呪胎告死

有紀穂高

1章 なにもいない ①


 未明から続く金切り声が途絶えても、宅内の緊張は途切れることがなかった。

 このところ浅い睡眠しか取れていない彩里さいりが、奇声や物音で起きないわけもない。両親からは何があっても部屋にいるよう厳命されていたが、言われるまでもなくベッドを降りる気になどなれなかった。

 一度目が覚めると爪先から血流が失われ、どんどん脈拍が上がった。産毛の一本一本が過敏になる。「友里ゆうりちゃん落ち着いて」と、青ざめた母親の声がくぐもって聞こえた。落ち着いて、と自分にも同じ言葉をかける。布団の端を掴んで、薄目を晒した。ドアの隙間から漏れる光の向こうでは、激しくむせび泣き、怒り、壁や床に当たり散らす姉の影が踊り狂っていることだろう。


「病院! 早く! 今すぐ体を調べてよ! 動いてるの、私を蹴るの!」


 絶叫のままに吐き出す姉の言葉は不鮮明だ。なのに字幕が脳内に浮かぶ。もう何度聞いたことか。姉の要求も奇妙な訴えも、聞きたくないのに耳を覆う両手を貫通して彩里を悩ませる。

 どたどたと階段を駆け上ってくる音がした。ぎょっとして、彩里は飛び起きる。部屋に漏れる光の筋がまばらになった。誰か、ドアの前に立っている。両親の声は聞こえない。それが妙に不穏に思えて、彩里は足音を立てずにドアに近づいた。

 ノブを捻る。恐る恐る、初めて外界を知る愛玩動物の如く、首をすぼめながらドアの隙間を見る。影が立っている。夏だというのにだぶついた長袖のスウェットパーカーを着ている姉が、怒りの余韻をたっぷり孕んだ真っ赤な顔で立っている。


「ほら、彩里、触って、お姉ちゃんのここ、触って。分かるよね? あいつら話になんないよ、彩里からも言って、触ったら分かるよね、動いてるの、ボコボコって」


 五センチほどの隙間に手をねじ込んだ姉、柊友里は、ドアを乱暴に開け放った。

 毎日かじられているせいで姉の指先は無残だ。がたがたの爪は甘皮が露出し、薄っすら赤が滲んでいる。おしゃれに事欠かなかった姉の指先は、いつだって宝石のように輝いていた。その長く、飾られた爪のおかげで昔のように手を繋ぐことはできなくなったけれど、自分と違って華やかで、自身の生を煌めかせるように着飾る姉は羨望と畏れの対象だった。

 姉は両親にとって自慢の娘だった。「こうあるべき」と神が直接手を加えたかのように、全てが整ったパーツを搭載して生まれてきた。「美の基準」が形を持ったがごとき存在、柊友里、彩里のたった一人の姉。三年先を、要領よく生きる人生の先輩。

 それがたった一カ月もしないうちに、これだ。

 不揃いで醜く歪んだ手先、湿疹の増えた肌。日頃の寝不足と神経質が祟ってすっかり血走った眼、影を纏う目元。かさついた唇は薄皮が破れ、張りと艶を失った頬から首筋にかけて、赤い発疹がまだらに走っていた。昔からモデル体型と言って差し支えなかった痩身だったが、この一カ月、まともに食事も摂っていない姉は痩身を通り越して痩せこけている、もしくは枯れている、そんな様相だった。

 そんな平べったい姉の手が彩里の腕を掴んで、自分の腹へと押し当てる。柔らかくもなく、程よい弾力に満ちたゴム毬のような腹。枯れ木となった姉の体には、きっと重すぎる。彩里は意味のない怖気に襲われた。体が硬直する。

姉は血走った目を見開いて唾を飛ばした。


「ねえ分かるよね? いるんだよね? ここに!」


 男物のスウェットは、何日も使い回されているせいで毛羽立ち、よく分からない赤黒い染みがついていた。こののっぺりした生地に隠された腕が、掻き毟られて擦り切れているのを彩里は夢想する。苛立つ表情を隠すことなく「痒い」と体を摩っていたのは、全て予兆に過ぎなかった。


「友里、もうやめなさい。お前のお腹に赤ちゃんなんていない」


 いつの間にか、階段の踊り場に父が立っていた。

母親のさめざめした泣き声が微かに階下から聞こえてくる。彩里の手首を痛いほど掴む友里は、父親の言葉にはまるで反応しなかった。ただ、鬼気迫る様子で目玉を見開いたまま、彩里の言葉を待っている。


 この一カ月でぽっこりと丸みを帯びた姉の腹の中には、何もない。


「お、お姉ちゃん、今日も病院で検査したんでしょ……?」


 腹からどうにか手を遠のけたいのに、姉による圧迫はあまりに強い。手首の骨が軋む気がした。自分に賛同しない妹の態度に、友里は露骨に怒って歯を見せた。「彩里まで」とその先の言葉を食い殺すように歯を打ち鳴らすと、餌に手が届かず諦めた野獣の如き気配を纏ったまま、二階の奥にある自室のドアの向こうに消えていく。

 溜息を堪えた様子の父は「気にしなくていい」と彩里に声をかけてきた。

疲れきった父の顔を前にしては、彩里から不安を零すことなどできない。母はまだ、姿も見せずに泣いている。

 ドアの向こうに消えた姉は、先ほどまでの発狂が嘘のように静かだった。


「CTもMRIも撮ってもらったが、腹の膨れの原因は不明だ。血液検査で炎症反応も見られなかったし、寄生虫、細菌感染、腫瘍、そういったものも確認できていない」


 まるでドアの向こうの姉に言い聞かせるような、妙にはっきりした口調で父が言った。彩里は身構える。その一言で、再び姉の狂気に火がついて部屋から飛び出してくるのではないかと思ったからだ。しかし、やはりドアの向こうからは物音一つしなかった。中に誰もいないかのように。


「精神的なものだろう。明日……いやもう今日だな、お父さんの知り合いの精神科医に診てもらう予定だから。そういう不安妄想は、あの年頃の女の子には時々あることらしいし」

「でも……」あのお腹は? 「……なんでもない」あの膨れ方は。


 なんでもない、と敢えて口答えしなかったのに、父はわざわざ釘を刺してくる。


「この時代の医療技術で妊娠を見落とすことはまずありえない。友里の腹の中には、何も存在していない。彩里も大事な時期だろう、気にせず早く寝なさい」


 たしかに、彩里は週末に重要な模試を控えている。医学部合格のために中等部時代から身を入れてきた勉学、その真価を問う大事な試験だ。医学部受験を志す全国の学生たちの中で、己の立ち位置を図る物差しとなる。

 だが、家族が――姉が、原因不明の体調不良で心身のバランスを崩している中、「気にせず」いられるほど彩里のメンタルは傲慢ではない。

 父が階下に消えていく。母の幽鬼じみた泣き声は、間もなくリビングの向こうに隠された。


「あの年頃の女の子には時々あることらしいし」


 父の、意味のない慰めの言葉が脳裏を掠める。すっかり冷めていた布団の上で何度も寝返りを打った。いくら内向的で、初心な彩里とて十八歳の高校三年生、言葉の裏くらい読み取れる。試験の長文読解よりはるかに簡単なことだ。

 友里の丸くなった腹を見れば、誰しもそう考えるのではないか。現に、姉がおかしくなり始めたときの最初の告白もそうだ。カエルが鳴き始めた、一カ月前のことだ。


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