第29話
ティルがとぼとぼ帰っていった日の夜。
金の小鹿亭のカウンター席に、見覚えのある姿があった。
大きな茶トラの老猫のことではない。エヴァンス夫妻の愛猫は、いつも店にいる。見覚えがあるどころか、すっかり見慣れていた。それにあの老猫は、魚料理を注文すれば必ず寄ってくる。カウンターにいなくても、特に心配していなかった。
カウンター席で大きなパエリアをひとりでもりもり食べているのは、赤いとんがり帽子を被ったハルピュイア。リザだ。私の店に来たときに提げていた大きな鞄は見当たらない。
「エルだ。夜ご飯?」
「ああ。相変わらずよく食べるな」
リザの大食いは今に始まったものではないので、驚きはしない。
魔法を使えば、魔力を消費する。消費した分だけもちろん腹が減るので、私もたまには多めに食事をとったりもする。
だが、リザの食事量はそういった常識の遥か外側に存在している。胃袋が魔術空間に繋がっているんじゃないかというほど食べるのだ。キールもなかなかの大食いだが、リザはレベルが違う。彼女ほどよく食べる者を、私はまだこの目で見たことがない。リザのような体質の者は珍しかった。
リザは山のような量を食べるが、食べ方が綺麗だ。その上美味そうに食べるので、見ていて気持ちがいい。
そんなリザは幸せそうにエビを食べてから、にっこり笑った。
「今日は猫の悪夢が売れたからね。自分へのご褒美」
そういえば一瓶二百オーレルだったな。わりと大きな額だ。
わざわざ距離を取って座るような間柄でもないので、そのままリザの隣席に腰かける。
リザにおこぼれを貰えなかったとみえる老猫は、カウンターの端でつまらなそうに伸びたまま、店内を眺めていた。両耳がぴこぴこ動いている。どこかで魚料理の注文が入らないか、待っているらしい。
「エルクラートさんはオニオンスープですよね?」
確認してくれるマルセルに頷く。
マルセルが厨房に消えると、リザが口を開いた。
「あんたってさ、いつも最初はオニオンスープだよね」
会話をしているとは思えない速度で、リザが大きなスプーンを使ってパエリアを口に運ぶ。まるで飲んでいるんじゃないかというほど早い。
「まずはオニオンスープ。それからメニューを見て、マルセルのおすすめを聞き、メインを決める。それが落ち着くんだ」
「ふうん。まあ、猫の悪夢ばっかり買うエルらしいね」
「きみこそ、いつ会ってもパエリアばかりじゃないか。たまには他の料理を少しずつ頼んでみようとは思わないのかい?」
「んー、ここに来たらパエリアかなあ。マルセルさんのパエリア、すっごい美味しいし。それに季節の魚介類が入ってるから、その日の美味しいもの全部盛りって感じで、お得感あるの」
お得。なんとも商人らしい意見である。しかし腹が膨れればいいというわけではない。マルセルの料理をきちんと味わっている。リザのいいところだ。
そうこうしているうちに、マルセルが湯気の立つオニオンスープを出してくれた。昼から降り続いていた粉雪は、夜になると小さな羽毛程度の粒になった。おかげで道中寒かったので、いつもより熱めのスープが嬉しい。
わざわざこちらから頼まずとも、マルセルはその日ごとに最適な温度で料理を提供してくれる。そういったところも、私が金の小鹿亭を好む理由だった。
「ところでさ、エル。あんた今年の星燈祭」
「あっ!」
リザの言葉をマルセルの慌てた声がさえぎる。なにかこぼしたのかとマルセルを見るが、カウンターには私が注文したビールがちゃんと置かれていた。それにもかかわらず、マルセルが渋い顔をしている。
「すみません、エルクラートさん」
「どうした?」
「今日のつまみ、グジェールです。どうしますか?」
シュー生地にチーズを載せて焼いたそれは、私も家でたまに作る。表面がかりかりに焼けてなかなか美味い。しかし、できたら金の小鹿亭に来たときはチーズもどきを忘れられる食事がしたい。
マルセルも私がチーズを避けて食事をするのを知っているから、困ったのだ。
おそらくマルセルのことだから、頼めば他のつまみを作ってくれる。だが、別になくても困らない。
「私の分は、リザにやってくれ」
視界の端で、リザが表情を輝かせるのが分かった。
対照的に、マルセルはしゅんとしている。
「すみません」
「いや、いいよ」
どうせ酒に合う料理をなにか頼むのだから、気にならない。特段文句などなかった。それに文句があるとすれば、マルセルの方だ。私がチーズを避けるのは、単なる私のわがままなのだから。
「そうだエルクラートさん、今夜はタラの冬トマト煮がちょうど出来たところですよ。熱々のうちにいかがですか?」
マルセルの提案に心が弾んだ。
この時期は、魔法で冷凍保存されていた秋採れのトマトが出回る。冬トマトと呼ばれるそれは、甘味と旨味が濃くて美味いのだ。味を想像したら、腹がくうと小さく鳴った。
「じゃあそれを……」
一人前、と言おうとして、視線を感じた。
隣を見ると、パエリアを完食したリザがこちらを見ている。彼女の腹はまだまだ隙間があるらしい。
「……二人前」
「ありがとうございます」
マルセルはなにを誤解したのか知らないが、私を見て妙ににやにやしていた。彼は噂好きなだけではなく、想像力も豊かだ。
リザはリザで、「よし!」なんて拳を握り締めている。
出来たてというマルセルの言葉どおり、料理はすぐに出てきた。ごろごろと入った大きなタラの切り身に、たっぷりのキノコ。白ワインがほんのり絡む濃厚なトマトの香りが、食欲をそそる。
……それにしても、やけに量が多いな。山盛りになってるぞ? 本当にこれ一人前か?
「サービスです。お二人とも大盛りにしておきました」
「やったあ! マルセルさん、ありがとうございます!」
歓声を上げたのはもちろんリザだ。まるで腹ペコで今からやっと食事を始めるのだと言わんばかりのテンションである。
「ちょっと待て、リザ」
スプーンを握っているリザを止めて、彼女の皿をこちらに寄せた。私の皿から、冬トマト煮をどんどん移す。
これで私の分は、普通の一人前に近くなった。
代わりにリザの分はもう皿から溢れそうになっているが、彼女なら問題ない量だ。その証拠に、リザの視線は冬トマト煮の山に釘づけだ。その姿は、行儀よく餌を待つ仔犬に似ている。
リザのウサギのぬいぐるみは、それはそれは大きなスプーンを持っているに違いない。なんとなくそんな想像をした。
「ありがとうエル! 今日来て本当によかったあ!」
皿を戻してやれば、リザが満面の笑みで冬トマト煮にスプーンを入れる。
空になった大きなパエリア鍋を下げていたマルセルが、ちらりと私を見た。目が合った瞬間、小さくウインクをする。
待て。違うぞマルセル。リザは私の恋人ではない。なじみの夢屋であり、ただの友人だ。「大丈夫、全部分かってますよ」みたいな顔をされても困る。
だいたい私とリザがここで顔を合わせるのは、これが初めてではない。店で顔を合わせれば食事をともにする。その姿をマルセルも数え切れないほど目にしてきただろうに。
そうは思ったものの、ここで訂正しては「じゃあ本当のお相手は誰ですか?」という流れになるのは目に見えていたので、私はマルセルのサインを受け流した。おそらくマルセルのことだから、「またまたあ、恥ずかしがっちゃって」などと考えているに違いない。まあ、クーアの存在を隠せたのでよしとする。
念の為リザの様子を横目で確認してみるが、彼女は食事に夢中だった。食べることが大好きで助かった。
そんな私の視界の端で、茶色いものが動いた。
さっきまでカウンターの端でとろけていた老猫だ。冬トマト煮に入っているタラの切り身を狙って、私の皿をすんすん嗅いでいる。
「だめだ。きみには塩辛すぎる」
老猫の丸い顔を押しのける。老猫は鼻息も荒く、私の手をかいくぐろうとする。凄まじい執念だ。しかしやるわけにはいかない。きみの健康の為だ。諦めたまえ。
老猫と戦いながら、大きなタラををスプーンですくった。丸ごと口に入れれば、ふわふわとした甘いタラの身がほどけた。程よい塩気と白ワインの香りが、トマトの旨味を際立たせている。タラにすり込んでいるのだろう。ほのかなニンニクの風味のおかげで、食欲が更にそそられる。ミックスハーブの香りが鼻腔を抜けていった。
今夜もマルセルの料理は美味い。魔法を使えば冬道など辛くもないが、寒さがあればほかほかの料理を最大限楽しめる。店まで一切の魔法を使わずに来たが、その甲斐あって、体にしみわたるほど美味い。
眼前で獲物を食べられたのがよほどショックだったのか、老猫が固まった。うるうるとした大きな双眸で、私の顔を見上げてくる。
それでも絶対に貰えないと理解したようで、老猫はおとなしく引き下がった。
大きな体のわりに軽やかにカウンターを飛び降りて、老猫がテーブル席の方へと向かう。丸い尻をもちもちさせながら歩く姿は、可愛い。
可愛いが、駄目なものは駄目だ。ただ煮たり焼いたりしただけのタラなら一口ぐらいほぐしてやってもいいが、これは猫の舌には塩辛すぎる。それにニンニクが入っているのだから、絶対に食べさせられない。猫が口にするには危険過ぎる。いじわるであげないわけではないのだ。
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