エルクラートさんちの夢喰日記
Akira Clementi
一章 夢喰屋
第1話
悪夢を、切らしてしまった。
掌にすっぽり収まってしまうほど小さな瓶の中を見ながら、重いため息を吐き出す。瓶の中には虹色の蜂蜜みたいな悪夢が少しだけ残って入るものの、どうかき集めても、ティースプーン半分にも満たない量しかない。
もちろん夢屋にはこの悪夢の追加分を注文していたけれど、まだ届かない。私が気に入っている悪夢は少しばかりこだわりの品なので、入荷まで時間がかかってしまうのだ。それを見据えて追加分を注文したはずなのだが、少しばかり多く使い過ぎたかもしれない。この一瓶がなくまるまでのどこかで、私は「今日はちょっとだけ多めに」なんて気を緩ませたらしい。日々の配分を誤った結果、朝のキッチンで私は困り果てていた。
仕方ない。
もう一度ため息をつくと、私は瓶にティースプーンを突っ込み、それを持ったまま寝室のクローゼットに向かった。
魔物とはいえ人型の私であるから、クローゼットの大半は人間と同じものが並んでいる。
だがその中で、間違いなく魔物用のローブが一着あった。
バクのローブだ。
白と黒のツートンカラーのローブを、マントのように羽織る。ローブの留め具を胸元で留め、フードを被れば完成だ。これで私の姿は、誰の目にも映らない。短く切っているが人間とは明らかに違う青い髪に金の瞳、褐色の肌と人里ではやや目立つ外見をしていても、着ているのがパジャマでも、問題なかった。
ベッドの枕元に置いた時計が示す時刻は、午前六時半。
大半の人々が起き出す時間だ。うまく獲物が見つかるといいのだが。私は己の嗅覚には自信があるが、肝心の獲物がいなければそれも活かしようがない。そしてこの時間、獲物がいるかというと若干怪しいのだ。しかし、どうしてもこの瓶に残っている微量な悪夢と同じものでなければ嫌だ。これがないと、私の一日は始まらない。
港町であるこのイリュリアは、漁師がいるからには朝が早い。大広場に展開される市場などは、これから活気が出る時間帯だ。そんな町が目覚める時間に、私が求める悪夢は見つかるだろうか。
不安はあったが、それでも私はお気に入りの悪夢を探すべく、クローゼットの中に入ってドアを閉めた。
暗闇の中、目を閉じて嗅覚に集中する。
静かに深く呼吸をしながら闇の中を探っていたら、カラメルのようなほろ苦い匂いがほのかに漂ってきた。そちらの方へ、歩を進める。
とてもか細いけれどもたしかに存在する匂いの糸を手繰り、歩く闇。
そこはもう、クローゼットではない。私たちバクが使う専用の空間だ。この世の全ての夢と、この闇は繋がっている。
様々な匂いが混ざり合う中で、ほろ苦く甘い匂いはとてもかすかだが、間違いなく漂っている。結構至近距離だ。匂いがほつれて消える前に、発生源に辿り着かなければ。慎重に、だが素早く、細い糸のような手がかりだけを頼りに闇を渡る。
そうして到着したのは、一軒の酒場だった。閉店中のそこには、昨晩の宴の跡と思しき酒や料理が混ざり合った独特の匂いが漂っていた。
なるほど、酒場か。
それならば、町が本格的に目覚め始める時間帯に寝ているのも納得だ。酒場は、夜の間酔っ払いたちが集って大騒ぎする場所なのだから、そこを住まいにしている者は今がおねむの時間だと推測がつく。
私が辿り着いたその場所の風景は、見覚えがあった。そろそろ冬の気配も薄まってきた今は活躍の機会がない暖炉の上に、大きな鹿の頭部が飾られている。夫と妻、どちらもころんと丸い容姿がよく似ている、人間のメルヴィス夫妻が営む酒場『金の小鹿亭』だ。決して大きな店ではないが、評判はいい店である。酒は普通だが、料理が美味い。何を食べても美味いものの、特にオニオンスープが絶品だ。私は金の小鹿亭を訪れるたびに、必ず最初にオニオンスープを注文していた。
このローブを身に着けている間は、私の『重さ』という概念も消失する。古い板張りのフロアを歩いても、二階の住居に繋がる階段を上っても、足音どころか僅かな軋みすら生じない。
カラメルのようなほろ苦い匂いが、強くなってきた。目指すものは、もうすぐだ。
すんすん鼻を鳴らしながら他人の宅内を歩いていた私は、ひとつの部屋へと辿り着いた。ドアは開きっぱなしになっていて、特に魔法を使わずともすんなり中に入れる。ありがたい。
ドアが開きっぱなしだった部屋は、メルヴィス夫妻の寝室だった。大きなベッドに、丸いフォルムのメルヴィス夫妻が仲良く並んで眠っている。人間の年齢で五十代ほどのメルヴィス夫婦は営業中も仲はいいが、プライベートも変わらないようだ。
だが、今用があるのはメルヴィス夫妻ではない。
大きな鼾をかいている、夫のマルセルの足元にいるもの。それこそが、この匂いの発生源だった。部屋のドアが開きっぱなしになっていたのも、この子が自由に行き来できるようにという配慮だろう。
布団の上で大の字になっている、一匹の老猫。それこそが、私が求めていた存在だった。飼い猫は寝相も無防備になる傾向があるが、この子はその中でもかなりのものだろう。大きな茶トラの猫は弱点であるはずの腹を丸出しにして、マルセルの脚の間にちょうどよく収まって寝ていた。夢を見ているようで、体がびくんびくんと痙攣している。よほどマルセルの鼾がうるさいのか、それともなにか別の――
ブヒィッ
――マルセルの屁が臭いとか、そういう理由だろうか。明確な理由はさておき、猫は白目を剥き、激しく体を震わせていた。うむ、なかなかの悪夢を見ている。
猫という種族である事実を忘れたように大の字になって眠る猫の上に、片手をかざす。反時計回りにくるくると撫でるように回していると、もやもやとした灰色の煙が猫からたちのぼってきた。煙が大人の拳大まで溜まったところで、手を止める。宙に浮かぶその煙に、私はティースプーンを差し込んだ。ゆっくりと、中にある物体を掻き出すように、ティースプーンを動かす。
そっと煙から引き出したティースプーンには、ちょうどひとさじ程度の、虹色の蜂蜜のような姿の悪夢が載っていた。
ひとさじといっても、山盛りではない。いくら悪夢とはいえ、あまり取ってしまうと夢主の記憶や生活に影響を及ぼしてしまう。あくまでも、ちょうどひとさじ程度。こちらの都合で貰うならそれくらいが最適の採取量だと、私は考えている。
私は悪夢を喰らうからと人間たちに重宝されるバクではあるが、その悪夢もまた夢主にとって大切な記憶の遺産だと分かっている。だからこそ、夢主から望まれないかぎりは、決して全てを喰らわない。
もちろん全てのバクがそういった考えのもとに暮らしているわけではないと知っているが、人里で暮らす身であるからには夢主に危害を加えるつもりはなかった。いい夢にしろ、悪夢にしろ、あまり多くを取り出せば魂に傷をつけてしまう。己のわがままを理由に夢主に危害を及ぼすような真似は、私の好まぬものだった。
せっかくお裾分けしてもらった悪夢をこぼさないよう、ティースプーンごと瓶に入れる。
目的のものは手に入れた。これ以上はここにいる意味がない。漂っていた煙のような悪夢を猫の中に押し戻すと、私は帰還魔法で退散させてもらった。
帰還先として記録しているのは、私の寝室だ。無事到着したそこでローブをクローゼットに戻すと、私はいそいそとキッチンに向かった。
湯を沸かし、紅茶を淹れ、ティーカップの中に先ほど手に入れたばかりの猫の悪夢を溶かし入れる。この一杯が、最高に美味いのだ。
世の中に様々な悪夢はあれども、私は猫の悪夢が特に好きだ。猫は基本的に幸せな生き物であるから、その悪夢はかなりの貴重品である。猫が自らその悪夢を差し出すなんてうまい話はないから、採取も手間だ。だがそんな猫の悪夢はカラメルのようにほろ苦くも魅惑的な匂いがして、甘味の強い茶葉ととても相性がいい。
この一杯がなければ、私の一日は始まらない。
今日こそ注文している猫の悪夢の瓶詰が、夢屋から届くといいのだが。
そんなことを考えながら、私は居間の窓辺にあるソファで、一日の始まりを告げる特別な一杯を楽しんでいた。
この悪夢の原因がマルセルの屁かもしれないということは、なるべく考えないようにして。
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