病院で検査も受けたが、肉体に異常は見られなかった。腹の膨れは「便秘ではないか」と簡素な診断で片づけられたらしく、その医者の対応に母親は憤慨していた。友里は友里で「みんな信じてくれないがここには何かがいるに違いないのだ」と熱心に対処法を訊き、医者からは心療内科の受診を促されたという。さぞ気味の悪い親子に見えたことだろう。

 どこに行っても結果は同じだ。どれだけ調べても友里の妊娠は認められず、検査を隅々まで受けても腹の膨れの原因は分からない。

 この一カ月、柊家はまさに未曽有の危機に襲われていた。警察に補導だの、教師から呼び出しを受けるだの、近所から陰口を囁かれるだの、そんなことは砂屑じみた些事だった。「ごめんごめん」と、へらへらしてペラペラの笑顔を美貌に浮かべていた姉の姿が恋しかった。


 どのくらい時間が経っただろう。彩里は眠れたらラッキー、という思いで目を閉じていた。ぶつ切りの夢を見て微睡んでいた。奇妙な物音と微かな振動が、眠りの種すら一瞬で駄目にした。金物が打ち鳴らされる音だ、また癇癪に囚われた姉がフライパンでも床に叩きつけたのだろうか。枕元のスマホを見る。時刻は五時十五分、もう寝られない、無理だ、学校へ行く準備をしよう。溜息を押し殺して身を起こした彩里は、睡眠不足からくると思われる頭痛を目の横に感じながら部屋を出た。

 廊下の採光窓からは薄青が見えた。夜明けの澄んだ空気を台無しにするように、両親の蠢く気配を階下に感じた。先ほどの物音と振動で一階の寝室から抜け出てきたと見える。しかし、階段を上ってくるどころか玄関の方が騒がしくなって家から出て行く。彩里は目を細めながら姉の部屋のドアをノックした。


「お姉ちゃん、いる? 入ってもいい?」


 返事はなかった。いないのだろうか。友里の心身に異常が来して尚、姉は妹に口汚い罵りや理不尽な怒りを向けてきたことはなかった。だから無視されるとは思えなかった。部屋に鍵をつけてほしい、と友里は切望していたが、両親はさすがの愛娘とはいえ首を縦に振ることはなく、入ろうと思えば誰でも彼女の聖域に入れる。ただ、遠慮という建前で敬遠していただけ。

 彩里はずいぶん久しぶりにそのドアを開けた。ざあっと、朝方の冷えた、それでいて徳を感じるような清風が体を抜けていく。開け放たれたカーテンの向こうが一番に目に入った。そしてその光景だけで血の気が引いて動けなくなった。

 ベッドの上はすっからかん、間近に感じるカラスの鳴き声とカンカンと遠くから響く踏切の音が、両親の悲鳴を彩里の鼓膜からブロックする。

 ――六月二十日、木曜日、朝方の住宅街は救急車のサイレンで騒然とした。

 五時四〇分に救急搬送された柊友里は、同日、十時二十二分に死亡が確認された。死因は頭部外傷によるショック死。自室のベランダから飛び降りて、物置小屋の出っ張りに衝突したことが原因とされた。

 検死解剖された友里の腹の中には、何もいなかった。


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