富士山の頂上で「アホー!!」と叫びたい
梅竹松
第1話 富士登山を決意しました
私は
身長は女子の中では高めで、髪は腰まで伸ばしたロングヘア。周囲の人にはよく「キレイ」とか「大人っぽい」と言ってもらえるので、おそらく容姿には恵まれている方なのだろう。
また、高校生の頃から筋トレをしていたため、比較的プロポーションのとれた体つきをしていると思う。
外見ならちょっとだけ自信のある女子大生だ。
そんな私は大学に入学した頃、これから始まる新生活にわくわくしていたんだけど……入学から二ヶ月が経過して六月になった現在、私の心は梅雨空のようにどんよりと曇っていた。
なぜなら高校時代から付き合っていた彼氏に、先日あっさりフられてしまったからだ。
しかも私をフッた理由は、他に好きな女の子ができたから。
さらにその彼氏は、幼稚園の頃からずっと仲の良かった男の子。
そんな幼馴染みに予想もしていなかった理由でフられてしまったため私は今、悲しさと悔しさと憎しみの綯い交ぜになった複雑な感情に心が押しつぶされそうになっていた。
そもそもの始まりは約三年前。
高校生になってすぐの頃、彼の方から私に告白をしてきたのだ。
「ずっと好きでした。俺と付き合ってください」というあの日の告白は、今でも鮮明に憶えている。
私も彼に対して恋愛感情に似た気持ちを抱いていたので、告白された時は本当に嬉しくてその場で「よろしくお願いします」と答えた。
こうしてただの幼馴染みという関係だった私たちは付き合うことになり、恋人同士になったのだ。
それからの三年間は本当に楽しかった。
体育祭では一緒に盛り上がることができたし、文化祭では普段とは違う賑やかな学校を一緒に見て回ることができた。
特に彼と過ごした修学旅行は一生の思い出になったと言っても過言ではないだろう。
本来ならツラいはずのテスト勉強ですら、彼氏がいたおかげで楽しく前向きに取り組むことができていたのだ。
そして、高校三年生になってからは同じ大学に行くために一緒に受験勉強を頑張った。
高校卒業後に離れ離れになるのはイヤだったからだ。
それが勉強する時の最大のモチベーションになっていたし、彼も同じ思いで頑張ってくれていたように思う。
そうして必死に努力した結果、私と彼は見事同じ大学に合格した。
二人そろって合格したことを知った時は、本当に嬉しくて涙が止まらなかったことを覚えている。
四月から彼と一緒に楽しいキャンパスライフを送れる。そう考えると、大学生活が始まるのが楽しみで仕方なかった。
それから私たちは残りの高校生活を楽しみながら卒業式の日を迎え、春休みを経て晴れて大学生となったわけだ。
もちろん学部が異なるため、高校生の時と比べて一緒にいられる時間は減ってしまった。
だが、それでも選択科目の講義などで会えたり、お互いに講義がない時に一緒に過ごしたりすることはできるので、私は満足だった。
いつまでも彼と一緒にいられると本気で信じていたのだ。
しかし、入学してから約二ヶ月が経った頃。
私はあっさりとフられてしまうことになる。
他に好きな子ができたから別れてほしいと言われた時は本当にショックだったし、夢であってほしくて何度も頬をつねったものだ。
夢ではないことを認識した時は、私はおそらく抜け殻のようになっていただろう。
どうしても彼に好きな人ができたという事実を信じたくなくて現実逃避もした気がする。
あまりにひどい落ち込みようだったため、まわりが驚き心配するほどだった。
そんな失恋から数日が経過した今はだいぶ立ち直ることができてきた。
だが、完全に彼のことを忘れられたわけではない。
失恋の傷心が回復するにはまだもう少し時間がかかるだろう。
楽しかった私の大学生活はたった二ヶ月で一転してしまったのだった。
そして、現在。
「あ〜あ……明日も一限目から講義かぁ……」
アパートのベッドの上で仰向けに寝転がって天井を見つめながら、私は無意識につぶやいた。
彼氏にフられた日から一週間が経過したが、まだ陰鬱とした気持ちを引きずってしまっているのだ。
今は大学に行くのが苦痛でしかなかった。
何もする気になれず、薄暗い部屋の中でベッドに寝転がったまま無心でスマホをいじる。
別にスマホでやりたいことがあるわけではない。
ただ何も考えずネットの記事の流し読みしているだけだ。
だからおそらく読んだ記事の内容などほとんど記憶には残らないだろう。
本当に無駄な時間の使い方だ。
だが、時間がもったいないと頭ではわかっていてもネットサーフィンをやめることはできなかった。
そうしてどのくらいスマホをいじっていたか分からなくなった頃。
ネットサーフィンを続けた末に、私はとある記事にたどり着いた。
富士登山について書かれた記事だ。
「……ん? 富士登山……?」
ほとんどアウトドアの経験のない私だが、なぜかその記事には興味を持った。
そして、気がついたらその記事のページを開いていたのだった。
「すごい……みんな楽しそう……」
記事に掲載されていた写真には、生き生きとした表情の登山客たちがたくさん写っている。
己の足のみで頂上を目指す彼らの熱意は写真からでも伝わってくるし、何より日本最高峰の山に挑む姿は純粋にかっこよかった。
それに、記事には富士山を遠くから撮影したらしい写真も掲載されていたのだが、その美しさは思わず言葉を失うほどだった。青い山肌に頂上付近だけ白い雪が積もっている山は、芸術作品と言っても過言ではないだろう。
もちろん富士山の写真なら今までネットで何度も見たことがあるが、今は失恋の傷心を引きずっているせいか、美しい富士山の写真を見ているだけで傷ついた心が癒されていくような気がした。
「行ってみたいな……できれば頂上まで……」
ふと、そんな言葉が口から漏れる。
この山に登りたい。頂上に立ちたいという気持ちが唐突に湧いたのだ。
「そして頂上にたどり着けたら、アイツのこと悪く言ってやる……大声で『アホー!!』って叫んでやる……」
日本一高い山の頂上から元カレへの不満を叫べば、もしかしたらこの気持ちもすっきりするかもしれない。
失恋から完全に立ち直ることができるかもしれない。
なぜだかそんな気がしたのだ。
もちろんそれで気が晴れるという確証はないが、それでもその可能性が少しでもあるなら、挑戦してみる価値はあるだろう。
「……よし! 行こう!」
ベッドから起き上がり、私は富士登山に挑戦することを決意した。
かなり突発的な思いつきだが、その決定に不思議と迷いや躊躇は感じなかった。
そうと決まれば、さっそく準備開始だ。
今は六月の中旬。富士山の山開きは例年通りなら七月の上旬だから、山開きまですでに一ヶ月を切っている。
まだ具体的な日程は決めていないが、一応、六月中に富士登山のための装備を用意しておいた方がよいだろう。
夏が間近に迫った今の時期なら、スポーツ用品店に行けば登山グッズもたくさん売られているはずだ。
「確か明日の講義は午前中だけだったよね……」
明日は午前中しか講義をとっていないので、午後は完全にフリーだ。
つまり、大学が終わった後にスポーツ用品店に行く時間があるということだ。
これはもう行くしかないだろう。
「明日さっそく登山グッズを見に行こう」
そう決意した私はその日、普段よりずっと早い時間にベッドに入った。
布団をかけて目を閉じると、すぐに心地よい睡魔に襲われる。
彼氏にフられたあの日からあまり眠れなかった私だが、その日は久しぶりにぐっすり眠ることができたのだった。
そして、翌日。
すっきりとした気分で目覚めた私は、着替えを済ませ簡単な朝食をとってから大学に向かった。
富士山の山頂で元カレへの不満を叫ぶと決めてから妙に気分が晴れやかだ。
こんな気分で大学に来たのは何日ぶりだろう。
私が失恋のショックで落ち込んでいることを知っている人たちは、今日の私の様子を見て非常に驚いていた。
……まぁ、昨日までとは明らかに様子が違うのだから驚くのも無理はない。
心配をかけてしまった友人たちには、後日きちんとお詫びをしなければならないなと私は思うのだった。
その後は普段通りに過ごし、やがて午前の講義がすべて終了する。
私は荷物をカバンにしまうと、すぐに講義室を出て、大学を後にした。
向かうのは最寄り駅から数駅先にあるスポーツ用品店。
今日は、店にどのような商品があるのか、またどのくらいの費用がかかるのかを把握することが目的だ。
まっすぐ最寄り駅に向かい、電車に乗って目的の駅を目指す。
平日の昼間なので、車内は比較的空いていた。
そうして目的の駅で下車すると、徒歩五分ほどの場所にあるスポーツ用品店に向かって歩き出す。
この駅の周辺はかなり賑わっており、おしゃれな店も多いので、このあたりは大学生になってから何度も来たことがある場所だ。
どこにどんな店が存在するかはある程度把握している。
そのため迷うことなく、目的の店にたどり着くことができたのだった。
さっそく入店し、登山グッズ売り場へ直行する。
登山のハイシーズンが目前に迫っているためか、売り場は非常に充実していた。
「なるほど……これが富士山に登る時の装備か……」
始めて目にする本格的な登山グッズにテンションが上がるのを自覚しながら売り場を見て回る。
たくさんあって迷ってしまいそうになるが、とりあえず必要なのは富士山に登る時の服に、荷物を入れるためのザック、そして頑丈な登山靴だろう。
これだけは多少値段が高くなっても良いものを買うべきだ。
他にもステッキやヘッドランプ、サングラスに保温ボトル、ハイドレーションなどなど様々なグッズが売られているが、このあたりのグッズはすでに持っているもので代用できそうなので無理して買わなくてもいいかもしれない。
あれもこれもと買い込んでも、荷物が増えて当日動きづらくなるだけなのだ。
「これなら貯金で大丈夫そうね」
私には高校の頃からバイトで貯めたお金があるので、それを下ろせばちゃんとした登山グッズを揃えることができる。
これで装備に関する問題は解決だ。
「さてと……今日はこれで帰ろうかな」
買うべきものと大まかな値段は把握できたため、私は売り場を離れて店の出入り口に向かった。
そのまま店を出る。
そして、今にも雨が降り出しそうな灰色に曇った梅雨の空の下を駅に向かって歩き出すのだった。
それから一ヶ月以上が経過した七月の下旬。
梅雨はとっくに明け、連日のように猛暑が続く季節の到来だ。
朝から蒸し暑い日が続くこの時期に、私の通う大学は夏休みに突入した。
大学生の夏休みなのだから予定は目白押しだが、最大のイベントは何といっても富士登山だろう。
私は夏休みを利用して富士山に登ることにしたのだ。
すでに失恋からは立ち直れた私だが、まだほんの少しだけ元カレに対して未練があるのも事実。
その未練を完全に断ち切るためにも、富士山の頂上で「アホー!!」と叫ばなければならない。
そうすることで心のモヤモヤを晴らすことができれば、私はようやく彼を忘れられそうな気がする。
本当の意味で彼との恋を終わらせ、新たな生活をスタートさせるためにもどうしてもやらなければならないことだった。
ちなみに、今回は一人で挑戦するつもりだ。
登山の目的が『元カレへの不満を叫ぶ』ことだし、何より装備にかなりのお金がかかるため、友人を誘うことが憚られたのだ。
一人で登ることに不安がないと言えば嘘になるが、誰にも頼らず頂上まで登って下りてくることができれば、そのとき私は一回りも二回りも成長しているような気がする。
今は一度決めた『富士山登頂』という目標を達成することで頭がいっぱいだった。
「富士登山の日まであと数日……今のうちから体調を整えておかないとね」
富士登山のために今日までいろいろと計画を立ててきたし、装備も揃えた。
あと必要なものは、万全の体調だけだ。
最高のコンディションで日本最高峰の山に挑むためにも、体調管理にだけは気をつけようと私は考えていた。
そうして数日が経過し、富士登山当日。
私は普段よりもずっと早い時間に起床した。
前日は早めにベッドに入り、しっかりと睡眠時間を確保したので体調は良好だ。
起床した後は手早く朝食を済ませると、無地の白い長袖のシャツと紺色の長ズボンを着用してから、昨夜のうちに準備しておいたザックを背負う。
そして玄関で登山靴を履くと、アパートのドアを開けた。
その瞬間、眩しい太陽の光が全身に当たる。
都内は今日も朝から快晴だ。きっとこれから気温もどんどん上昇するのだろう。
「富士山も晴れるといいな……」
富士山が快晴であることを祈りつつ、私は最寄り駅を目指して歩き始めた。
そうして最寄りの駅から電車に乗ること数十分。
新宿駅で下車した私は、高速バスの乗り場に向かった。
都内から富士山へのアクセスは意外と簡単で、新宿からバスだけで五合目まで行くことができる。
もちろんバスの乗り換えもないので、非常に便利な交通手段なのだ。
「さすが夏休み……混んでるなぁ……」
私はまずバス乗り場の混雑ぶりに驚いた。
ここは、富士山だけでなくあらゆる場所へ向かう高速バスが発着しているのである程度混むことは予想していたが、まさかここまで人でごった返しているとは……。
人が密集しているせいか、このあたりだけ体感温度がさらに高くなっていた。
「みんな旅行にでも行くのかな……あとは実家に帰省する予定の人もいるのかも……」
そんなことを考えながら、予約したバスに乗り込む。
バスはほぼ満席で、車内は非常に賑わっていた。
これだけ混んでいるなら、おそらく相席になるだろう。
私は予約した席に座り、深く腰かけると、ゆっくりと目を閉じた。
富士登山の前に少しでも体力を温存しておいた方がよいと考えて、眠ることにしたのだ。
そうやって座席で大人しく待っていると、出発の時刻になったのかバスが動き始める。
薄目を開けたら、新宿駅がどんどん遠ざかっていく様子が見えた。
(いよいよ富士山……楽しみだなぁ……)
幼い頃から知っているのに行ったことのない富士山。
今まで遠くから眺めるだけだった場所に、私は今日、挑もうとしている。
不安や緊張も感じているが、それよりも今は期待感の方が大きかった。
(一体どんなところなんだろう……?)
バスに乗車している間ずっと、私は知っているようで何も知らない富士山という山のことを想像して、胸を躍らせていた。
新宿を出発してから約2時間30分。
ついにバスは目的地にたどり着く。
「ここが富士山かぁ……」
バスから降りた私は、周囲をキョロキョロと見回した。
「すごい人……」
まず驚いたのは登山客の多さだ。
富士山に挑もうとする人でごった返しており、日本人だけでなく海外からの登山客も多い。
正直、この混雑は予想外だった。
「さすが一番人気のルート……」
ここは山梨県にある吉田ルートの五合目。
最も人気のあるルートで、富士山に登る人の約六割がこの吉田ルートから頂上を目指すらしい。
人気の理由としては山小屋が多く救護所も存在するため初心者向きであることと、単純に首都圏からアクセスしやすいことが挙げられる。
新宿から吉田ルートの五合目までバスだけで行けるのだから登山客にはありがたい
手軽にアクセスできるというのが、このルートを選んだ最大の理由だった。
「とりあえず冷える前に厚着しておこうかな……」
吉田ルートの五合目の標高は約2300メートル。
七月下旬でも気温は10度前後しかないのだ。
幸い天気は快晴で直射日光が降り注いでいるためか、今はまだそこまで寒いとは感じないが、これから冷え込む可能性は高い。
だから私はザックの中から白いフリースジャケットを取り出して、重ね着をした。
さらに、顔や手など肌が露出している部分に日焼け止めクリームを塗る。高度が高くなるほど紫外線は強くなるので、高山に挑む時は紫外線対策が必須なのだ。
「さてと……準備はできたけど、まだここで体をこの環境に慣らした方がいいよね……」
ここは標高2300メートル。地上に比べて気温は低いし、空気も薄い。
スタートする前に体を順応させる必要があるだろう。
そう考えた私は、売店でお土産を探したり少し早い昼食をとったりしながら、体が順応するのを待った。
そうして一時間ほどが経過した頃。
「……そろそろ出発しても大丈夫かな」
だいぶ体もこの環境に慣れてきたような気がしたので、軽いストレッチを始めた。
ストレッチをしながら、自分の体の調子の最終確認をする。
体は普通に動くし、特に気分の悪さなどは感じない。体調は問題ないと判断してよいだろう。
「……よし!」
充分に体をほぐすと、私は売店で購入した金剛杖を持って登山口に向かった。
現在の時刻は正午前。
弾丸登山を避けるため、今日は本八合目にある山小屋で一泊する予定だが、今から出発すれば夕方頃には到着するだろう。
「ちょっと緊張してきたかも……」
初めての登山だからか、急に激しい緊張感に襲われる。
しかも私が挑まんとしているのは日本最高峰の富士山。
本当に登頂できるのか心配になってしまったのだ。
だが、ここまで来て怖気づくわけにはいかない。
少し不安だが、もう行くしかないだろう。
私は覚悟を決めて頂上への一歩を踏み出した。
いよいよ富士登山のスタートだ。
まずは六合目を目指して歩き始める。
このあたりは比較的歩きやすく、また周囲に植物も見られるのでちょっとしたハイキングで登ることができた。
(すごい……私、いま富士山を歩いているんだ……)
日本最高峰の山を自分の足で歩いている――それがなんだか無性に嬉しい。あまりに気分が良いから、まわりに登山客がいなければ鼻唄を口ずさんでいただろう。
天気が良く真夏の太陽が照りつけているおかげか、暖かく感じるくらいだし、五合目付近は思った以上に快適だった。
ただ、快適な環境でも空気は薄いので、地上と同じ感覚で歩くのは危険だ。
そんなことをすれば高山病にかかってしまう可能性がある。
だから私は深呼吸を心がけていた。
空気が薄い分、大きく息をすることで肺に取り込まれる酸素を増やそうという考えだ。
そうやって呼吸に気をつけるながら頂上を目指して登り続けていると、いつの間にか六合目に到着していた。
「ここが六合目……あっさり着いちゃった……」
ここまでは本当にハイキング気分で登れたので、少し拍子抜けしてしまう。
だが、富士登山はまだまだ始まったばかり。
ここからキツくなる可能性は充分にある。
体力が有り余っているからといって、気を抜いてはいけないだろう。
私は再び気合を入れると、七合目を目指して歩き始めた。
そして六合目を出発してから三十分ほど歩くと、予想通り少しキツくなってくる。
道に砂利が増え、斜度もキツくなって歩きにくくなり、森林限界を超えたために周囲の景色も殺風景なものに変わっていた。
しかも六合目から七合目へ向かう道は、五合目から六合目への道と比べて非常に距離がある。
登っても登っても次の目的地である七合目になかなか到着しないという事実が、精神的な負担となって私に襲いかかっていた。
そんな私を励ましてくれたのが、富士山から見える美しい眺望だ。
(いい眺め……)
眼下に広がる緑豊かな自然や美しいと形容するほかない富士五湖。そしてはるかに遠くに見える山梨の街並み。
どれも最高だ。
この景色を見ることができただけでも富士登山に挑戦した甲斐があったような気がした。
そんな最高すぎる景色を楽しみつつ、くねくねとした
金剛杖をついていれば体重を預けられるので、疲労はある程度軽減することができていた。
そんなふうに金剛杖に助けられながら何十分も歩き続け、ようやく七合目に到着する。
「つ、着いた……」
杖を両手で握りしめて体重を預け、私は一息ついた。
持参したペットボトルのミネラルウォーターで水分補給をする。
それから山小屋の方に視線を向けた。
「まずは焼印を押してもらおうかな……」
富士山では各山小屋で金剛杖に焼印を押してもらえる。
料金は一回200円から300円程度だ。
下山した後も思い出として残るので、記念に押してもらう登山客も多い。
五合目のスタート地点でこの焼印のことを知った私はせっかくなので押してもらおうと決めていた。
さっそく山小屋に足を踏み入れる。
ちなみに、五合目ですでに焼印を押してもらっているので、ここの焼印は二つ目だ。
山小屋は非常に混雑していたが、何とか二つ目の焼印をゲットすることができたのだった。
「よし……次は八合目ね」
山小屋を出て、次なる目的地をじっと見据える。
当然だが八合目は、今いる七合目よりもさらに標高の高い場所にあった。
しかもここからはゴツゴツとした岩が増え、斜度も今まで以上にキツくなるため、非常に過酷な道と言える。
もうハイキング気分で登ることは不可能だろう。
私はその場で屈伸をしてから、八合目を目指して足を踏み出した。
だが……
「はぁはぁ……キ、キツすぎじゃない!?」
八合目への道は想像を絶するほどに険しかった。
大きく鋭い岩がゴロゴロ転がっており、階段のようになっている場所もあるので、足だけでは登れず手を使わなければならない場面も多い。
登山というよりほとんどロッククライミングだ。
そんな過酷な環境を考慮してか、ここから先は山小屋の数が多くなり救護所も設置されているためこまめに休憩することができるのだが……それでも大変だった。
たかだか数メートル進むだけでもかなりの体力を消耗する。
ベテランの登山家らしき人はこの程度の悪路など物ともせずに進んでいるが、登山初心者の私はそんなにすいすい進むことはできず、スタート時に比べてペースは明らかに落ちていた。
「さ、さすが富士山……そう簡単には頂上まで行かせてくれないってわけね」
険しい岩の道に悪戦苦闘しながらゆっくりと上を目指す。
もはや景色を楽しむ余裕などなく、ひたすら無心で登るしかなかった。
そんな道なので、少し歩いただけですぐに息が切れてしまう。
だから、息が切れそうになる度に立ち止まって体を休めた。
登山では自分の体に気を使うことが最重要。疲れたら、ペースを落としてでもこまめに休憩をとるべきなのだ。
私は適度に休みつつ、ゆっくりと少しずつ八合目を目指して登り続けた。
そして、スタートから約四時間が経過した頃。
ようやく八合目に到着した。
「つ、着いた……八合目……」
ザックを地面に置き、乱れた呼吸を整える。
このあたりまで来ると、登頂を諦めたのか引き返す人も見られるようになった。
ここはもう標高3000メートルを超えているので、高山病にかかってしまったのかもしれない。
もしくは、ここまでの道のりが険し過ぎてこれ以上は体力が続かず登頂を断念した可能性もある。
いずれにしても、引き返す人を見て、富士山の過酷さを再認識させられてしまうのだった。
「ここで長めの休憩をとることにしよう……」
ザックから水と行動食を取り出し、立ったまま補給する。
補給が終わった後も、すぐには出発せずに山小屋の中を覗いたり焼印を押してもらったりしながら、しばらくの間滞在していた。
そうして充分に休息をとった後、私は再びザックを背負って頂上を見据える。
体調は良好だし、体力も回復した。
進んでも大丈夫だろう。
「……よし! もうひと踏ん張り!」
目指すは本八合目。そこにある山小屋で一泊する予定なので、今日の目的地まではもうすぐだ。
金剛杖を握りしめ、再び歩き始める。
ありがたいことに先ほどまでのゴツゴツとした岩は少なくなったため、ここからの道は比較的歩きやすかった。
とはいえ、3000メートルを超えている場所を歩くのだから油断は禁物だ。
私は今まで以上に呼吸に気をつけながら、自分のペースでゆっくりと長い長い葛折の道を登っていった。
そして周囲が薄暗くなる頃、ついに宿泊予定の山小屋にたどり着く。
「着いた……」
山小屋を前にした瞬間、気が抜けたのか、ここまでの疲れが一気に出たような気がした。
まだ登頂できたわけではないが、登山初心者の自分が一人でここまで来れたのはすごいことだろう。
なんだか自分で自分を褒めてあげたい気持ちになった。
「早く中に入って休もう……」
山小屋に入り、従業員に宿泊の予約をしていることを伝える。
すると、すぐに奥の部屋に通してもらうことができた。
この部屋で多くの登山客が雑魚寝をするため、部屋は広い。
だが、部屋には宿泊者用の布団が所狭しと敷かれているだけで、それ以外には何も見当たらない。
完全に寝るためだけの部屋だ。
そんな部屋の隅に荷物を置くと、私は夕食をとるため食堂に向かった。
頂上で御来光を拝むためには深夜に出発する必要があるので、夕食の時間も早めなのだ。
食堂に着くと、すでに夕食のカレーが用意されていた。
「わ〜美味しそう……」
何の変哲もないごく普通のカレーだが、標高3000メートルを超えた場所でちゃんとした食事ができるのはありがたい。
ここまで登ってきてお腹はペコペコだったので、すぐに平らげてしまった。
その後は歯を磨いたり軽いストレッチをしたり荷物を整理したりしてから、午後七時頃に布団に入った。
普段ならまだ起きている時間だが、明日の出発時刻は午前二時頃だし、何より他にやることがないのでもう就寝するしかないのだ。
他の登山客たちもすでに布団に入って体を休めている。
寝息を立てている人もいた。みんなここまで登ってきて疲れているのだろう。
私も布団に横になって毛布にくるまり、目を閉じて眠ることにする。
……が、困ったことになかなか寝つけなかった。
今日は明け方に起床したし、ここまでの疲労も溜まっているため眠気を感じてはいるのだが、まったく眠れそうにない。
普段の就寝時間よりずっと早いし、何より山小屋の部屋で雑魚寝という日常生活とはまったく異なる環境のせいで寝つけないのかもしれない。
だが、大勢の登山客が同じ部屋で休んでいるためあまり大きな音を立てると迷惑だ。
眠れなくとも、布団の中でじっとしているしかないだろう。
結局その日は寝つくまでにかなりの時間がかかってしまったのだった。
そして、午前一時半頃。
真っ暗闇の中、私は目を覚ました。
上半身を起こして周囲を見回すと、他の登山客も起きて何やらごそごそと自分のザックの中を漁っている。
今から頂上を目指すので、その準備をしているのだろう。
私も手早く準備を済ませ、最後にピンク色のダウンジャケットを着込むと静かに立ち上がった。
荷物を持って寝室を後にする。
なかなか寝つけなかったせいでほとんど徹夜したも同然だが、不思議と体は元気だった。
山小屋の出入り口に向かい、真っ暗な外に出る。
その瞬間、氷点下近くまで下がった気温と尋常とは思えないレベルの強風に襲われた。
「さ、寒っ!!」
あまりの寒さに体が縮こまってしまう。
気温が下がるのは想定済みなので厚着をしておいたのだが、それでもこの寒さには参ってしまいそうだ。
「昼間との温度差激しすぎじゃない!?」
昼間はそこまで寒いとは感じなかったのに、今はこれだけ着込んでいても凍えそうになっている。
夜の富士山は、昼間以上に過酷なのだ。
「歩けば少しはマシになるかな……?」
寒さに体を震わせながら何気なく空を見上げる。
すると、地上とは比較にならないほどのキレイな星空が視界に入ってきた。
「……わぁ! キレイな星空……」
満天の星空に思わず目を奪われる。
ここまでキレイな星空を見たのは初めてだ。
標高が高く空気が澄んでいるおかげで星がよく見えるのだろう。
夏の星座や天の川がはっきりと見えていて、しばらく夜空から目を離すことができなかった。
「さてと……そろそろ行かなくちゃ……」
もうしばらく星空を眺めていたい気分だったが、出発が遅くなると御来光に間に合わなくなる可能性が出てくるし、何よりじっとしていると寒い。
星空は歩きながらでも見られるので、体を温めるためにも出発することにしたのだ。
「次は九合目ね……」
午前二時。丑三つ時と呼ばれる時刻に私は登山を再開した。
さっそく九合目に向けて歩き出す。
しかし、登山道は御来光目的の登山客で渋滞していたため、自分のペースで登ることはできなかった。
それでも少しずつ進み、ついに九合目に到着する。
ここまで来れば、頂上までもう一息だ。
……だというのに、九合目から上はさらに登山客であふれ、今まで以上の大渋滞となっていた。
「もう頂上が見えてるのに……」
そう――頂上はすぐそこに見えている。
だが、そこまでに長蛇の列ができているのだ。
そのせいで歩いている時間よりも立ち止まっている時間の方が長いような気がする。
この極寒の中で立ち止まっているのは、はっきり言って苦行でしかなかった。
「うぅ……寒い……」
氷点下の気温と想像を絶する強風に、体は震え、指はかじかみ、体温はどんどん奪われてゆく。
さらに、ここにきて疲労や寝不足による影響が体に現れてしまったような気がした。
「寒い上に疲れた……もう立ってるのもツラい……」
膝が笑い、足の感覚がなくなってくる。
それでもかろうじて立っていられるのは、金剛杖に体重を預けているおかげだ。
しかし、限界ギリギリであることに変わりはなく、いつ倒れてもおかしくはない状態だった。
(頑張れ……頑張れ、私! 頂上でアイツへの不満をぶちまけるんでしょ……)
心の中で必死に自分を励ましながら、この最後にして最大とも言える難関に挑む。
ここまで来てリタイアなどしたくない。
絶対に登頂して、元カレへの不満を叫ぶんだ。
その一心で私はひたすらこの過酷な環境に耐え続けた。
(もうちょっと……もうちょっとだ……)
登山客の列は渋滞しているが、それでもまったく進まないわけではない。
牛歩でも確実に頂上には近づいていた。
そうしてどれだけの時間が経ったか分からなくなった頃。
狛犬の横を通り過ぎ、鳥居をくぐり、気づいたら私は山頂に到着していた。
「つ、着いたの……?」
すぐには登頂したという実感が湧かなかったため、キョロキョロと周囲を見回してみる。
しかし、どこにも登りの登山道は見当たらない。
私はようやく自分の足で頂上まで登ったことを自覚した。
「やった……やったぁ!」
嬉しすぎて思わず飛び上がってしまいそうになる。
日本最高峰の山の頂上に立つことができて本気で感動しているのだ。
ここまでの道のりは非常にキツかったが、登頂した今となっては良い思い出だ。
どんなにツラくても諦めずに登り続けて本当によかった。
今の私の心は、達成感と充実感でいっぱいだった。
「……それじゃあ、さっそく御来光を見にいこうっと!」
御来光まで残り数分ほど。
ちょうどよいタイミングで登頂できたと言えるだろう。
私と同じように御来光を見ようと登山客たちが集まっている場所があったので、その場所へ向かった。
そして、登山客の集団に紛れ込むと、東の空に視線を向ける。
そのままそこで静かに待った。
そうして待つこと数分。
暗い空が徐々にオレンジ色に染まり始めた。
ついに御来光の時刻となったのだ。
「わぁ……」
神秘的な光景に息をのむ。
寒さで手足の感覚はなく、足はガクガクと震え、今にも倒れてしまいそうなほど疲労困憊していたはずなのに、そんなことすっかり忘れてしまうくらい富士山の頂上から見る御来光は神々しかった。
もちろん私だけでなく、他の登山客たちもみな一様に東の空を見つめている。
それほどに美しく感動的な光景なのだ。
この光景を見て感動しない者はいないだろう。
国籍も人種も年齢も性別も異なる人たちが、今この瞬間だけは静かに御来光を拝んでいた。
それからわずか数分後。
太陽が完全に昇りきって山頂が明るくなると、登山客たちは示し合わせていたかのように解散して散り散りになった。
下山する者、仲間同士で談笑する者、お鉢巡りに挑む者など様々だ。
私はせっかくなので、もう少しだけ山頂に滞在することにした。
「ここから『アホー!!』って叫びたかったけど……ちょっと無理かな……」
一応叫べそうな場所を探して周囲を見回してみるが、山頂のどこを見ても登山客でごった返している。これは完全に想定外だ。
さすがの私も、これだけ大勢の人がいる場所で叫ぶ勇気はない。
世界一高い場所から元カレへの不満を叫ぶという本来の目的は断念するしかないだろう。
しかし、正直なところ、今はそんなことなどもうどうでもよくなっていた。
富士山の登頂に成功し御来光を拝めたという感動が大きすぎて元カレへの未練など完全に吹っ飛んでいるのだ。
これなら下山した後も、元カレのことは忘れて普通に生活できそうだ。
私はようやく失恋の傷心から完全に立ち直ることができたのだった。
「とりあえず寒いから動こう……」
足はすでに棒のようになっているが、それでも懸命に動かして頂上を歩き回る。
ここまで来た記念に写真を撮ろうと思ったが、手がかじかんでいて思うように動かず、スマホを取り出してカメラアプリを起動するという作業すら一苦労だった。
そんなふうに体の疲労や山頂の環境に悩まされながらも、いろいろな場所を見て回り、焼印を押してもらったり富士山頂郵便局で自分宛てにハガキを書いたりしながら山頂での時間を楽しんだ。
このハガキはきっと一生の思い出になるだろう。
その後、登山証明書を発行してもらうと、私は最後に本当の山頂である剣ヶ峰を目指すことにした。
本当の意味で日本一高い場所に行ってきたと言うためには剣ヶ峰に立つ必要があるのだ。
そうと決まったら、さっそく疲労困憊した体に鞭打って剣ヶ峰を目指し始める。
太陽が照らしてくれているおかげか、ほんの少しだけ暖かくなってきたような気がした。
富士山頂から剣ヶ峰はそこまで離れていない。
砂で歩きにくいが、ここまでの登山と比べたら全然大したことはなかった。
そして、ついに剣ヶ峰に到着する。
(着いた……剣ヶ峰……)
標高3776メートル。正真正銘、日本で一番高い場所。
そんな輝かしい場所に、私は今立っている。
富士登山開始から何度も感動するような出来事を経験したが、それらをはるかに上回るほどの感動が込み上げてきた。
(……そうだ! 写真を撮らないと……)
せっかく剣ヶ峰に立ったのだから、証拠の写真を撮りたい。
そう思った私は、誰かに撮影をお願いすることにした。
(……あの人にお願いしよう)
すぐ近くにいた、青いダウンジャケットに紺色の長ズボンを着用した男性の登山客と目が合ったので、笑顔で話しかける。
「あの……写真お願いしてもいいですか?」
スマホを差し出しながらそう言うと、
「いいですよ」
彼は笑顔でスマホを受け取ろうとした。
が、顔が近づいた瞬間、彼の動きが突然止まる。
そして、じっと私の顔を覗き込んできたのだった。
「あ、あの……何か……?」
その行動の理由が気になったので、躊躇いながらも訊いてみる。
その質問に、彼は慌てて答えた。
「い、いえ……美人だなぁと思って……」
「えっ!?」
予想外の言葉に顔が熱くなる。
困惑する私を見て、彼は今の言葉を失言だと思ったのか、すぐに謝罪してきた。
「あ……すみません。つい思ったことが口に出ちゃいました。初対面の人にこんなこと言われても迷惑ですよね……」
「そんな……迷惑なんてことは……」
別に迷惑とは思っていない。むしろ嬉しいくらいだ。
改めて彼の顔を見つめる。
よく見ると、かなりの好青年であることに私は気がついた。
表情と態度から推察するに、私とそう年齢は変わらないだろう。
背が高く、凛々しい顔立ちだが、控えめな態度は私のタイプですらあった。
そんな好青年から『美人』と言われたのだから、嬉しくないわけがない。
自然と顔がニヤけそうになるのを私は必死で抑えた。
お互い無言になってしまったため、少しだけ気まずいと感じてしまう。
だが、すぐに彼は私にとある提案をしてくるのだった。
「あの……もしよければ、一緒に撮りませんか?」
どうやら一緒に剣ヶ峰で写真を撮りたいらしい。
控えめかと思いきや、意外と積極的な一面もあるようだ。
私はほとんど無意識のうちに彼の提案を了承していた。
「はい……」
今、会ったばかりの異性と一緒にツーショット写真を撮るなんて普通なら考えられない。普段の私なら、初対面の男性からそんな提案をされたら間違いなく断っていただろう。
だが、この人となら一緒に写真に写りたいと無性に思った。
好みのタイプで、彼に興味を持ったからかもしれない。
この出会いは運命なのではないかとさえ感じていた。
一方、私の返事を聞いた彼は本当に嬉しそうだった。
「ありがとうございます! じゃあ、さっそく撮りましょうか!」
別の登山客にスマホを渡し、こちらに近づいてくる。
そして私の横に並んで立つと、スマホを渡した登山客の方に視線を向けるのだった。
つられて私も同じ方向を見る。
登山客は私たちがスマホのレンズに顔を向けたことを確認すると、シャッターボタンを押して撮影した。
「……ありがとうございました」
彼がお礼を言って、登山客からスマホを受け取る。
「ありがとうございました」
私もお礼の言葉を口にした。
その後、私と彼は並んで歩き始める。
「……そういえばまだ名乗ってませんよね。私は染田郁乃といいます」
「僕は
「いえいえ、私も嬉しかったので……それよりこの後はどうするつもりなんですか?」
お互いに自己紹介が終わったので、この後の予定について訊いてみる。
「山頂でやりたかったことはやったので、下山しようと思ってますよ。吉田ルートで帰る予定です」
「あ、私と同じルートなんですね」
彼が自分と同じルートで下山するつもりだとわかり、少し嬉しくなった。
「そうでしたか。……じゃあ、せっかくなので一緒に下山しませんか?」
「いいですね。そうしましょう!!」
もう少し彼と一緒にいたかったので、二つ返事で了承する。
こうして私たちは一緒に下山することになったのだった。
二人で吉田ルートに向かい、下山を始める。
下山しながら私はこの偶然の出会いに心から感謝していた。
そもそも私は失恋のショックから完全に立ち直るためにこの登山を計画したのだ。
それが今はこうして好みのタイプの男性と一緒に歩いている。
こんな出会いがあるなら、顔を泥だらけにし、疲労困憊した体で頑張って登頂した甲斐があったというものだ。
もちろんまだ付き合うと決まったわけではないが、もしもそういう関係になれたら楽しいだろうなとは思う。
彼が遠方に住んでいる可能性もあるが、今は世界中どこにいても簡単に連絡がとれるためそこまで問題はないだろう。
だが、そのためには連絡先を訊いておく必要がある。
このまま下山して別れたら、二度と会うことはないだろう。
そう思った私は、思いきって連絡先を訊いてみることにした。
「あの……連絡先を交換しませんか?」
「え……いいんですか!? もちろんです!!」
どうやら彼も同じ気持ちだったらしい。
喜色満面となって承諾してくれた。
お互いにスマホを取り出すと、連絡先を交換する。
充電が残りわずかで少し心配だったが、無事に交換は終了した。
「登録完了です!」
登録できたことを彼に伝える。
「こっちも登録できました。では、下山しましょうか」
「はい!!」
そうして私たちは、バスの発着する五合目に向かって下山を再開するのだった。
◇◇◇◇◇
富士登山から帰宅して数週間。
大学の夏休みも終盤に差しかかってきた。
私はというと、富士山で出会った彼と今もやり取りを続けていた。
彼も都内に住んでいる大学生だったので、この夏休みに何度も会って一緒に出かけることができた。
これは実質付き合っていると言ってよいだろう。
新しい彼氏ができたみたいで、なんだかすごく嬉しかった。
「そういえば、私たちって日本一高い場所で出会ったんだよね……」
ふと、そんなことを思う。
富士山の剣ヶ峰で知り合い、今もこうして交流が続いていると思うと、なんだかすごいことのように思えてきた。
もしもこのまま付き合うことになったら、私たちは日本一高い場所で出会ったカップルということになる。
そんなカップルはそうそういないだろう。
他の恋人や夫婦にはない特別感があるような気がして素直に嬉しかった。
そんなことを考えていると、私の住んでいるアパートの部屋に郵便物が届いた。
それが何であるかは事前に彼から聞いているので、中身は見なくてもわかる。
さっそく届いた郵便物を開けると、予想通り中には『富士山登頂証明書』が入っていた。
しかも、私が頂上で発行してもらったものとは異なり、この証明書は写真付きだ。
具体的には、剣ヶ峰で撮ったツーショット写真が付いている。
まさに記念の一枚と言える証明書だった。
「すごい……あの時の写真だ……」
そんな記念の証明書を見て、喜びが込み上げてくる。
実は富士山の頂上まで行ったことが証明できる写真を貼り付けてオンラインで証明書の発行を申請すると、その写真が付いた登頂証明書を自宅に郵送してもらえるのだ。
彼も帰宅後に申請したらしい。
そして、その証明書が今日届いたというわけだ。
剣ヶ峰で撮った写真なら彼から送ってもらったのですでに所持しているが、写真付きの証明書はスマホの写真とは違った魅力があるような気がする。
間違いなく一生の思い出として残るだろう。
私はしばらくの間、届いたばかりの富士山登頂証明書を眺めて、富士山に挑戦した時の思い出に浸っていた。
富士山の頂上で「アホー!!」と叫びたい 梅竹松 @78152387
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