第30話 朝の海


 さて、朝である。

 

私は今、入江の穏やかな海に浸かり、思考を巡らせる。


 む、水竜の身体で浸かる海水とは違い、肌によくその冷たさが染みるな。


 ぷかぷか浮かびつつ、少しづつ昇ってくる朝日を眺める。


「きゅい~」

「きゅ~」

「ぷーすす、すかーぷぷ」


 イルカ達は水中や海面で各々好きな姿勢でまだ眠っているようだ。


 海面でへそ天しながら眠る者、海中でだらーんと力を抜いている者、海底、サンゴ礁の隙間に挟まっている者、さまざまだ。



 私はゆっくり、少し深めの場所まで泳ぐ。


 透明と見紛う海中、サンゴの森は海が深くなったとたん、まるでサンゴの高層マンションを空から眺めているような光景に代わる。



「前の世界ならこの光景だけで少なくとも、10万円以上は取られるな」


 赤、青、ピンク。

 さまざまなサンゴの色が透明な海を飾っている。


 私は、人間の身体のまま、その深い海底へと潜りに向かう。


 潜水にはコツがある。

 人間の身体は基本的には浮くように出来ている上に、海水はそもそも浮力が強いからな。


 まず、呼吸を整える。

 深すぎず、浅すぎず。


 ここで、あまりに長い時間深い呼吸を続けると、ハイパーベンチレーションという、自分の呼吸の限界に気付きにくい状態に無意識に移行するので注意が必要だ。



 呼吸が落ち着いた後は、海面に浮いたまま、視線をゆっくり下へ、自分が潜りたい方向へ向ける。


 ここからは思いきりと慣れの問題だ。


 身体の力を抜き、一気に腰から頭までを下に向ける。


 直角にお辞儀をするイメージか。もしくは自分のパンツのポケットに手を突っ込んでそのまま逆立ちをする感じ。


 ここでためらったり、必要以上に力むと上手く潜れないので注意だ。


 後は足を逆立ちの要領で立たせる。


 この動きが成功すれば身体はその重みで一気に水の中に沈み込む。


 焦るな、ここですぐに足をばたつかせると、海面を叩くだけで意味がない。


 足を動かすのは、身体が沈み切った後。


 ぐっと水の中に引き込まれる、腕はまっすぐそろえて頭の上に突き出し、身体を1本の棒にするイメージ。


 とポン。


 そら、身体が沈んだ。

 さらに深く潜れるように、ゆっくり1回腕を大きく掻いて、足をゆっくり上下にバタ足。


 全ての動作はゆっくり、ゆっくり。

 つん――。

 水圧で、耳に違和感を感じる前に耳抜きを行う。


 慣れない内は、鼻を摘まんで鼻を噛む動作で良い。

 きゅう~っという感触と共に、耳の違和感が消えたら更に下へ。


 ああ、気付けばあれだけ見下ろしていたサンゴ達が目の前に。

 上体を逸らし、海中を泳ぎ始めよう。


 美しい。

 酸素ボンベなしでの素潜りは、海の静けさを教えてくれる。


 耳を澄ますと、そこにはただ大らかな海の音だけが聞こえる。


 ごおお、おお。

 水のうねり。

 ごり、ごりり、りりり。

 魚達がサンゴを齧る音。


 さあああああああこぽぽぽぽ。

 小魚の群れの中を、私はゆっくりと通過する。


 群れなす魚達が見ている光景を、私は共有する。

 これは、水竜の身体では味わえない、小さき人間が海に抱かれた時だけの体験だ。


 綺麗だ。

 ただ、圧倒的な海の中に私はいる。


 スキンダイビングの通信講座を受けていてよかった。

 それにしてもこのサンゴの森。

 行きたかった沖縄、慶良間諸島のガイドブックを思い出すな……。


 私に友人でもいれば見せてやりたくなるような光景だ。


 こぽ……。

 くるり、回転しながらさんごとさんごの谷間を泳ぐ。

 息がそろそろ限界だな。


 サンゴの森に囲まれたまま、私はゆっくり上昇し始める。


 こぽ、こぽぽぽ。

 朝の日差しが海面へ降り注ぐ。

 屈折した光がキラキラと海中に降り注ぐ。


 つぷ、つー。

 海面に近づくたび、耳の中にかかる圧力が小さくなり、耳管が膨らんでいくのを感じる、少しくすぐったくて心地いい。


 光がどんどん強くなって――。



「ぷはっ」


 穏やか、凪。

 私は背泳ぎの姿勢でそのまましばらく海に寝転ぶ。


 さて、そろそろ仕事を始めるか。


 寝ぼけているイルカ達を撫でたりしながら、そのまま岸を目指す。

 おおう、彼らのイルカボデイはつるすべだ。羨ましい。


 ざざーん、ざざーん。


 身体が重い、波打ち際に立つと感じる自分の重力が少し面白かった。


「あ、あ、あの、お、おはようございます……」


 背後から声がかかる、同居人のクリムだ。


「ああ、おはよう、よく眠れたか?」


「え、ええ、それはもう……えっと、サキシマさんは、泳がれていたんですか?」


「ああ、朝の海は良いぞ。君ももしよかったら少し泳いでくるといい」


「え、あ、ごめんなさい、私、実は、カナヅチでして……」


「む、それは、すまない、嫌な事を言ってしまったな」


「いえ、むしろ、魔術師なのに泳げないって方がおかしいです……えへへ。そ、それで、サキシマさん、今日は何をするんですか? 私、なんでも手伝いますよ!」



 ふんすと鼻息荒い同居人、しかし、うん、やる気があるのは素晴らしい事だな。


 さて、それでは始めるか。

 人手もできたことだし。

 せっかく異世界でスローライフチャンスなんだ。


 居住地の開拓を始めよう。


 私の夏休みは、これから始まるのだ。

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