第24話 彼女の行く末

 ローエンハム伯爵が書類にサインを入れている間に、扉をノックする音が聞こえて院長先生は立ち上がった。


 院長先生が自ら扉を開け、その前に立つ人物を確認したうえで中に招き入れる。


 恐る恐る入ってきた2人のうち一人が、ソファに座る人を見て小さく声を出した。


「……お父様、お母様……。」


「……マーガレッタッ!」


 声を聴いた母親は、振り返ってそこに立つ夜着に薄手のショールをかけたローリエ――マーガレッタ嬢を見て立ち上がると、よろめきながらも足早に彼女に駆け寄り、しっかりとその両腕の中に抱きしめた。


「あぁ、大丈夫?大丈夫ね……よかった、よかったわ。体はつらくない?お腹の痛みは?めまいや気持ち悪さもないかしら?」


「はい、はい。お母様、ご心配をおかけしました。皆さんが良くしてくださいましたので大丈夫ですわ。」


 急に抱き締められて、淡い茶色の瞳を見開いたマーガレッタは、母親の背に腕を巻き付けて何度も頷いて答える。


「アンヌも、どうもありがとう。」


「いいえ、私はお嬢様のお傍にいただけです。」


 アンヌ、と呼ばれたシモンが深く頭を下げた。


「お、お父様……。」


 母の腕の中からおそるおそる、自分に近づいてくる父親を呼ぶ声に、ローエンハム伯爵は妻ごと娘を抱き締めた。


「マーガレッタ。あの時はすまなかった。……長い間、本当によく頑張ったな。」


「……お父様……。いえ、いいえ。私も悪かったのです……ごめんなさい、お父様。」


「いや、すべては私たち家族の問題なのだ。誰が悪いというものではない。マーガレッタ、あぁ、顔色が悪いな。とりあえず二人とも落ち着きなさい。」


 書類を書き終えて、マーガレッタの傍に寄ったローエンハム伯爵は、沈痛な面持ちで2人の背中を擦りながらソファに座るように促す。


「これから院長先生から話があるんだ。」


「お話……?」


 そう繰り返したローリエに、ローエンハム伯爵が頷き、同じく院長先生も頷くと、ゆっくりと新しくお茶を用意しながら皆をソファに促す。


「さぁ、立ったままではお話も出来ません。ローエンハム伯爵夫人もマーガレッタ嬢も、どうぞお座りになってください。侍女の方もどうぞ。」


 お産直後、という事で青白い顔のマーガレッタ嬢は、母親と父親に挟まれるように長ソファに座り、侍女であるアンヌは同じ応接セットに座る事を辞し、端にある小さな椅子に座った。


「さ、どうぞ。体が温まりますよ」


「先生、ありがとうございます。」


 頭を下げたマーガレッタは、院長先生に促されてカップに口を付けた。それから一つ、ほっとしたようにため息をつき、そういえば、と顔をほころばせて、父と母を交互に見る。


「そういえばお父様、お母様。私の赤ちゃんには会ってくださいましたか?とても小さくてとても可愛いのです。私やお父様と同じ金褐色の髪で、瞳の色はまだわからないのですが……。」


「……マーガレッタ。」


 昨夜抱いた小さな赤ちゃんを思い出しているのか、抱っこする仕草をしながら穏やかに笑ってそう話すマーガレッタの名を、父親が呼ぶ。


「マーガレッタ。」


「こんなに小さいんですの……なのに本当に可愛くて。 あぁ、お母さまもこんな思いをして私を産んでくださったのだなと思いました。 なので私も、お父さまとお母様がしてくださったように、あの子を大切に……。」


「マーガレッタッ。」


「それから……え?お父様?」


 赤ん坊の事を嬉しそうに話すマーガレッタの手を強く握った父親に、びっくりしたような顔したマーガレッタ。


 その顔を辛そうに見つめながら、ローエンハム伯爵は娘に深く、頭を下げた。


「すまない。私たちはもちろんお前も、金輪際、あの子に会うことは出来ないんだ。」


「……ごめんなさい、マーガレッタ。」


「……え?」


 娘の手を握ったまま頭を下げたままの父親と、彼女の肩を抱きながらただ涙にくれる母に戸惑うマーガレッタ。


 ローエンハム伯爵は顔を上げると、状況が呑み込めていない娘の顔をしっかりと正面から見、口を開いた。


「マーガレッタ。あの子はもう、私たちの手を離れてこの修道院の子供になったんだ。お前の子ではなくなった。二度と会う事はない。」


「……修道院の、子……?」


 ぱしぱし、と、瞬くマーガレッタの口から漏れた言葉に、父親は『そうだ』と頷く。


「私たちはもちろん、お前も、今後一切あの子の事は忘れなければならない。いいか?お前は今、ここで病気療養をしているのだ。残り3週間、お前はここで病気療養をし、健康になって屋敷に帰るんだ。そしてその後は、従兄のハーディンと半年後に婚約をし、一年後には結婚式を行うと決まっている。」


 ぎゅっと、娘の手を強く握る父親の手。


「お前を守るためだ。解ってくれ。」


 キョトンとしたマーガレッタ嬢は、父と母、それから侍女アンヌと、そして院長先生の顔を見た。


「院長、先生?」


 表情が抜け落ちたマーガレッタに呼ばれた院長先生は、先ほどローエンハム伯爵とかわしたばかりの書類をマーガレッタの前に並べた。


「マーガレッタ・ローエンハム伯爵令嬢。こちらの書類を見てください。一通は、ここで貴女が産んだ子供の権利を、ローエンハム伯爵家はすべて放棄しアリア修道院へゆだねた事、アリア修道院は出生の秘密を守り子供を大切に養育を行うと誓約した書類です。そしてもう一通は、ローエンハム伯爵家から提出された今後、あの子に関わる事はないという誓約書になります。貴女はまだ学園卒業前の未成人のため、保護者であるローエンハム伯爵当主によってこの手続きを成されました。この2通をもって、貴女は『修道士見習ローリエ』から、『病気療養のため静養中のローエンハム伯爵令嬢』に戻りました。」


「え?……それでは……赤ちゃん……私の赤ちゃんは……?」


「アリア修道院にてほかの子供たちと同様、新しい親の手に渡るまでの間、大切に育てます。」


 その言葉に、マーガレッタの緑色の瞳が大きく見開かれ、わなわなと唇が震えた。


「い……。」


 ガタン!


 大きく音を立て立ち上がったローリエは、書類を手にし、破ろうと手を伸ばした。


「嫌です!嫌!私があの子を産んだのです、私が!私が頑張ってっ!産んで……なのに、なぜ!?」


 書類を引き裂こうとし、何度も手を動かすが、書類は形を変えるだけでびくともしない。


 こういう状況になっても破られることの無いよう、契約書は羊皮紙を使用しているのだろう。


 それでも、何度も、何度も、真っ白の手に力を籠め、手も、顔も真っ白くしながら書類を裂こうとした彼女は、それがかなわないと解ると、誓約書を放り出して父親に縋った。


「お父様!お父様、どうかお願いです!わがままは言いません!もう、悪いことはしません!何でも言う事を聞きますっ!どこかの後妻に出されても構いません!ですから!ですから赤ちゃんを私に育てさせてくださいっ!」


「それは出来ないのだ、マーガレッタ。」


 足元に縋り、泣いて父親に願う彼女に、ローエンハム伯爵は真摯に真っ直ぐ向かい合って、声をかける。


「いいか、マーガレッタ。父親のない子を、お前がこの先どうやって育てると言うのか。」


「手放すなんてできません、嫌です、嫌!あの子と引き離すと言うのなら、私をローエンハム伯爵家から除籍してください!平民になってあの子と暮らします!」


「そんなことは出来ないだろう?ローエンハム伯爵家はお前の兄が継ぐことが決まっている。お前は子と二人、兄の脛を齧りながら領地に引きこもるのか?それは現実的でないだろう?子を忘れ、望まれて嫁ぎ、幸せになってほしいのだ。」


 その言葉に目を見開いたマーガレッタ嬢は、縋っていた手をぐっと握りしめると、大きく振り上げ、父親に向かって振り下ろした。


「嫌いっ!」


 悲鳴と共に、ぼろぼろと涙が零れ落ちる。


「お父様なんて嫌い!嫌いよっ!赤ちゃんを返して!返してください!」


「マーガレッタ!お父様になんてことを……っ!やめなさい……っ!」


「かまわん、それで気が済むならやらせなさい。わたしにはこれの拳を受ける責任がある。」


 感情のまま、父親の胸に、肩に、拳を振り下ろすマーガレッタを止めようと動く伯爵夫人を止め、ローエンハム伯爵は拳を受けながら、冷静に言葉を続ける。


「マーガレッタ。今まで伯爵令嬢として何不自由なく育ってきたお前が、子を抱えて一人で平民として暮らすなど到底無理だ。働いたこともない、身の回りの世話の全てを侍女にやってもらった貴族の娘のお前が、子と平民となってどうやって金を稼ぐ?食っていく?住む場所は?働く先は?街に一歩出たところで、すぐに赤子諸共売られて、死ぬか、死ぬより辛い目に遭うかだ。そんなことになったら本末転倒だろう。」


 ローエンハム伯爵の声にも、彼女は首を振る。


「それでもかまいません!それでも!あの子を取られるくらいならその方がましです!」


「お前は、せっかく産んだ子もろとも死ぬと言うのか!」


「お父様!」


「マーガレッタ!」


 ぎゅうっと、マーガレッタ嬢を抱きしめたローエンハム伯爵は、半狂乱で息を乱している娘に言い聞かせるように優しく、その背を擦った。


「私たちの可愛いマーガレッタ……。お前が我が子を可愛いように、私たちはお前が可愛くて仕方がないのだ。お前には幸せになってほしい、お前には苦労を知らず育ってほしい。どんなにお前に恨まれても、憎まれても、私たちはお前の幸せを祈ってやまない……。あんな男と家のために、お前が不幸になるなどあってはならない、許せないのだ。いくらお前に人でなしと言われようが、私はお前の産んだあの男の子より、お前の方がこの命よりも大切なんだ。……お前の産んだ子は、きっと、神様が、院長先生が、良き親を与えてくださるだろう。私は、私たちは、お前の行く末の幸せを、考えているのだ……。」


「……マーガレッタ、私達をいくら恨んでもいいわ。でも、私たちは貴方を本当に愛しているの。あなたに幸せになってほしいのよ。」


 娘を抱きしめる父親ごと、母親は抱きしめ、ただひたすらに謝る。


「酷い親でごめんなさい、貴女に辛い思いをさせてごめんなさい。けれど、本当に貴女に幸せになってほしい……愛しているのよ。」


「……うっ、うあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 父親と母親の腕から逃げようともがくマーガレッタ様を、両親は拳を受けながらもずっと抱きしめ、謝っていた。


 彼女がそのまま意識を手放してしまうまでそうしてずっと抱きしめて謝って……やがて意識を手放し、静かになったところで、彼女を抱きしめ何度も謝っていた。


 そうして、後ろ髪をひかれるような表情のまま、何度も頭を下げ、彼女を置いて帰って行った。







「院長先生」


 もういいわよと言われ、小部屋から出た私は、青ざめた顔でソファに横たわる、マーガレッタ嬢に戻った彼女の涙を跡を拭いながら、問う。


「これが、正しく『彼女の幸せ』でしょうか?」


「ではミーシャ。貴方は彼女が自ら提案した『子を抱えて平民になる』と言う未来をどう思うかしら?」


 そう問われ、即座に首を振る。


 赤子とたった二人。当座の金、当座の住む場所を与えられたとしても、赤子を抱えた彼女に出来る仕事が市井にあるとは思えないし、社交界で生き抜いたとはいえ、穏やかで人柄の良い彼女が、悪い人間に騙され、子を売られ、自身もその身を売るような将来を回避できるとは思えない。


 貴族とはいかに守られた場所で日々を暮らしているか、知る貴族の令嬢子息は少ないのだ。


「正しく『これが正解だ』『幸せだ』という答えは、ここにはありませんし、私たちにそれを出す権利はありません。ただ、粛々と、親が子を思う気持ちに寄り添いながら、悩んで出した決定の手助けをするだけです。マーガレッタ嬢が子を思うように、ローエンハム伯爵は愛する娘を守りたかった。」


「……。」


 頷く私に、院長先生は言う。


「ローエンハム伯爵のおっしゃっていた従兄とは、5つ上の幼馴染の王都より遠い領地の子爵家の嫡男だそうです。彼女のすべてを知ったうえで、自分がと名乗り出てくださったそうよ。幼い頃から、彼女のことを好ましく思い、彼女が結婚したら自らも結婚すると、婚約者も決めていらっしゃらなかった。彼は生まれた子も引き取ると言ってくださったそうだけれど、そうなれば赤子の父親方の人間に子爵領を狙う隙を与えてしまうことになる。だから伯爵はそれを固辞されたの。」


「……そう、だったのですか。」


 確かに、その方が幸せになれる可能性は高いだろう。


 あの狡猾そうなエルセン伯爵だ。生まれた赤子が大きくなり、子爵家の嫡男となり、利が彼が当主になったり、不測の事態で当主代理が必要となった際に、彼は本当は自分の息子の子供なのだと名乗りをあげ、領地の乗っ取りをもくろむ可能性だってある。


 貴族として、決して隙をつくってはいけないから、決断したのだろう。娘に恨まれることになっても。


「貴族的に考えれば、その方がいいと、思いますわ。 ……けれど……。」


 生まれた子供は、どうなるのだろうと考える。


 父も母もいないで育つ子は。


 孤児院で見る子供たちは、訪問に行くと皆元気で、お菓子を取り合い、おもちゃを取り合い、仲良くしたり、喧嘩をしたりしていたけれど……その瞳に、うかがい知れないほどの悲しみの闇を見て取れたのも、事実だ。


「難しい、ですね。」


「えぇ、そうね。」


 そう話している間に、扉は再び叩かれた。


 侍女であるアンヌがマーガレッタを包む布と、人手としてダリアを連れてきてくれたのだ。


「さぁ、行きましょう。」


 眠っているマーガレッタを4人がかりで部屋に運び、彼女の傍に控えるアンヌを置いて部屋を出た私は、書類を持った院長先生と別れ、ダリアと共にいつもの仕事に戻ったのだった。

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