第27話 口づけは段階的に

 しばらくして。

 ヴィクターの胸元で、「はあ……」と大きく息を吐く音が聞こえたかと思うと、見下ろしていたセシリアの後頭部が起き出す気配を感じたので、ヴィクターは彼女のために少しだけ身をひいた。


「落ち着きましたか?」

「はい……」


 ヴィクターのハンカチを両手に持ち、口元を隠したセシリアが弱々しく答えた。彼女が泣き出した時にさりげなく差し出したハンカチは、涙やらなにやらの水分でだいぶしっとりしているように見えた。

 その様子を見ながら、ヴィクターはセシリアの頬に残る涙の跡を親指でそっとこすり取る。


「すみません……。お恥ずかしいところばかりお見せして」

「構いませんよ。私の胸でよければいつでもお貸しします」


 男の胸なんて嬉しくもなんともないかもしれませんけどね、とヴィクターがおどけると、セシリアは一瞬キョトンとした顔をした後、ふふっと笑いを溢した。


「……ヴィクター様はお優しいですね」


 つい先ほど泣いたばかりで、多分に水分をたたえた瞳をふるわせながらそう告げるセシリアに、ヴィクターは「そんなことないですよ」と軽く答えた。


(……だって。こうして涙を流すセシリア様を誰にも見せずに独り占めしたいと思っている自分は。十分に利己的で欲深い)


 笑顔の裏で渦巻くそんな想いは、表情にも口にも出さないけれども。


「……。この顔では、もう会場には戻れませんね……」


 涙で潤み、すこし赤くなった鼻をハンカチで押さえながらつぶやくセシリアは、ヴィクターの目に無防備で可愛らく映った。

 いつもの聖女然としたセシリアではない、ちょっとおっちょこちょいでふわふわしている彼女は、かつて遠征に行った時に散々見知ってしまったヴィクターの好きな素のセシリアだった。


(……キスしたいな)


 という思いを、ぐっと堪える。

 胸の内がときめきでやばいことになっているのを隠しながら、ヴィクターは化粧が崩れて会場に戻れないというセシリアに「そうですね……」と、相槌を打つ。


「私も、挨拶したい方にはほぼご挨拶できていますし。セシリア様がよければ、部屋までお送りしてからお暇しようと思いますが」


 ヴィクターの言葉に、セシリアが口元に手を当てて、一瞬考えるような表情を見せる。

 今のヴィクターには、そんな何気ない仕草さえ可愛くて仕方なく見えた。


「そうですね……。わたくしも、挨拶しなければならない方には挨拶し終わっていますし。このまま失礼してしまおうかしら」

「では、いつでもご準備ができた時に。お送りさせていただきますよ、お姫様」


 と、またもおどけてみせるヴィクターに、セシリアがふわりと笑った。

 それは、セシリアの得意な、場を読んだ時に見せる大人の笑みでは無く、少女らしさの残る、あどけない心からの笑みだった。




 ◇




「ヴィクター様、ありがとうございます」


 パーティーを辞して、マーヴェル家のセシリアの部屋の前まで送り届けてくれたヴィクターに、セシリアは礼を言った。


「今日はゆっくり休んでくださいね。休暇は明日までですか?」

「いえ。明日は午前休をいただいて、午後から復帰しますわ。引き続きまた、よろしくお願いしますね」


 セシリアがそう答えると、ヴィクターは微笑むセシリアにくすりと笑い返し、彼女の頬のあたりに軽く口づけを落とした。


 そのままヴィクターはセシリアの耳元に顔を寄せ、息がかかるほどの距離で「……おやすみなさい、セシリア様。また明日」と囁くと、流れるようにセシリアの手を取り、その指先にも口づけをした。


 ――その、指先への口づけは。


 すぐに終わるのかと思ったのになかなか解放されることがなく。

 永遠にも思えるような時間が流れ、セシリアの胸の中に、やがて言葉にできないさざなみが立った。


「――では」


 私はこれで失礼します――、と。

 ヴィクターが指先へと込めた想いの時間に反して、去るのは一瞬だった

 動揺で胸をふるわせていたセシリアを残し、ついでに意味深な目線もちらりと残し。

 さっと踵を返してヴィクターがその場を去っていく。





(い……)


 ――今のは、いったい、なんだったのか。


(と――もだち? 家族? 家族ならばまあ、ありといえばありのような)


 友達でも、親愛という意味ならばありなのかもしれない。


 でも……、でも――?


 ――友達で、あんなに熱のこもったキスを指先にするだろうか。


 そんなことを考えながら、セシリアは遠ざかるヴィクターの背中を見えなくなるまでずっと見送っていた。




 「お嬢様」


 いつまでそちらに立っていらっしゃるのですか、と近くにいた使用人に声をかけられ、動揺も収まらぬまま室内へと入り。

 ドレスを脱ぎ、軽く湯浴みさせてもらい、何もかもがさっぱりとしたところで、ころりと寝台に横になり天井を見上げた。



(……あれは、なんだったのかしら)



 何度考えても答えの出ない問いを繰り返す。


 セシリアの知る限り、ヴィクターはこういった異性からの誤解を受けやすい行為をしないよう、普段から注意深くふるまうタイプだと思っていたし、今でもそう思っている。


 じゃあ――、じゃあ?


 ここ最近、一緒にいることが多いから親しみが湧いた、ということ?

 失恋で号泣したわたくしを可哀想に思って慰めてくれた?


 ――わからない。


 ただ、わかるのは、さきほどのヴィクターの行為で少なからず自分が動揺しているということ――、今も。


 寝台に寝転がりながら、そのことや今日一日のことを思い起こし。

 ふと無意識に、考え込むあまりセシリアは自分のくちもとに指の背を押し当てていたことに気づく。


 そう、ちょうど先ほど――ヴィクターが口付けていった場所に。


 それに気づき、思い返したらまた――、恥ずかしくなってゴロゴロとベッドの上を転げた。


 明日、また――。


 ヴィクターと会うのだろうか。

 会えるのだろうか。


 そんなことを思いながら、とろとろと眠りについた。

 決別の涙で疲れていた心は、柔らかく癒されていた。





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