第36話 当たり前ではない当たり前

「あれは、先ほどもお話した通り、本に載っていたお菓子を美味しそうだと覚えていて、見よう見まねで再現したものです。 もしかしたらその本が、歴代の聖女様の事を示した本だったのかもしれません。 王子妃教育で我が国の神殿と聖女の事を習う事もありましたから。」


 修道女見習として一年、最近ではすっかり使う機会を失っていた、淑女教育と王子妃教育の賜物である『表立っては決して動揺を顔に出すことなく、にこやかにそれらしい返答を上手に返す』処世術を使って答えた私に、なるほど、と言った顔をしたシスター・サリアは頷いた。


「確かにそうね。 ミーシャは博識だもの。」


「博識だなんてそのようなことはありません。 食い意地が張っていただけですわ。」


(本当は前世の記憶があります、なんて言えません。 ごめんなさい。)


 うふふと笑顔を浮かべて頷いて、私はそれよりも、と、話を変える。


「聖女様には困ったものですね。 そもそもここは修道院で、身勝手な我儘が通るはずもないと言うのに。」


 それには、シスター・サリアは溜息をついた。


「彼女はそもそも、なぜここに連れてこられたのか、何故こんなことになったのかが理解できていないから……。 それを含め説明しようとしても、聞く気もないのよ。 院長先生が何度現在の彼女の置かれている状況を、幼子に言い聞かせるように話をしようとしても、ベッドに入ってしまうの。 このような状況がまず不満で不安。 そのことでいっぱいいっぱいなのでしょうね。」


「……なるほど。」


 自分がどれだけ危ないことをしたか、そのせいで今どういう状況なのか。 それ自体が何故そうなのか、彼女にはわからないから理解もできないのかと納得した。


(この世界の常識は、彼女にとっての非常識……。 彼女にとってはすべてが初めて聞くことでしょうから、理解も納得もしがたいということか……しかしこのままではよくないのは確かなのよね。)


 小さくため息をついてしまった私に、シスター・サリアはこめかみを押さえながら、さらにため息をつく。


「そもそも、彼女はお腹に子供がいるという自覚もないようなのよ。」


 それには耳を疑った。


「え? でもそれは確定なのですよね?」


「そのようよ。 診察した王宮の侍医が診断したと聞いてるわ。」


「なるほど……。」


(言葉で『ご懐妊です』だけだものね。 妊娠検査薬で『妊娠しましたよ』とか、エコー検査で確認したみたいに証拠を目の前に示されたわけじゃないから、やっぱり理解しがたいのかしら……。)


 この世界の妊娠判定は、月の物が遅れていないか、味覚の変化や体調の変化を総合して判断している。


 前世の世界の様に確定診断があるわけではないのだが……まぁ、3か月のうちにあれだけの人数の男性と体を重ねていれば、彼女の健康状態に事情がない限りは、その可能性は高いだろう。 しかし精神的に大人とはいいがたい彼女の事だ。 検査したわけでもないのにお腹の中に子供がいるよ、と言われても、そんな自覚はないのかもしれない。


 そもそも、妊娠が自分の身に起きたことだと、解っていないことだってありうる。 健康な男女が体を重ねれば子供が出来る可能性がある。 そんな基本的な意味すら解っていない可能性だってある。


(そもそも、前世とこちらとじゃ、貞操観念からして違うから余計よね……。)


 結婚まで純潔を求められるこちらの世界と、そうではないあちらの世界。


 『愛を深める』『好きだから』。そんな理由で男性と体を重ねる知識はあって、前世でもひょっとしたら好きな人との経験があったのかもしれない。


 しかしこちらの世界では貴族は婚姻までは体を重ねるのは好ましくないし、女性に対しては特に純潔を重んじられる風習があるため、マミくらいの年頃の貴族の令息令嬢は『妊娠を前提とした性交方法』を褥教育としてしっかり習っている。


 そこまで考えた私は、あぁ、と自分で納得した。


(そもそも、聖女マミに対し、こちらの常識を『当たり前でしょ!?』という前提で話をするのが間違っていたのだわ。 あちらの世界は情報が多くある分、選択の自由もあるけれど、この世界は、本で調べたり、教えてもらわなければ情報が入って来ないし、そもそも得てもろくな避妊方法がない……。)


 リネンを片付けながら、褥教育の内容と、王都の『性』問題を思い出す。


 この世界には娼館がある。 詳しいことは省くとして、娼館のオーナーは、商品である娼婦に傷(いわゆる妊娠や性病)が付かないよう、いろいろと試行錯誤はしているそうだが、一般的なものは性交前に女性の胎内に粘り気のある植物の粘液を思いきり泡立てて入れておく、とか、子種を胎内ではなく胎外に排出するという、非科学的なものを真剣に行っている。 そしてその方法を知った者が、市井でその方法を流し、皆がなるほどとそれを試す。


 そのせいもあり、王都にある愛児院や養育院は、常に定員オーバーの状態だ。


 では貴族はどうかというと、そういう遊びをするときは、女性に対して性交直後に堕胎薬を飲ませている。 しかし現代社会の目線から考えればそんな成分もわからない物は眉唾物だし、そもそも粗悪な品も多く、服用した女性は、よく健康被害が生じることがあり問題視されているが、私も前世の記憶を取り戻すまでは、ただ、なるほど、そういうものなのかと思っていた。


(前世の記憶があるから、男尊女卑も甚だしいとは思うけれど、子が出来れば全部女性の責任、女性の不始末で、責められたり、後々まで苦労するのは女側だけなのよね。 まぁ、それは前世でも言えたことだけれど。 そうだわ、あっちの避妊具をこちらへもって来れれば、女性の健康被害も含め、もう少しましになるのではないかしら?)


 ふと、前世において一番有名であろう男性装着型避妊具を想像し、あれは基本的に天然ゴムが原材料だと思うけれど、いったいどうやって作っているのだろうと首をひねる。


(100%! とは言わないまでも、あれが一番手軽で、健康被害が少ないと思うのよね。 避妊はもちろん、性病も防止できるから、万々歳だと思うのだけれど問題は作り方よね……伸縮性と頑丈さ? いえ、そもそもあれをこちらの世界で作ろうとしたら、破廉恥な! って一蹴されて御終い……よね?)


 あれを作りたいんだけど、と書いた手紙を読んだ父親と弟の顔を想像し、手を出すのは一旦やめようと頭を振ると、はぁ、と溜息をついた。


 どちらにせよ、彼女とこちらの住人との知識や認識の差を埋めるところから始めないと、少なくとも聖女マミとは話ができない気がする。 しかしその点は、前聖女と親友と言い合えるほどの交流があった院長先生なら、他の人よりは、時間はかかるだろうが大丈夫だろうと考える。


「まずは聖女に、こちらの世界の常識や知識を与えながら、自分の置かれている状況や、妊娠の自覚を持ってもらうところからでしょうか。」


「そうね。 院長先生が一日2回、面談を繰り返しているけれど、彼女が理解できるのは何時になる事かしらね。 お産までには理解してくれるとありがたいわ……。 それにしてもごめんなさいね。」


「なにがですか?」


 急に謝られたことに首を傾げた私に、シスター・サリアはやや困ったように笑う。


「彼女に酷いことをされた貴女にこんな話を持ってきてしまって。」


「あぁ、いえ、大丈夫ですよ。」


 にこっと笑って、私は首を振る。


「確かに第一王子殿下に婚約破棄された原因の一端は彼女かもしれませんが、彼女の誘惑に負けた王太子殿下の責任だと思ってますので、正直彼女個人に対し思う事はありません。 夜会などでなく、別の場所で穏便に話し合いをしてほしかったとは思いますが、婚約破棄出来た事に対しては、怒るどころか感謝しています。 それに、彼女とは確かに学園や王宮で何度も会ってはいますが、直接何かされたと言う覚えがないのです。 しいて言えば陰口などくらいでしょうか……? しかし、王太子の婚約者として社交界にいた中で他の方にされたことを考えれば、彼女に言われた事など可愛いものですわ。」


「あら、そんな感じなのね?」


 意外だわ、と言った感じのシスター・サリアに私は頷く。


「はい。 ですからお気遣いなく何でもおっしゃってください。 まぁ、彼女の方が拒否するかもしれませんが。」


「そうね、たしかに。」


 私の言葉に、眉を下げて笑っていたシスターサリアが最後のリネンを棚に戻したところで、私が持ってきた洗濯物の入っていた籠は空っぽになった。


「これでおしまいね。 では、プリンの件は私が院長先生にお伝えしておきます。 ミーシャ、お仕事中に時間を取らせてごめんなさいね。」


 最初に来た時よりも穏やかに笑ったシスター・サリアに、私は頭を下げた。


「いいえ、こちらこそ。 思い付きで作ったもので面倒なことになってしまって申し訳ありません。 片付け、手伝ってくださってありがとうございました。」


「いいえ、こちらこそお邪魔してごめんなさい。 あぁそうだ、プリン、とても美味しかったわ。」


 そう言って、笑顔で先にリネン室を出たシスター・サリアを見送り、私は養育室に戻った。

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