祖母
親父が祖母を東京から連れて帰ってきた初日、私が学校から帰宅すると衝撃を受ける光景がそこにあった。親父は尿バックを付けて車椅子に座っている祖母に向かって怒鳴っていた。まず、私は祖母が尿バックを付けていることに衝撃を受けた。私の知っている祖母は、腰を曲げながらもいつも立って歩いており、ニコニコしていた。私の目の前にいる祖母は、2度と立つことが出来ない状態になってしまったため、尿バックを付けたようだ。あの元気な祖母はどこに行ったのだろうか。
怒鳴っている内容は2つ。祖母の銀行口座にあった金が一切合切引き抜かれていた事と、祖母がこれからうちで生活することを一切理解してくれない事である。
銀行口座に関しては、約2年間かけて、全ての金が姉によって引き抜かれていた。その金は祖母の介護費に使うものだと認識していた親父は、祖母に向かって怒鳴っていた。どうして止めなかったんだ。祖母は金が引き抜かれていた事自体あまりよく分かっていない様子だった。姉に全てを任せていたから、姉に好きなように使いなさいと言ったとかなんとか。
私でも分かるこのやるせなさ。この怒りはどうすればいいか、私もよく分からない。姉によって引き抜かれた祖母のお金は、姉のエステ代に使われていたそうだ。加えて祖母の株も全て売られており、株の元金から全て姉が引き出して、手元に置いていた事も後から分かった。
私は人間を信用する事が出来なくなった。人の集合体である社会なら、決まりを破る人間はいるだろうが、親族家族は信用して問題ないと思っていた。実際は違った。親父の姉という人間は、実の親の介護費のための金を簡単に使い始めた。私は人間というものが恐ろしく感じられた。
この時から、現実が疎ましく見えてきた。現実から目を背けるに当たって、ゲームというものは素晴らしいものだった。現実の疎ましさをまぎらわす事の出来るよい手段である事が分かった。娯楽には必ず金銭が伴う。現実から目を背けられるだけの十分な金銭は、学生の身分では持ち合わせていないものだ。どこかに無いものだろうか。
祖母がこれからうちで生活することを一切理解してくれない事もまた、深刻な問題であった。祖母の認識として、親父が無理矢理東京から連れてきたものだと言う日もあれば、ここはホテルで、数日後にはここを出ないといけないと言う日もあった。私は認知症の恐ろしさを知った。よくテレビで見た光景がいま目の前に広がっており、それをさらに煮詰めた様な悲惨な状況になっていた。
祖母が来て数日後の夜中、私は親父の怒声を聞いて飛び起きた。リビングに向かうと、既に私以外の家族は揃って親父と祖母を見ていた。親父は祖母に向かってまた怒鳴っていた。
「こっちも大変なんだ。夜中に頻繁にトイレに行きたいと言われても、起きて連れて行く俺らの身にもなってくれ。」
私はこれが姉がもう見れないと言った理由かと痛感した。実際近くに設置したポータブルトイレに介護用ベッドから起こして移動させても、尿は尿バックに流れて行くだけである。便のほうであれば良かったのだが、その時はそうでは無かった。
親父は怒鳴りつかれて、ポータブルトイレに座った祖母から離れた。私はゆっくり祖母の近くに行って、右手を繋いで満足したか尋ねた。それまで萎れた顔の祖母は、笑顔になって満足したよ。と返してくれた。こちらに来てから祖母との初めての会話だったと思う。ある意味私の全てである、穏やかな人間性が役に立った。
少し離れてそれを見ていた親父は、何か分かったようだった。その日からは祖母に向かって怒鳴るようなことをしなくなった。
その日からは、祖母と私はよく右手を繋ぐようになった。私は祖母を介護ベッドからポータブルトイレまで持ち上げて運ぶのと、飯を食わせる役割を担った。それからの生活が苦に感じた事はなかった。祖母が便を漏らす様になっても、家族で綺麗に洗った。その時に家族のおもてを見れた。
親父は祖母の弄便を洗うのを協力してくれる家族に対して感謝していた。私は祖母の便が付いた手をタオルで拭き取っている間、親父の笑っていた顔を久しぶりに見ることが出来た。母親と二人で祖母を看ている時に、また親父の愚痴を聞く事ができた。
私は両親から必要とされている事を何よりも喜んだ。祖母が家にやって来てからというもの、私は家族があの小学4年生よりも前のような関係性に戻ったようだった。
ある時、私のLINEの通知音が鳴った。祖母はその聞こえた音に反応して、"ヂャイン"って何だと聞いてきた。私は大層困った。LINEという友達と連絡できるものがあってね、と1から説明しても理解した様なしてない様な反応をされた。それにしても"ヂャイン"と聞こえたのはとても面白かった。
こんな日もあった。夜に私は祖母の近くで親の帰りを待っていた。祖母は何の前触れもなく私の奥の方を指差し、あれは誰だと言い始めた。私は咄嗟に指差された方に振り返ったが、誰もいなかった。私は誰かいるのか尋ねると、うんと答える。これは困った。私は臆病なので、もう後ろを振り向けなくなった。祖母の顔の角度が段々と私の奥から左隣ぐらいまで変わり、それはそれは冷や汗をかいたものだ。祖母は私の左隣を見て、もういなくなったのか、私の方を見る様になった。後で訪問医に聞くと、高齢者が誰か見えることはよくある事だと言われた。私にとってはよくあっては困ると思ったが、これも介護の一部かと納得した。
祖母は冷たい飲み物が嫌いだった。だが唯一ノンアルコールビールには目がなかった。それを知ることになったのは、家族全員で鍋を囲んだ時であった。
親父は生まれつき肝臓のアルコールを分解する機能が弱いので飲めず、母親は酒癖が悪いので家では滅多に飲まない。そんなこともあってか、我が家ではノンアルコールビールを重宝する。ノンアルコールであれば、私でも飲める。親曰く最近のノンアルは本当にビールと遜色ないくらい似ているらしい。そうやって家族の会話の弾ませることができるビールというものは私にとって特別なものの一つであった。
その日もノンアルを飲みながら楽しんでいたが、急に親父が祖母に一口どうだとコップを手渡した。祖母はそれを少しずつ飲み始めたが、一向にコップから手を離す気配がない。冷たい飲み物をほとんど口にしない祖母が飲めるとは思わなかった。飲めるのかと聞くと、祖父が飲んでいたからとの事だった。驚きと共に、飯の楽しみが一つ増えた。
家に来てから祖母は飯を食べるし、段々と家に慣れて来て大人しくなっていった。大人しくなっていったから、私たちも祖母と積極的に話す事が無くなっていった。
私は祖母の顔を見て用を足したいかどうかまで判断が付くようになってしまった。必ず私からトイレに行くかと尋ねて、祖母はそれに相槌をうつだけになってしまった。だんだん少食になっていった時も、祖母のいらんの一言しか喋らなくなった。
祖母と生活をしていくうちに、ある事に気づいた。祖母は私の名前しか覚えていないという事だ。初孫かつ長男であるから、認知症の祖母であっても忘れなかったんだろう。言葉を話さなくても、私の名前だけは覚えていて呼んでいた。私だけである。親父や母親、妹の名前はさっぱりであった。
祖母にあれだけ尽くした親父は、ヘルパーさんだと間違われていた。母親も妹も同じくである。親父に言われた、妹があまりにも可哀想だの一言は私の頭を強く打った。私に言われてもという話ではあるが、親父も妹と同じ気持ちである事は確かであった。
1度だけ祖母と外出した。これから冬に入るから寒くなる前にということであった。車に祖母を乗せて、駅前で車椅子に乗せ替えた。そのまま駅前のDOUTORに入った。私はコーヒーとベイクドチーズケーキを頼んだ。祖母は何も食べなかったが、ニコニコしていた。私の食事を見ているだけで嬉しいらしい。
食べ終わった後、DOUTORを出てもう一度祖母を車に乗せた。祖母を公園で降ろして、一緒に散歩する事にした。公園には色鮮やかなコスモスやマリーゴールドが脇に花開いており、祖母が見える様に出来るだけ寄せて車椅子を押した。その後しばらく公園で日向ぼっこをして、また春にでも行こうと言う話をして帰ってきた。私にとってこの時が一番幸せであった。
冬に入った。祖母はほとんど言葉を発さなくなった。飯の食べる量も減っていった。この時、家族は決断をしなければならなくなっていた。祖母が長生き出来るようにするために胃瘻をするかどうかの決断だった。食べる量が減って、体重も落ちていっている。胃瘻をすれば、祖母は生き続けることが出来る。祖母に長生きしたいかと尋ねると、長生きは大変としか返ってこない。家族としては祖母には最大限楽しく生きて欲しいというのが望みであった。結局、胃瘻は家族の判断でしない事になった。
ではあるが、食べる量が減っているのは大変よろしくない。そこで、高カロリーの栄養補助食品を訪問医に勧められた。とりあえず12個セットを買った。缶詰タイプで、中身は液体であった。チョコ、抹茶、ミルク味など様々あった。祖母にあげる前に私が全て味見する事にした。はっきり言ってどれもこれも甘すぎた。プロテインを飲んでいる様な感覚だった。
親父に正直な所感を伝えた。祖母にこれが合うのかどうか分からなかった。祖母がこれを不味いと言えば、こんな栄養補助食品ではなく他のを試す予定であったが、祖母は何も言わずに飲んでしまった。味覚が無くなってしまったのかと思った。顔を見ても嫌がらずに普通に飲んでいたので、これでいいのかと思い、祖母があまり食べない日はこの缶詰に頼る事になった。
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