第7話 この修道院の事情
とん、とん。
とん、とん。
と、お尻をしっかりと支え、小さな体を縦に抱っこししっかりと自分の体を密着させ、背中を優しくたたいてやれば、バビーは大きくげっぷをした。
ついで、右隣ではシンシアが、左隣ではアニーが小さなげっぷをした。
「バビーは、とっても大きなげっぷね。」
その違いにびっくりして私が言うと、笑い声が聞こえた。
「バビーは男の子だから、何するにしても元気がいいのよ。」
シンシアを抱くマーナさんがそう言って笑う。
「一人ずつ、ミルクを飲む量も違いますからね。 この頃合いの赤ちゃんは、まだ上手ミルクを飲むことが出来なくて空気も一緒に飲み込んでしまうの。 だからミルクの後はこうして空気を出してあげて頂戴ね。」
シスター・サリアの言葉になるほど、と頷いた私。
「もし、げっぷさせなかったらどうなるんですか?」
「その時は、空気と一緒に、せっかく飲んだミルクを全部吐き戻してしまう事が多いわ。」
「まぁ、それは可哀想ですね。」
(せっかく頑張って飲んだミルクを吐き出すなんて、可哀想だわ。)
そう思った私にシスター・サリアは、教えてくれる。
「それにそれだけじゃないの。 吐いたミルクで喉を詰まらせて、死んでしまう事もあるの。」
「それは! そうなのですか?」
吃驚した私にの声にバビーも吃驚したようで体を震わせたので、皆で顔を合わせて『しぃ~』としてから、穏やかに話し出す。
「えぇ。 ここにいる赤ちゃんはまだ、自分で寝がえりも打てない小さな赤ちゃんたちよ。 特にシンシアは首も座る……まだ、しっかりと首が頭を支える事が出来ない状態から、なおさら危ないの。 だからこそ、私たちが慎重になって育てる必要があるのよ。」
「なるほど……それがこの愛児院のお仕事なんですね。」
「そうよ。 あら、抱っこが上手になりましたね、ミーシャ。」
にっこりと笑いながら戻って来た院長先生は、わたしからげっぷも終わってすやすやと寝始めたバビーを抱き上げてベッドに戻す、私に笑った。
「さて、ではこの愛児院と修道院について、夕食までの間、しっかり説明しましょう。 皆さん、それまでかわいい天使たちをよろしくね。」
「かしこまりました。」
「行ってらっしゃい、ミーシャ。」
「はい、行ってまいります。」
南に送られて、私は院長先生についてエプロンを外して洗いを済ませた後、入ってきた時とは反対側にある扉をでて、廊下を渡った一番奥の院長先生のお部屋に連れて行かれた。
「さて、ミーシャ、座って頂戴。」
「失礼いたします。」
促され、簡素なテーブルセットの4つあるうちの一つの椅子に座った私に、院長先生は何冊かの書類のケースを差し出してくれた。
「さて、ミーシャ。 赤ちゃんたちに接してみてどうだったかしら?」
「とても可愛らしかったですわ。 泣かれた時はどうしようかと思いましたが。」
「それはしょうがないわ。 泣くことも赤ちゃんのお仕事のひとつだもの。 他に、戸惑ったりする事はないかしら?」
「それは……。」
(もちろん、たくさんあるのよね。)
自慢ではないが私は公爵令嬢だ。
しかも王子妃、王太子妃になるべき者として育てられた、社交界に属する令嬢の中では最も位高いと評された身の上だった。
家でも、王宮でも、他人に世話をされることはあっても、他人の世話などしたことがない。
成り行きと、後の事を考えた自己選択の結果とはいえ、俗世の身分など関係なく、神に仕える女たちの牢獄ともいわれる修道院という場所の特性上、自分の衣食に関する事柄は、追々にでも覚えていかなければならないと思っていたが、まさかその前に他人の、しかも生まれて間もない子供の世話をするとは思っていなかった。
初めて触る赤ちゃんにも驚いたし。
そしてそんな赤ちゃんの食事の世話や下の世話をすることになるとは、修道院に入る前には想像もつかなかった。
そんな思いがつい、顔に出てしまっていたのだろう。
「その顔だと、すべてが意外だった、という感じかしら?」
「……お恥ずかしい限りではございますが、おっしゃる通りでございます。」
「社交の場ではないから、表情を出してもいいのよ。」
(……院長先生、底知れないわ。 全て見通されている気がする。)
たおやかそうな院長先生だが、なぜかこの人の前では背筋が伸びる。
このように人に関して【威圧】的なものを感じるのは、国王陛下、王妃殿下、教育係や、怒っているときの父母くらいのものである。
なんて考えてしまうくらい、院長先生には何かしらの【圧】を感じる気がする。
「そんなに緊張しないで頂戴。」
そんな私の気持ちがわかったのか、ふふっと笑った院長先生は私の前に飾り気のない、しかし綺麗な形のティーカップに入った紅茶を出してくれた。
「王子妃、王太子妃の教育を受けた賢い貴女の事だから、今は少々混乱していても、落ち着いた時には色々考えてしまうでしょう。 だから今のうちに、この修道院の事をきちんと説明をさせていただくわね。」
「はい。」
(……これは……余計な詮索をするな、という事かしら? 修道院なのに隠すべきことがある、と?)
背筋を伸ばした私に『そんなに緊張しないで頂戴』と言いながら、一つ目のファイルを開けてくれた。
「まずこのアリア修道院は、20年前に建築された前院長先生が#とある子供__・__#を守るためにその身を賭して作られた修道院と愛児院です。」
とある子供、という言葉が引っ掛かったものの、穏やかに話す先生に、私はただ頷く。
「貴女は慈善活動もしていたようだから知っているでしょうけれど、母親の諸事情……そうね、望まない出産や、経済事情、親の養育放棄などによって親から手放された子を育てるのが愛児院です。」
その説明には、私も頷いた。
「存じております。 国の事業としても、0~2歳までの乳飲み子を育てる愛児院と、3~6歳まで育てる養児院、学校に入れる7歳から16歳の成人になるまで入る養護院があるのですよね。」
「そうです。 そしてここは愛児院。 現在は3人の赤ちゃんをお預かりしておりますが、状況によっては6人まで、お預かりし育てる事を神に仕える修行として、請け負っています。 しかし、ここにはもう一つ、大切なお役目があるのです。」
院長先生そこで一度言葉を止めて、私を見た。
「大切なお役目、ですか?」
「ミーシャ。 貴女はこの修道院の、堅牢さと同じ修道院、もしくは子を預かる施設を見たことがありますか?」
「……いいえ。」
それには、首を振る。
そう、最初に感じた違和感はそこだった。
子を育てるための養児院や養護院は、確かに塀や柵はあるものの、外の街並み、人の雑踏が見えるような広々とした庭や遊具があったりして、明るく開放的な場所が場所が多い。
ここのように、高い塀と外部からの侵入を遮るような防護柵と、隣り合わせの騎士団の建物、並びあう者として定期的に警護が行われるような場所ではない。
「王都中心より離れているから、というわけではないのですか?」
「いいえ、それは建前です。 正しくはここに来る者を守るためです。 王都の中心部にある愛児院のそれとは違います。」
首を傾げた私に、院長先生は静かに告げた。
「それは、どういうことですか?」
「ここに収容される子供たちは、世に出すことのできない、貴族の血を引く子供を入れておくための場所なのです。」
「……それは……。」
私は口を手で覆った。
噂には聞いたことがあった。
身持ちの緩い令嬢や、身に降りかかった災難によって妊娠してしまった令嬢を預かる場所がある、と。
しかしまさかそれが、ここだと、気付けなかったことに頭痛がした。
足りない王太子殿下はもちろん知らなかったのだろう。
時間がなかったにしろ、完全に調査ミスである。
後で弟と額を突き合わせて大会議をしなくてはならなくなってしまった……いや、その前に弟は帰って来た父と母にこっぴどく叱られる、だろう。
(……私たちの馬鹿……)
額を押さえて唸る私の肩を、院長先生はそっと触れた。
「しかし子の抱える事情があろうとも、お預かりした子供を、心穏やかに、健やかに成長できるようにお手伝いする事、がここでのお務めであることに変わりはありません。 そのような場所に、高位貴族の令嬢である貴女が来てくれたことは、もしかすると、神のお導きではないか、と、私は感じました。」
「……それは……。 そうですね。 こんな偶然、ありえませんものね。」
「……まぁ最初は、貴方様もそうなのかと驚いたのも事実です。」
近く収容されると連絡のあった令嬢が来たのだと思ったのだと言う。
悩ましげに手を頬に当て、ふぅ、っとため息をつきながらにこっと笑った院長先生に、私はつい噴き出してしまった。
「……そうですね、あのように突然やってくれば、そう思われて当然だと思いますわ。」
お騒がせしてしまい、申し訳ありません、と笑顔のまま頭を下げた私の手をそっと両手で包んでくれた院長先生は、静かに微笑んだ。
「ミーシャ。 王宮で貴族の良いところも、良くないところも見てきた貴女でも、ここでは辛いものを見るでしょう。 辛い思いをすることもあるかもしれません。 それでも、貴方がここに来てくれたこと、私たちの仲間になってくれたことを、私は心から神に感謝しますよ。」
その言葉に、私も頷く。
「私は王太子殿下から婚約破棄されてここに来た身です。 何のお役に立てるかわかりませんし、皆様にご迷惑をおかけすることも多々あると思いますが、出来る限り頑張ると心に決めました。 よろしくお願いいたします。」
正直、時間がなかったこととはいえ、自分たちの詰めの甘さに後からお父様達のお怒りが目に見えるようだけれども、こうなったものは仕方がない、と、私は背筋を伸ばし、院長先生に頭を下げた。
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