第34話 筆頭聖女の引退



「セシリア、わたくしね。この紛争がひと段落したら、聖女から退しりぞこうと思っているの」

「……えっ」

「あまりにも長く、ここにいすぎてしまったわ」


 確かに実際、クリスティーナの言う通り、この大聖堂において彼女が群を抜いて年嵩ではあった。

 というのも、ほとんどの聖女は20代半ばで皆引退していくからだ。

 

 以前にも述べたように、この国において聖女というのは聖職者であると同時に職業婦人という色が強くある。

 神聖力を授かり、聖女として召し上げられることは名誉なことではあるが、それと同様に自らも子を成し、同じく神聖力の強い子供を産み育てるというのも大事な役割のひとつだ。

 なので、長く大聖堂で聖女として務めあげることよりも、子を産めるうちに相手を見つけて結婚するほうが聖女としては一般的なのだった。


「わたくしは、子供を産むことはできなかったけれど。でもそのかわり、ここでたくさんの子供たちを育ててきたわ」


 あなたもそのうちのひとり、とクリスティーナが微笑む。


 クリスティーナにもかつて、結婚を考えていた相手がいた。

 その相手は聖騎士団の騎士で、まさに今のセシリアと似たような境遇だった。

 ふたりが想いを添い遂げ――、ようやく、クリスティーナも引退を決意し、聖女を辞めて家庭に入ろうとしたタイミングで、相手の男性が不慮の死を遂げたのだ。

 それ以来クリスティーナは、失った相手の男性に操をたてて独身を貫き、今日まで聖女の務めと後輩の育成に力を注いできたのだった。


「わたくしはね、貴女のことが大好きなの」


 もちろん他の子も等しくみんな可愛いと思っているのだけれど――と、クリスティーナがいたずらげな笑顔で言葉をつづける。


「次の筆頭聖女はあなた。でもそれで、自分のうちに秘めた想いを諦めることはないわ」


 想いを添い遂げたいと思う相手がいるのだったらまっすぐに進みなさい。別にそれで、聖女をやりたいのだったら辞めなくても良い、諦めなくてもいいし、相手を支えたいと思うのだったらそうなさい。女神様はいつも、自らの子供たちであるすべての民の幸せを一番に思っているのですから――。

 

 まるで、本当の母のように。

 そして本物の女神のように。


 クリスティーナはセシリアの両頬にそっと手を添えながら、セシリアに向かってそう告げたのだった。




 ◇




 カラン、とグラスの中の氷が音を立てる。

 仕事を終えて部屋に戻ってきたセシリアがロックグラスに入れたお酒で、氷が溶ける音だ。


「っはぁ……」


 セシリアは飲んでいた。

 クリスティーナに昼間に言われたことを反芻はんすうしながら、指先でグラスの中の氷を転がして。

 もともと、仕事が終わって、部屋でこうしてちびちびをお酒を飲むのは嫌いではなかった――むしろ好きな方だった。

 ヴィクターがセシリアの生活に頻繁に踏み込んでくる前までは、あの散らかっていた部屋で、取り止めもないことを考えながら寝る前の時間によくこうしていたものだった。


 クリスティーナの引退。

 筆頭聖女になるセシリア。

 ――ヴィクター・ドヴォルザーク。


 本来であれば、望んでいた筆頭聖女になる機会が与えられたことに、喜ぶべき時なのに。

 今、セシリアの心を占めているのは、遠い帝国に赴いている、この家の家主のことばかりだ。


(会いたいなあ……)


 テーブルに突っ伏し、グラスを弄びながら、思うでもなく湧き上がる。

 一度そう思うと、酒の力も相まって、ヴィクターを思う気持ちがいや増してくる。


(…………うん)


 すっく、と立ち上がる。

 そうして、そうっと足音を殺しながら廊下を出ると、セシリアの部屋の斜向かいにある扉の前に立つ――。

 それは、今は不在の、この家の家主の部屋だった。


 普段の、シラフのセシリアであれば、けっしてこんな行動は取らなかっただろう。

 しかし、酒に酔って強くなった気持ちがセシリアの背中を押して、かちゃりとドアを開けさせた。


(――ヴィクター様の匂い)


 部屋を開けた瞬間に鼻先を掠めた、嗅ぎ慣れた匂い。

 それは、確かにここにヴィクターが存在したのだということを色濃く主張していた。


「……やっぱり。クリスティーナ様を説き伏せてでも。一緒に行けば良かったのかしら」


 そうしたら、こんな想いをすることはなかったのだろうか。


(でも。そうすると今度は、ミーナを一人にしてしまっていたものね……)

 

 だから、結局はこれが、一番良い展開だったのだと言い聞かせながら、室内のカーテンを開けた。

 閉じられていたカーテンを開くと、窓から寝台の上に月明かりが降り注いでくる。

 セシリアは、ぺたりと床に座り込み、顔だけを寝台に伏せて月明かりを見ながら、ヴィクターを思った。


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