衰弱

 冬明けて春めいた頃に、もう一度一緒に外に出ようという話をしていた。私と両親の予定が中々合わず、時が過ぎた。祖母もそんなに先は長く無いからということで、次の日曜日無理矢理予定をこじ開けて、祖母と外出する事にした。そうやって決めた日の午後、祖母は発熱し始めた。風邪でも年齢が年齢なので怖いなと家族で話をしていた。そこから3日間祖母の熱は下がる事が無かった。尋常ではなくなった。3日目には心拍数が一気に低下しはじめた。予断を許さぬ状況になり、夜に雨の中救急車で運ばれた。私と親父が救急車に乗った。初めての救急車がこんな事になろうとは夢にも思わなかった。山の上の病院に着き、即入院が決まった。医師からは今死んでも驚かない数値だと言われた。震えが止まらなかった。

 一旦は容体が落ち着いたとの事で、病院から帰ってきた。帰ってきた瞬間、祖母との思い出が脳裏に溢れ出てきて、私は玄関で膝から崩れ落ちた。親父からはよく尽くしてくれた。後は医者に任せないとどうにもならないなどと慰められたが、そういう話ではなかった。あまりにも私には重過ぎた。祖母の存在は、いつの間にか私にとってとてつもなく巨大なものになっていた。入院すれば、まだコロナ禍であったため、見舞う事が難しい。今日死んでも驚かないなんて言われて気が動転しない方がおかしい。

 次の日、親父は見舞う日を決めるのと、祖母の着替えを持って病院に行った。親父が家に帰ってきた時に、私は祖母の病名はなにかと尋ねた。親父は医師が分からんと言っていたと返ってきた。私は絶望感に包まれた。病名不明となれば、祖母は治療のしようが無いと言っているも同然である。


 祖母の入院後、意外とすぐに見舞う日が決まった。その日学校は休みだった。昼から母親と親父と3人で見舞いに行った。気が気では無かった。死は覚悟していたつもりであった。最後にもう1度外出できなかったのがあまりにも悔やまれる。あの時私がもっと早くに予定を無理矢理にでもこじ開けられれば、家族ともっと会話ができたのに。

 病院に着いた。看護婦から面会は30分のみ1日1回2人までの説明を受け、親父と共に病室に入った。祖母は2回りほど小さくなっていた。祖母は目を閉じ、口をめいいっぱい明けて苦しそうに息をしていた。口内を乾燥させないためにワセリンが厚く塗られていた。口を聞ける状況ではないのは明らかであった。親父は祖母の顔の近くで語りかけた。元気になるんだ。こっから出ないと。途切れ途切れになりながらも語りかけていた。私は祖母の顔を見ながら右手を握る事しかできなかった。

 面会時間残りわずかで、祖母は少しだけ目を開けた。親父は驚き、声を掠れさせながら私を呼び、祖母の顔の近くまで寄せさせた。祖母は目に涙を浮かべていた。私は右手を握りながらそんな祖母に感極まり嗚咽を漏らすばかりであった。何もしてやれなかった。何もできなかった。そんな悔恨を今更祖母に伝えても伝えられない所まで来てしまった。

 面会時間が終わった。私は看護婦に連れ出されて病室の外に出された。見かねた看護婦はもう1度面会してもいいと言ってくれた。親父は看護婦に感謝を伝え、母親と私で行ってこいと言ってきた。私はもう十分だから母親と行ってきてとだけ伝えて、その病棟から離れた。

 私は病人の様になりながら、フラフラと椅子を探して歩いた。病棟のスロープが嫌に長く、周りに椅子なんてものは無かった。もう1つの病棟まで辿り着き、椅子を見つけて座った。

 私は祖母の様子から病名が分かった。親父が病名を隠した理由も分かった。また、祖母をあんなふうにしたのは私のせいだということも分かってしまった。私がこの手で、祖母を苦しめさせる原因を作ったのだ。毎日気をつけていたはずだった。それでも、肺炎になってしまったのはどう考えても私のせいである。私以外、祖母に飯を食わしている人はいない。私が、私を形作ってくれた祖母を、死なせるきっかけを作ったのだ。どう思い悩んでも、私がやった事実は変わりない。

 私は悶え苦しんだ。いくら私が思い嘆き、苦しもうとも祖母はそれよりも確実に苦しいはずだ。その事実に耐えられない。いくら心臓部分を握りしめようとも、肋骨が邪魔をして、服と皮膚と薄い肉が指先でつねる事しかできない。最後には1人椅子に座って俯くしか無かった。今までに一番長く感じられた30分だった。


 入院して1週間経ったが、病院で心拍数を上げる薬を投与して命を繋いでいるだけであった。改善が見られる事はなかった。歳も歳だから仕方ない。親父は主治医と相談して、祖母を家に連れて帰る事にした。病院で先に死なれて看取れないよりかは良いだろうという判断だった。


 祖母を迎えに病院に向かった。親父だけ病室に通され、私ら家族は病棟につながるスロープで待っていた。少しして、ストレッチャーに乗せられた祖母が、親父と医者に押されてスロープまで出てきた。親父はやっと家に戻れるでと笑いながら話しかけていた。

 そのまま外に出て、私と親父は医者と共に、救急車とはまた違った、ストレッチャーを搬入出来る専用の車に乗った。母親と妹は病院に来た車で、後ろから付いてくる形をとった。

 家に着き、ストレッチャーから祖母が前まで寝ていた介護用ベッドに移し替えた。若い医者が5分ほど様子を見て、安静である事を確認した後、祖母の袖を捲った。私はそれまで気づいていなかったが、そこには注射器と機械があった。その機械は注射器に入ってある薬を一定時間にゆっくり注入するためのものだった。医者はこの薬は心拍数を上げる薬なのだが、家での使用はできない為、ここで外す旨を伝えた。親父は再度家での使用は不可能である事を確認した後、お願いしますとだけ言った。医者は慣れた手つきで針を抜いた。血が滴る前に小さな絆創膏を貼った。そこから30分ほど、医者は家に滞在した。急激な容態の悪化に備えての事であろう。医者と世間話をした。内容は家で看取れる事についてであった。今では家の畳の上でなんて難しい話だ。祖母は家に帰れてさぞ幸せだろう。そんな話だった。

 そうこう言っている内に時間が過ぎた。医者が去り、家族だけになった。祖母は前見た時より楽そうだった。大きく口を開けて呼吸しておらず、ワセリンも不要だった。それでも息はしているので、定期的に耳かきサイズの棒で、その先端にスポンジのついたもので口に水を含ませてあげた。


 祖母はここから2週間ほど息をして、心臓を動かしていた。訪問医にも驚かれた。なんとなく回復しているような雰囲気であった。だがその兆しは1日2日程で終わり、目を閉じる時間も日に日に長くなっていった。また、祖母の腕は点滴によってパンパンに膨れ上がり、体液らしきものが染み出していた。この時から祖母からは明らかになんとも言えない臭いを漂わせていた。

 ある夜、いつものように口を開けてもらい水を含ませていたが、突然強い力で噛み始めた。驚いて口を開けてと言っても聞かず、ついには唇から血が出てきた。数分後、口を開けてくれて収まったがこんな事は初めてだった。後で訪問医に聞くともう力の加減がままならなくなっているとの事だった。

 死の2日前、祖母は尋常では無かった。介護ベッドの上で体が震え、目をガッと見開き、瞳孔をギョロギョロ動かしていた。何かを探しているようにも思えた。落ち着かせようと家族総出でさすり、言葉を投げかけた。震えは止まったが、目はまだ落ち着かない。息が荒くなり出した。どうして良いか分からないため、さするしか無かった。いつしか疲れたのか、落ち着いて目を閉じた。何となく、もう最期なんだなと思った。

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